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■13年間の沈黙■
物を書くことを生業とする者なら、自分の書いた著作への毀誉褒貶には素人が考える以上に敏感なもの。
地方新聞の文化面などでも、ある学者の著書に対しての批判や反批判の応酬は良く見られる。
そんな場合最初に批判した文に対する反論はあまり時間をおいては意味がない。
時機を逸して反論しても、忘れやすい読者の記憶から消えてしまうか、或いは自作品に対する批判をそのまま受け入れて敗北したともとられかねからである。
少なくとも批判されてから1年も過ぎてからの反論は事実上の敗北宣言とられるし、例え反論しても負け犬の遠吠えとも取られかねない。
ところが自作品を有名作家によって公然と致命的ともいえる批判を受けていながら沈黙を守り続け続け、10数年経過した後、やっと反論を始めた著者がいた。
1945年8月、『鉄の暴風』(朝日新聞、沖縄タイムス刊)の著者・大田(伊佐)良博記者のことである。
『鉄の暴風』発刊の27年後の1972年、作家の曽野綾子氏が同書を徹底的に批判した『ある神話の背景』(文芸春秋社刊)を発刊した。
新聞社をバックにした記者のプライドをかけ直ちに反論に及ぶかと思われたが、
太田氏が曽野氏の批判に対して反論を試みたのは何とそれから13年後の1985年になってからである。
太田氏は曽野氏の「『鉄の暴風』は伝聞証拠で書かれた読み物」だと、
沖縄戦記を自認する『鉄の暴風』としては致命的とも言える批判に対して何ゆえこのような長い沈黙を守っていたのか。
よくある論争で有名人の著作を無名の人物が売名行為で批判する場合がある。
その場合「売名行為に加担したくない」と批判された側が黙殺することが多々あるが、
曽野氏と大田氏の場合批判した曽野氏はその時点で有名作家であり、地方紙の記者である大田氏は全くの無名といってよい。
「売名行為に加担したくない」を13年の沈黙の理由にするには立場が全く逆である。
曽野氏の『鉄の暴風』批判は地元沖縄に大きな波紋を投げていた。
■仲程琉球大学教授の『鉄の暴風』批判』■
事実『ある神話の背景』を読んだ仲程昌徳・琉球大学教授(当時)は、次のように『鉄の暴風』の伝聞取材を批判した。
現在の沖縄の言論空間の異常な閉塞状態では考えられないことだが、
『ある神話の背景』(集団自決の真相)発売当時の1972年の沖縄には、地元の大学教にも『鉄の暴風』のデタラメさを公然と批判する良識派の学者がいた。
<太田氏が辛うじて那覇で《捕えた》証言者は二人であった。一人は、当時の座間味の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏であった。宮平氏は事件当時、南方にあり、山城氏は同じような集団自決の目撃者ではあったが、それは渡嘉敷島で起こった事件ではなく、隣の座間味という島での体験であった。もちろん、二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった>
<ルポルタージュ構成をとっている本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって、命令されたという集団自決神話をつき崩していくことであった。そしてそれは、たしかに曽野の調査が進んでいくにしたがって疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚(かんぷ)なきまでにつき崩されて、「命令」説はよりどころを失ってしまう。すなわち、『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改訂をせまられたのである>(『沖縄の戦記』仲程昌徳 )
ここで問題を整理するために、時系列で『鉄の暴風』関連の小年表を作ってみよう。
・1945年8月 『鉄の暴風』発刊
・1970年 『沖縄ノート』発刊 大江健三郎
・1972年 『ある神話の背景』 曽野綾子
【大田氏と曽野氏の論争ー沖縄タイムス紙上】
・1985年 4月8日~18日に掲載(4月14日は休載)。
『沖縄タイムズ』紙上で大田氏の反論。
「沖縄戦に“神話”はない」沖縄タイムス
それに曽野氏が再反論、「沖縄戦」から未来へ向って
