狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

南から来た特攻隊!慶良間に散った伊舎堂陸軍大尉

2011-06-27 12:00:31 | 未分類

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八重山毎日新聞・伊舎堂用久顕彰碑建立へ 

 陸軍第1号の特攻隊長期成会が準備進める

 
 陸軍特攻隊の第一号隊長として旧日本軍白保飛行場を出撃し、戦死した石垣市出身の陸軍大尉・伊舎堂用久(ようきゅう)氏の顕彰碑を建立しようと、「伊舎堂用久中佐顕彰碑建立期成会」(三木巌会長)が準備を進めている。関係者と遺族が24日、旧白保飛行場近くで慰霊祭を行ったあと、顕彰碑の内容について話し合った。伊舎堂氏のおいに当たる伊舎堂用八氏(73)=石垣市登野城=は「歴史的事実を伝えることができれば」と話している。

 伊舎堂大尉は1945(昭和20)年3月26日午前4時、誠第17代飛行隊の隊長として隊員3人と特攻機で白保飛行場を出発。同日午前5時50分、慶良間郡西海上の米航空母艦に体当たり攻撃し、戦死した。24歳だった。出発前、「指折りつ待ちに待ちたる機ぞきたる 千尋の海に散るぞたのしき」と辞世の句を残している。戦死後に2階級特進して陸軍中佐となった。白保飛行場からは計31人が突撃死している。

 慰霊碑建立に対しては、「建て直そう日本」女性塾の伊藤玲子幹事長が「尊い犠牲の上に今の日本があることを忘れてはならない」として支援している。
 用八氏は「石垣島から31人が白保飛行場から飛び立ち、郷土や国家のため最初の陸軍特攻隊として戦死した。この事実を伝える慰霊碑ができればいいと思う」と感謝、「31人の名前を刻銘してほしい」と希望する。

                   ☆

慶良間島の集団自決が起きた昭和20年3月26日の未明、鹿児島を飛び立った多くの特攻隊兵士が、島を取り巻く米軍艦隊に突撃し散華して果てた。

北から南下した海軍特攻隊のことを知る人は多いが、沖縄南の石垣島白保飛行場を飛び立ち慶良間沖の米軍艦船に突撃攻撃をし散華した陸軍特攻隊のことを知る人は少ない。

しかも数少ない陸軍飛行隊第一号が石垣市出身の陸軍中尉であることを知る県民が果たして何人いるか。

沖縄戦で祖国防衛のため戦死した日本兵に対して沖縄県民の見る目は冷たい。

祖国復帰後、沖縄メディアのキャンペーンにより「残虐非道な日本兵」という歪曲報道により洗脳される県民が多かったも事実である。

その象徴的な例が『鉄の暴風』に出てくる、住民に自決を強要する悪逆非道な日本兵であり、「沖縄県平和祈念資料館」の展示で、壕の中で子供を抱く母親に銃剣を突きつける、悪鬼の形相をした日本兵の人形である。

伊舎堂大尉の顕彰碑の建立については「沖縄平和祈念資料館」の歪曲・捏造体質を白日の下に晒した『沖縄平和祈念資料館の真相』の著者である伊藤玲子氏が、支援しているという。

沖縄県民に忘れられている伊舎堂大尉については、過去のエントリーがあるのでご一読ください。

伊舎堂大尉が見た沖縄の空と海

 

 惠 忠久先生の告別式のご案内■

 

6月18日 86歳で逝去されました。
 先生は、戦後の沖縄の保守運動を牽引されて来られました。
 最後の集会は、5月3日の憲法記念日の特別集会でした。

 次のように告別式を行うこととなりましたので、ご案内申し上げます。
 日時:6月28日(火) 
    午後5時~6時
斎場:大典寺 (那覇商業高校隣り、福州園近く)
 住 所:〒900-0032 沖縄県那覇市松山1-9-1
 電 話  098-868-3491
 葬儀委員長 當山正範 携帯 070-5536-3868

 

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22 コメント

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ある巡り合わせ (太平山)
2011-06-29 14:25:51
幼き頃、住んでいた家の近くにイシャドーヤーという屋号の大きな赤瓦葺きの家があった。
住んでいた人が伊舎堂という姓でもないのに何故イシャドーヤーというのだろうかと当時は不思議に思った。今でも鮮明に覚えているのは庭に大きな桑の木がありよくバンキを採って食べたことである。宮古では桑の実をバンキという。古いあばら家だったせいかどうか住人はいくたびか替わり1966年第二宮古島台風(コラ台風)で桑の木とともに倒壊した。

