三浦瑠麗「キャンセル・カルチャーはなぜ危険なのか」キャンセル・カルチャーは異端審問
「異端審問」の構造とほぼ同じ
キャンセル・カルチャーという言葉には様々な定義があるが、要は1つの発言や物の見方、つまり表現や意見などを理由にボイコットをしようとするものだ。
最近では、ナイキやDHCに対してキャンセル運動が発動された。
といっても、DHCの会長が排外主義的な意見の持ち主であることは有名で、活動した人がその商品を買っていたとは考えにくい。ボイコットは単に物を買うのをやめることだけではなく、発言を撤回に追い込んだり、公的空間から排除することを目的にしている。
現代ではSNSのハッシュタグ#が人々をつなげ、1つの標語でもって圧力を形成することができるため、努力せずにキャンセル運動に参加できるようになっている。そして、仮にごく少数の人しか参加していない場合でも、それが向けられる企業や個人には大きな圧力として感じられる。
キャンセル・カルチャーは「異端審問」の構造とほぼ同じであり、それが砂粒のような個人の集合体によって行われているために、暴力性がぼやかされている。
新教と旧教の対立の頃から、人間がやっていることは大して変わらない。
人権運動だから、環境保護だから、100%正しい目的のためにやっているのだから、という理屈を唱える人はいるだろう。実はこの考え方が一番危険だ。人間社会には100%潔白で公明正大な人などというものは存在しないにもかかわらず、自分の側が正義だと思えば、自分の醜さや悪意に気づかずに、あるいはそれに向き合うことなく、相手に人差し指を突きつけることができるからだ。この快感はやめられない刺激を生む。
差異化を放棄することは知性を放棄すること
圧力をかけて対象となる会社や個人を貶めることに続く運動の目的は、相手に何らかのことを無理やり「表明させる」ことだ。これは文化大革命のときの「自己批判」の手法と同じだが、そこにおいて、人間が積み上げてきた文明や叡智は消し飛んでしまう。なぜか。
物事をすべて、白か黒か、正統か異端かに分けてしまえば、その他の存在は消え、差異化する努力や知的営みには何の意味もなくなってしまうからだ。
そして、差異化こそが知性に必要なものであり、目指すところでもある。差異化を放棄することは、知性を放棄することにほかならない。
いつの時代も、そうした運動はなくならないだろうから、別になくせ、と言っているわけでもない。単に、キャンセル・カルチャーが繰り広げる「運動」に、知的な価値は見いだせないというだけである。
表現の自由とは、すべての表現が尊ばれるということではない。
どこかに美しい蓮の花が咲くことを期待しながら、場を確保しておこうということにすぎないのだ。
企業の事なかれ主義が「キャンセルカルチャー」を助長する
呉座勇一さんのツイートが炎上して謝罪に追い込まれた。彼はアゴラでも八幡さんと炎上騒ぎを起こしたことがあるが、元のツイートはこんな感じで、大した話ではない。
この騒ぎが大きくなったきっかけは、NHKが呉座さんを大河ドラマの時代考証からおろしたことだ。これは本人の申し出ということになっているが、「NHKに抗議しよう」というツイートがたくさんあり、電凸が来たことがトラブルの原因と思われる。彼の勤務先の国際日本文化研究センターが「厳重注意」の処分を発表したのも、電凸が原因だ。彼のツイートは個人的なもので、内容も彼の専門とは無関係なので、これは筋違いである。
森発言から始まった「ミソジニー」騒ぎ
こういう騒ぎは森喜朗氏の事件から一連のものである。これ自体は差別発言ではないが、一部のフェミ界隈がこれをミソジニー(女性蔑視)やジェンダーなどの大げさな言葉で騒ぎ始めた。
次いで東京オリンピックの開閉会式の演出統括だった佐々木宏氏が、渡辺直美さんをブタにたとえた昨年のLINEのメッセージを週刊文春に書かれた。この発言には渡辺さんが「私はこの体型で幸せ」として佐々木氏を擁護するコメントを出したが、彼はクリエイティブ・ディレクターを辞任した。
テレビ朝日の「報道ステーション」のCMも炎上した(これも元の動画は削除されている)。「ジェンダー平等は時代遅れ」というのは意味不明だが、意味不明なCMなんていくらでもある。ジェンダーだけが炎上して、テレビ朝日が謝罪するのもおかしい。
言葉狩りに安易に謝罪するな
以上の騒ぎが、ここ1ヶ月ほどの間に起こった。いずれもツイッター発の騒ぎで女性差別にからみ、当事者が職を追われるなどのペナルティを受けたことが共通している。いずれも些細な話で、ちょっと前ならツイッター上の騒ぎで終わっただろうが、それがネットからマスコミに延焼するのも共通点だ。
これは最近はやりの言葉でいえばキャンセルカルチャーである。昔の「言葉狩り」と同じだが、差別発言を糾弾して所属する組織から追放(キャンセル)させようとするのが特徴だ。昔のタブーは差別と韓国人差別だったが、今は女性差別である。