・1985年 5月11~17日(12日は休載)。
太田氏が反論、「土俵をまちがえた人」
太田氏・曽野氏の論争について詳細は上記リンクで確認してもらうとして詳しいコメントは避けるが、
結論だけを記すと仲程教授の指摘を待つまでも無く、太田氏は曽野氏によって完膚なきまで論破されてしまっている。
■沖縄タイムスの逆襲■
ノンフィクションを書くのが本業のはずの自社記者の著作『鉄の暴風』を「良く出来た読み物」だとして致命的に批判され、困惑したのが発刊元の沖縄タイムスである。
13年もの間の臥薪嘗胆の結果が完膚なきまでの論破による敗北では納まりがつかなかった。
それでは沖縄タイムスがこれまで構築し県民を煽ってきた、
「日本軍は残虐非道である」という反日歴史観の根底が揺らいでしまう。
そこで沖縄タイムスが考え付いたのが作戦変更による「反日歴史観」への再挑戦である。
1985年の「大田、曽野論争」の3年後これまで何度も沖縄戦の資料に登場する元渡嘉敷島兵事主任の富山真順氏(旧姓新城)の口から唐突と思える証言が飛び出してくる。
これまでの富山氏の証言記録では見たことも無い「手りゅう弾配布証言」である。
沖縄タイムス紙面を舞台にした「大田・曽野論争」で完敗した沖縄タイムスは「富山証言」というおいしい「特ダネ」を敢て親会社の朝日新聞に委ねてその影響力に全てを託したのである。
■手りゅう弾軍命説の新登場(1988年)■
以後、「軍命あり派」の唯一の「証拠」とされる「手りゅう弾配布」の富山証言の登場である。
昭和63(1988年)年6月16日に朝日新聞に富山真順氏の証言として次のように掲載された。
<昭和20年3月20日に渡嘉敷島の17歳未満の少年と役場の職員に手りゅう弾が配られ、一発は敵と戦いに一発は自決用に配られた>
だが、富山真順氏は、昭和20年3月20日に手りゅう弾が配られたということをそれまで一度も話したことが無かった。
『鉄の暴風』発売後13年目に行われた「大田、曽野論争」から更に三年経って、唐突とも思えるタイミングで地元紙ではなく朝日新聞に「富山証言」は登場した。
唐突という理由の一例を挙げると、
昭和28年3月28日付けの『渡嘉敷島の戦争の実相』にある「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」では全く手りゅう弾のことは触れていない。
これまで富山氏は集団自決の重要証言者として頻繁に発言していながら「手りゅう弾配布」については始めての発言だった。
戦後43年経過して唐突に現れた富山証言は沖縄戦史の専門家と称する人たちの「軍の命令、強制」の唯一の論拠となって係争中の「大江・岩波裁判」の被告側の「証拠」にされている。
★資料1
「富山手りゅう弾説」を主張する「大江・岩波裁判」。
被告側証言者・安仁屋政昭沖縄国際大学名誉教「陳述書 」(2007年7月12日)抜粋。
4 富山真順氏の証言
さらに渡嘉敷島については、具体的な軍命令があった証拠があります。
(略) 富山真順氏の証言は、つぎのとおりです。
① 1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山氏に対し、渡嘉敷の住民を役場に集めるように命令した(非常呼集)。富山氏は、軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員」を役場の前庭に集めた。
② そのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まった20数名の者に手榴弾を二個ずつ配り、「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ」と訓示をした。
③ 3月27日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任の富山氏に対して軍の命令が伝えられた。その内容は「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。
④ 3月28日、恩納河原の上流フィジガーで住民の「集団死」事件が起きた。このとき防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の「自殺」を促した。
(略)