私が伊舎堂中佐を知ったのは1966~1970年頃だと思う。宮古島戦記、石垣島防衛戦史が刊行された時であった。当時私は中学生、その本の中で虚空を見つる氏の精悍な顔にいたく魅入られ、特攻隊の隊長ということもあって関心を持った。平成8年頃、又吉康助著「千尋の海」を読み氏が昭和9年に宮古中学校に入学していたことを知り、宮古での氏のことを調べようと思った。しかし当時の氏を知っている人に会える事はなく、わずかに宮中、陸軍航空士官学校の後輩であったS氏だけが名だけを知っているという状況であった。(伊舎堂中佐は昭和10年12月に県立二中に転校しており、宮古中学校の在籍は一年八ヶ月である)

そんな折、14年程前だったか「千尋の海」を悪ガキ時代によく叱られた昔馴染みの戦記好きの近所のおじさんに見せたところ用久アザ(兄)ではないか!と大変驚いていた。(そのおじさんは長崎で空母等艦船を修理していたとき被爆したという経歴の持ち主である。爆風で足場が全てなぎ倒されたと生々しい証言をしていた。)

○○おじさんは知っているのですかと聞くと、知っているも何もそこに住んでいたのだと昔イシャドーヤーがあった場所を指して言った。妹も二人いたのではないかとも話されていた。鈍感な私もこの時ばかりは驚いて、あっそうか!だからイシャドーヤーというのだと合点した。半世紀以上も抱き続けた謎が氷解した訳である。それにしても、すぐ近くに氏が住んでいたとはと、ある巡り合わせに何とも言えぬ感慨を覚えたのである。

※伊舎堂中佐に関しては私もこのブログでコメントしたこともありますのでそれを紹介します。
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/edf402f5f183842402bcfd31d67be54c


特攻戦果 (太平山)
2011-06-29 20:09:27

沖縄戦陸軍特攻の先陣を切って白保飛行場を3月26日4時00分に発進した伊舎堂大尉の率いる誠第十七飛行隊九九式襲撃機4機、独立飛行第二十三中隊の飛燕6機は同日5時50分、慶良間諸島を遊弋する敵艦隊に突入体当たり攻撃を敢行する。

戦果は大型航空母艦一撃沈、大型航空母艦一撃破、中型航空母艦一撃破、戦艦一撃破と報道された。また他に直掩の任にあたった第二十三飛行中隊の塚本中尉は特攻の任務を付与されなかったにも拘わらず、進んで体当たり攻撃に参加し散華した。

では実際の戦果はどうだったのか、木俣滋郎著「陸軍航空全史」に拠ると次のような戦果があったと記されている。「九九式襲撃機の一機が北上し戦艦ネバタの後部三番砲塔右舷付近に命中、ネバタは高角砲の誘爆等で大火災を発した。また一機は軽巡ビロシキーの左舷吃水線付近に命中したが、信管不発で500kg爆弾は爆発せず、それでも軽巡ビロシキーは浸水のため左舷に5°傾き、他に駆逐艦一隻が損傷した」という。

また第十戦隊の100式司偵が空母撃沈の報を受けて戦果確認を行い2隻の艦船が炎上しているのを発見したことも記されている。

11機の中、3機が命中したことはかなりの高率である。如何に士気が高かったか窺える。特に九九式の一機が北上し戦艦ネバタに体当たりしたというのは、伊舎堂大尉ではなかったのかそう思えてならない。散華した英霊を以下に記す。

1.誠第十七飛行隊
陸軍大尉 伊舎堂用久(沖縄県石垣島)
陸軍少尉 川瀬 嘉紀(三重県)
陸軍少尉 芝崎 茂(埼玉県)
陸軍軍曹 黒田 釈(愛媛県)

2.独立飛行第二十三中隊
陸軍少尉 阿部 久作(北海道)
陸軍軍曹 須賀 義栄(千葉県)
陸軍軍曹 長野 光広(東京都)
陸軍軍曹 金井 勇(富山県)
陸軍軍曹 岩手 光守(慶尚南道)
陸軍軍曹 広瀬 秀夫(香川県)

合掌
3月26日 (和田好夫)
2012-08-19 00:48:24
石垣島の陸軍航空基地の名称は白保だったんですね。かなりいろいろなことがわかるまで時間がかかりますね。知覧の特攻記念館の遺影を見たとき、はじめて石垣というところから出撃してことを知りました。そして、その石垣が石垣島であることを知るまでされに10年ぐらいかかりました。それは、渡辺洋二さん液冷戦闘機「飛燕」366ページに書いてありました。偶然見つけたわけです。独立飛行第二十三中隊の須賀義栄軍曹は私の母の兄です。千葉県北葛飾郡二川村、戦後関宿町、今は野田市の出身です。小学生のころどうもこの叔父は戦死し、遺骨も残っていないとの話を聞きました。私の母は、昭和20年当時は、16歳で勤労動員にいっていたようで、たまに南方の乾燥バナナを持って帰ってくる兄が好きだったようです。戦死前にいったん帰ってきたときに、家の竹藪で軍刀を振り回した、折ってしまい、出撃前に母親に新しい軍刀を買ってもらったそうです。20ちょっとといえばうちの息子と変わらない年齢です。それにしても、突然の出撃で、家族は何も知らなかったようです。
何の偶然かはわかりませんが、私には石垣島出身の友人がおり彼の家を30年ほど前に訪ねております。このとき飛行機がおりた空港が、白保だったのでしょうかね。出撃のことは何も知らなかったのですが。
感謝 (太平山)
2012-08-22 11:45:52
和田好夫様