役所や企業は「差別」という言葉に弱い。昔は解放同盟が役所に押しかけて1日中糾弾集会をやるなどの騒ぎがあったが、最近は解放同盟の代わりにフェミの電凸が企業の悩みの種だ。差別用語については役所やマスコミも自衛して放送禁止用語などをつくったが、女性差別というのはほとんど意識していないので、いくらでも騒ぎを起こせる。
こういう風潮を助長するのが、企業の事なかれ主義である。その場をとりつくろうつもりで安易に謝罪すると、それが前例になって騒ぎが拡大する。アゴラも過去に慰安婦問題や蓮舫問題などで炎上したことはあるが、謝罪したことはない。謝罪するような記事は書かなかったからだ。企業はこういう抗議に対する窓口をつくり、安易に謝罪しないで当事者に事情を聞き、クレームに対しては毅然と対応すべきだ。
ご意見はアゴラサロンへ。
https://twitter.com/arimoto_kaori/status/1375795355799851013
中国に媚びるなら「美中」というアピールもありじゃないの。
「米国」が「美国」ってありえない 。
中国に媚びるなら「美中」というアピールもありじゃないの。
「米国」が「美国」ってありえない 。
大切な事なので「二階」言いました。
「大人たちには子を守る責任」の与那原町・島袋常幸さん(28)は、1月7日、3月5日に続き今年3回目の掲載。
「愛犬『クム』の行方を案じる」の南風原町・玉城亜紀さん(42)は、1月9、26日、2月21日、3月14日に続き今年5回目の掲載。
「ゲストハウスで観光客気分」の那覇市・野崎律子さん(51)は、1月23日、2月23日に続き今年3回目の掲載。
「看護学校生の未来に期待大」の名護市・吉川安一さん(81)は、2月2日に続き今年2回目の掲載。
「ミャンマー若者らにエール」の那覇市・大城良司さん(54)は、1月8、25日、2月20日、3月19日に続き今年5回目の掲載。
「高齢者同士支え合える世に」のうるま市・安里政弘さん(67)は、昨年11月30日以来の掲載。
「基地負担をヤマトゥに訴え」の豊見城市・大山隆さん(80)は、1月21日、2月23日に続き今年3回目の掲載。
「自然の乱開発 次世代にツケ回す懸念」の本部町・當眞友梨さん(18)は、今年初掲載。
「乗客のおじいさんのこと」の糸満市・赤嶺清さん(82)は、2019年11月20日以来の掲載。
カギカッコは投稿欄における見出し。
あるんですよ、昔から「差別」指摘言葉に弱いのが行政やマスコミで在ること、警察も例外ではない。
かつて福岡市役所が観光向けに架空の区を創出した、【可愛いこちゃん区】で住民登録を集った。
区長が人気の歌手グループ可愛いこちゃんだったので、直ぐ万人の桁の人口になった。
ところが、これが女性差別で在るとした3人のおばたんの直談判が市役所をねじ伏せて区が間もなく解散になったこと。
可愛いこちゃん区住民に解散を諮らなく、識者に聞くことも無く、市役所が独断決定で問題化した。
可愛いこちゃん表現が女性差別だとさ、ならば【可愛い赤ちゃん、可愛いこども、可愛い少年少女、可愛い大人、可愛いおじいちゃんおばあちゃん】も差別表現になるだろう、違うのか。可愛いこちゃん区には男以外に女も多かった。
然し、こう言う知見の欠片も無い言質が通るんだ。
なお、行政窓口や県庁外郭団体窓口で【差別だーっ 職業差別だーっ】と声を大に叫べば主張を聞いてくれることが起きる、逆利用が在ること。
特に、県信用保証協会や金融機関が差別言葉に弱いので効き目が強い訳さ。
そりゃ、どこの窓口でも突然「差別だーっ」と荒げたらみんなが驚くさ、そして窓口係がなんとか宥めようと懐柔して来る、それが奴らの狙いなんだ。
奴ら 似非なんだよん。こう言う人が世間にいる。
こう言うときの対処は、いわれなきことだから毅然と対峙することです。相手が本気で怒りだしたらしめたものです。
結果、40年以上前から被差別の公共設備改善工事が進展して生活環境が立派になった。それが逆差別だとする注文も他地域から出て来たこと。
被差別の住宅事情改善支援と称して、役場が無担保無保証人で一世帯300万円まで配った、役場が縁故債(銀行借金)で調達して融資の形を執ったが誰が返しますか。
それ以前に全国地名鑑を購入した先に銀行がいたこと、爾来、相当の間で地元支店長が部落集会所での研修会に参加して人権講習を受けていたこと。
そう言う時代が在った。ただ、申し上げたいのは被差別でも極一部の活動家が騒がしいだけで在り、それ以外の方々は我々となんら違いが在りません、当時からです。この誤解だけは解くべきです。
そして、当時から、被差別の人権回復活動を政治的に支援と利用するのが日本共産党だったから、ねじ曲がった活動になったのも事実で在ること。