また富山氏の証言は1988年6月16日の朝日新聞(乙12号証)にも掲載されています。
資料2
戦後23年で初めて登場した「手りゅう弾軍命説」。
[朝日新聞1988年6月16日夕刊
軍の自決命令 私は聞いた…
渡嘉敷島の「住民集団死」
当時の役場兵事主任ら証言
呼集し手榴弾配る
「まず攻撃、残る一個で…」
沖縄戦初頭に沖縄の離島、渡嘉敷島で、住民三百余人が「集団自決」した。これが日本軍に強制された「死」だったのか、文字通りの「自発的な死」だったのか。沖縄戦の歴史的評価に深くかかわるとされながら、今ひとつ決め手の証拠を欠くまま論争が繰り返されてきた。が、最近になって、当時、渡嘉敷村役場で兵事主任を務め、「集団自決」の際に生き残った人が「日本軍は非戦闘員の住民にも自決命令を出していた」と初めて明らかにし、インタビューに応じてその詳細を証言した。戦後四十三年、沖縄戦には、なお多くの陰が残されているようだ。間もなく六月二十三日、沖縄の日本軍壊滅の日が来る。(藪下影治朗編集委員、写真も)
一日一便、那覇への村営定期船は、渡嘉敷漁港近くの岸壁から出る。漁協二階からは、渡嘉敷地区の集落、港、そして村民のいう「玉砕場」へと続く山なみが一望できる。漁協組合長で村議の富山真順さん(72)。事前の約束を得ていたのに、その口は用意には開かなかった。
「できれば話さずにおきたい。それが本心なので……」
陸軍を負傷で除隊した富山さんは、1942年(昭和十七年)、郷里渡嘉敷村(当時の人口約千三百人)の役場に入った。軍隊に詳しいので、翌年、兵事主任に任命される。徴兵のための兵籍簿の管理、予備役兵の定期点呼、出征兵士の身上調査など、村の軍関係事務のすべてを担当する重いポストだった。
渡嘉敷村史などによると、沖縄戦が始まった四五年(昭和二十年)三月当時、島には赤松嘉次大尉指揮下の海上特攻隊など約三百三十人と、招集された村民七十人の防衛隊などがいた。同月二十三日朝、島は猛烈な艦砲射撃と大空襲に見舞われる。日本軍と県民約二十万人が死んだ沖縄戦の始まりだった。島の集落はたちまち焼け落ちた。
「島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と近くの国民学校にいた軍から命令が来た」。
自転車も通れない山道を四の阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。青年、とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊へ取られて、残っているのは十五歳から十七歳未満の少年だけ。数人の役場職員も加えて二十余人が、定め通り役場門前に集まる。午前十時ごろだったろうか、と富山さんは回想する。
「中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ」
すでにない旧役場の見取り図を描きながら、富山さんは話す。確か雨は降っていなかった。門前の幅二ほどへの道へ並んだ少年たちへ、一人二個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。
「いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る一個で自決せよ」。
一兵たりとも捕虜になってはならない、と軍曹はいった。少年たちは民間の非戦闘員だったのに……。富山さんは、証言をそうしめくくった。
三月二十七日、渡嘉敷島へ米軍上陸。富山さんの記憶では、谷あいに掘られていた富山さんら数家族の洞穴へ、島にただ一人いた駐在の比嘉(旧姓安里)喜順巡査(当時三〇)が、日本軍の陣地近くへ集結するよう軍命令を伝えに来た。
「命令というより指示だった」とはいうものの、今も本当に健在の元巡査はその「軍指示」を自分ができる限り伝えて回ったこと、「指示」は場所を特定せず「日本軍陣地の近く」という形で、赤松大尉から直接出たことなどを、認めている。
その夜、豪雨と艦砲射撃下に住民は“軍指示”通り、食糧、衣類などを洞穴に残し、日本軍陣地に近い山中へ集まった。今は「玉砕場」と呼ばれるフィジ川という名の渓流ぞいの斜面である。“指示”は当然ながら命令として、口伝えに阿波連へも届く。「集団自決」は、この渓流わきで、翌二十八日午前に起きた。