コメントありがとうございます。返信遅れまして申し訳ありません。遺族の方がいつかは見ることがあるかもしれないと思って名簿を記したのですが、念願叶って大変嬉しく思っています。

そうですか須賀義栄軍曹は母方の伯父さんなのですね。独立飛行第二十三中隊は誠第十七飛行隊の陰に隠れてあまり知られていませんね。特攻機数は6機と誠第十七飛行隊よりも2機多いです。本来が戦闘機部隊で特攻機の直掩が主務なはずですが爆装とされ直掩とともに特攻の任務も命ぜられてしまいました。

特攻後、そのことを知った入院中の馬場園隊長(P-38に撃たれ負傷)は「どういうことだ!」と八飛師司令部にどなりこんだと云います。須賀義栄軍曹が帰省中、家の竹藪で軍刀を振り回し折ってしまったことも何か感慨深いですね。特攻隊となったからでしょうか。その事は守秘となっていて家族にも話せなかったのでしょうか、何れにしても当時の須賀義栄軍曹の気持ちが解るようで貴重な話です。ありがとうございました。

話は変わりましてお尋ねの「このとき飛行機がおりた空港が、白保だったのでしょうか」との話ですが現在の空港は旧海軍飛行場跡地で白保陸軍航空基地は畑地になっています。新石垣空港がどの地にできるのかは何分、私は隣の宮古島に住んでいるため詳細は分かりません。

石垣島出身の友人がいるそうですがそれが縁というものでしょうね。伊舎堂大尉と同期に藤森正義という人がいます。長野県出身で新田次郎氏といとこにあたる方ですが、この方が中央気象台の課長であった新田次郎氏(藤原寛人)に沖縄に出張する際には伊舎堂中佐の遺族を訪ね焼香するよう依頼しております。

昨年末だったのか新田次郎氏の次男である数学者の藤原正彦氏が那覇市?石垣市?で講演されましたが、その中で氏がその事を話されると良いなと願っていました。私は聞いていませんので判りませんがおそらく話されてはいないでしょう。果たして氏自身、その事を知っているのかどうか興味があります。

それでは。
独立飛行第二十三中隊 (太平山)
2012-08-22 15:43:01

独立飛行第二十三中隊についてもう少し述べてみたい。同中隊は沖縄戦初期から航空作戦に深く関与し昭和19年10月10日の初空襲時に配備されていた唯一の陸軍戦闘機隊で、三式戦闘機「飛燕」9機を主体とする小さな部隊であった。

昭和19年2月に調布で編成されたといいますから、帝都防衛の飛行第244戦隊の支隊かあるいは兄弟隊となるであろう。ちなみに飛行第244戦隊にはB29を体当たり撃墜した那覇市出身の古波津里英少尉や南風原町津嘉山出身の新垣康雄少尉が所属していた。2008年5月に東京都調布市で発見された1t爆弾は古波津少尉が撃墜したB29のものである。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/index.htm

話を元に戻す。3月26日の特攻出撃時には独立飛行第二十三中隊は甲編成であった。甲編成とは特攻機1機につき1機が直掩するというものである。同中隊は8機が出撃しているが2機は戦果確認のため特攻任務を外されており直掩と特攻を課せられたのは6機である。したがって誠第十七飛行隊も6機が出撃する予定であった。

しかし実際には誠第十七飛行隊は4機しか出撃していない。そのことは2機はエンジントラブルで引き返したのかあるいは当初から機体故障で出撃しなかったことが考えられる。その中の一人である安原正文少尉は3日遅れの3月29日単機で出撃し奥武島付近で戦死、久保元治郎少尉、有馬達郎伍長は4月2日に嘉手納西方海上でそれぞれ特攻戦死している。

石垣島の誠第十七飛行隊、独立飛行第二十三中隊は共に4月8日までには全滅状態となるが、台湾での再編もままならず3月26日の特攻出撃が両隊の実質上の終焉であった。とりわけ本来の任務である直掩の外に特攻を課せられたのは苛酷と言えば苛酷である。馬場園隊長が憤慨するのも無理からぬ事で、さらに戦後も誠第十七飛行隊に比べ知名度が低いのも気の毒である。(私の思い込みかもしれないが)

和田好夫氏の今回のコメントで同部隊のことがさらに知られることを願って已みません。

追伸

狼魔人様、ご無沙汰しております。ダイナマイトの導火線に火がついたような状況でありますのでコメントもままなりません。お願い事があります。「ヒジャイさん」こと又吉康隆氏は「千尋の海」の著者である又吉康助氏のご子息ではないかと推測していますが、その事確認できないのでしょうか、お忙しいところお手数かけますがよろしくお願いします。
Unknown (狼魔人)
2012-08-22 16:55:41
和田好夫さん

古いエントリーに目を通して頂き感謝すると同時に、叔父様にゆかりのことが少しでもわかったとなるとブロガー冥利に尽きます。



太平山さん

お久し振りです。

太平山さんのコメントは以前の宮古島慰安婦の碑の件といい、今回といい保存資料として大変貴重な存在ですので、今後とも関連エントリーにコメントいただければ幸いに思います。

なお問い合わせの又吉康助氏とヒジャイさんの件については一両日中にお返事差し上げます。
Unknown (狼魔人)
2012-08-22 19:31:40
太平山さん

「千尋の海」の著者又吉康助氏に関する問い合わせに対して、ヒジャイさんこと又吉康隆さんから返事がありました。 父上ではないが親戚とのことです。 
太平山さんの慧眼、さすがです。

「沖縄に内なる民主主義はあるか」についての朗報もありますので、独断で又吉さんのメールをそのまま
紹介します。

           ★

≪びっくりした情報です。父ではありません。親戚です。「康」がつくのは一門です。
又吉康助氏はムートゥヤーつまり本家の人で那覇市の泊に家があります。
子供の頃はお祝いの時に何度が会ったことはあります。

沖縄教販と交渉をして、沖縄教販が沖縄の書店に販売することになりました。
来週から書店の注文を取るということです。
これでひと安心です。

                  又吉康隆 ≫


感激です (太平山)
2012-08-22 23:27:03
狼魔人様

こんばんは。早々の報告ありがとうございます。果報にて大変感激しています。和田さんへのコメントを書いている最中にふと頭に浮かびましたので尋ねてみようと思った次第です。しかし当たるはずが無いと半ば以上思っていましたが、これまでの経験からあるいは当たるかもしれないと少しは期待していました。

そうですか、康は一門の名前ですか。又吉康助氏は読谷村出身ですから康隆さんも当然本籍は読谷村となりますね。又吉康助さんは確か5年程前に亡くなられたと聞いています。間違っていたらごめんなさい。それにしても又吉一門には優秀な方が多いですね。

又吉康助氏は沖縄県立二中より陸軍士官学校に進み(55期)、高田の歩兵第130連隊に配属され連隊旗手、中隊長を歴補しました。19年には中千島ウルップ島も守備しています。南国育ちながら寒さには滅法強かったようです。

それからすると「ヒジャイさん」こと又吉康隆さんも気性は似ているかもしれませんね。本は沖縄教販から販売されるとの事、何よりの朗報です。盛況に売れることを願っています。又吉康隆さんの更なる御活躍を期待して今夜は乾杯します。

それでは。
ありがとうございます (ヒロシ)
2012-08-23 07:31:24
和田様、太平山さま、貴重な情報ありがとうございます。
太平山さまが気付いてくれた事で又吉さんの関係もつながり驚いていると同時に今生きている我々はご先祖様無しにはこの世に存在し得ないことが改めて認識されます。
戦時中の事や旧日本軍の事を「悪かった」と称している方達の先代、先々代には当時日本人ではなかったのでしょうか。
過去の歴史を生きてきた方々を非難する事は自らの存在を否定する事につながっている様に思えます。
壮大なドラマ。 (涼太)
2012-08-23 15:31:47
狼魔人様

盆休み明けで、機械の調整、事務処理でバタバタしていました。

大平山様からのコメントに始まり狼魔人様、和田様、又吉様が絡み壮大なドラマを見る思いで感動しました。
思えば、沖縄防衛に10万人以上の人たちが日本全国から行ったわけですから、狼魔人日記を読んで和田様と同じ思いの人も他にも多く居ることと思います。
その様な方達も是非コメントして欲しいですね。
摩文仁の丘にも47都道府県の慰霊碑がありますし、上原正稔さんが仰る様に戦争と言う極限状態の中で、駆け引きなしの人間のドラマが沖縄であった事に感動します。
先人達が命懸けで守った沖縄。
感謝と尊敬の念で一杯です。

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