生存者の多くの証言によると、渡嘉敷地区民の輪の中では、次々に軍配布の手榴弾が爆発した。
が、手榴弾が防衛隊員にしか渡されていなかった阿波連の住民の輪では、大半の住民は肉親を棒や石でなぐり、首を絞めた。その一人、沖縄キリスト教短大の金城重明教授(59)は、母と幼い弟妹の三人をなぐり、絞めて殺した、という。
「今だ」といったような自決の引き金命令が出たかどうか、はっきりしない。富山さんの一族は二つの輪になって、手榴弾を真ん中に投げた。が、発火操作のミスがあったらしい。富山さんの二個は不発に終わり、いとこのそれは爆発した。一族のうち十三人が死に、六人が生きのびる。
「日本軍のそばが最も狙われて危ない。二十三日の空襲、艦砲射撃後、それは住民の常識だった」
と金城教授はいう。
「命令されなければ。住民が、食糧も洞穴も捨てて軍陣地近くへ集まるはずはなかった」
と。
そして沖縄戦の研究者、安仁屋政昭・沖縄国際大口授(53)は住民集結命令の意味を次のように説明する。
「沖縄戦では住民のほとんどが軍に動員され、陣地造りや弾薬運びなどに使われた。住民が米軍の支配下に入ると、戦闘配備が筒抜けになると日本軍は恐れた。兵力のない渡嘉敷島では、それを防ぐ手は、集団自決の強制しかあり得なかった……」
インタビューの終わりに、富山さんに尋ねた。四十三年後の今になって、なぜ初めてこの証言を?
「いや」
と富山さんは答えた。
「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、あらためて証言しておこうと思った」
◇
■真実は墓の中■
>四十三年後の今になって、なぜ初めてこの証言を?
>「いや」
>と富山さんは答えた。
>「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、あらためて証言しておこうと思った」
富山氏は戦後新城から富山に改姓しているが戦後も渡嘉敷島の有力者で、島の知己に、
「真実は私だけが知っている。 その真実は私が墓の中まで持っていく」と語っている。
ということは朝日新聞へのインタビューには真実を語っておらず、真実は自分が墓の中まで持っていくととうのが真実だったのだ。
この経緯を富山氏から直接聞いた渡嘉敷在住の源哲彦氏が9月1日の沖縄タイムス「論壇」で次のように述べている。
富山助役、玉井村長(旧姓古波蔵)など真相を知る村人は「真実」は何も語らず「墓場まで」持って言った。
巷に溢れている「手りゅう弾軍命令説」は真実ではない。
【追記】2007年1月13日
事実誤認がありましたので下記の通り訂正と共にお詫びいたします。
「訂正」⇒大田良博氏は、1973年7月、琉球新報で曽野綾子氏に対する反論記事を載せていました。
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>十代の終わりの頃
私もその頃はやたらと沖縄関連の本を読んでいました。 『ある神話の背景』の前に同じ曽野女史の『生贄の島』を先に読んだ記憶があります。
勿論その前に『鉄の暴風』で洗脳されていましたが。(笑)
弁当を食べながらの日課にして頂いて大変光栄です。
愛媛の「教科書裁判」提訴は驚きですが、北海道、沖縄、愛媛と国の端に位置する県はおうろ市民が活動し易いのですかね。
今朝の琉球新報に小林よしのり氏が目取真氏の誹謗中傷に真面目に答えていますね。 必見です。
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重複してご案内になりましたらお詫び申し上げます。
なお、全く興味のない方は、削除してください。
失礼いたします。
13年間も、太田良博が沈黙していたと?!
ある神話の背景が刊行されたのは、1973年である。同じ年の1973年7月に、琉球新報紙上で「渡嘉敷島の惨劇は果たして神話か」という題で、反論を載せている。
太田良博著作集3を見よ。
ところでオヌシは何者か?
沖縄に住んでいるだけというプロフィールは、欺瞞的だぜ。沖縄に住んでいる大和人だと何故言えぬ?
>1973年7月に、琉球新報紙上で「渡嘉敷島の惨劇は果たして神話か」という題で、反論を載せている。
仰る通りです。
ご指摘感謝します。
当日記の事実誤認でしたので、本文でお詫びと共に訂正の「追記」を入れておきました。