昨年12月に沖縄県宜野湾市新城の普天間第二小学校の運動場に米軍普天間飛行場所属ヘリの窓が落下した事故から13日で1年がたつのを前に、同小の桃原修校長(59)は11日、報道各社のインタビューに応じた。事故後、米軍機が接近した際は児童が防衛局の監視員の指示で避難していたが、9月12日以降は自己判断の避難行動に切り替えた経緯などを説明した。「基地のそばで生きていく限り、危険を回避、察知する力を育てていきたい」と思いを語った。

事故後に造られた避難所の前で現状について説明をする普天間第二小の桃原修校長(右)と徳村篤志PTA会長=11日、宜野湾市新城・普天間第二小学校

 

 事故から約4カ月後の今年4月、同小に赴任した桃原校長は、児童が避難をする光景を初めて見た時、涙したという。「どうにかしたいと思った。(避難を)やらなかったら危険、やったら授業にならないという葛藤から始まった」と赴任時を振り返る。

 学校や市教育委員会、沖縄防衛局、同小PTAの4者協議で、避難用施設や学校位置表示灯などの設置を進めてきた。「本来なら避難施設も監視員も、学校にあってならない。何が正しいのかわからないことがあった」と難しい判断を下してきた苦悩を語る。それでも「他の学校と同じような日常に戻したい」との思いから避難態勢も見直した。避難指示を出していた監視員の配置も10月から解除し、段階的に事故前の状況に近付けてきた。

 事故後も、学校近辺を米軍機が飛ぶ危険性は変わらないため、児童個人の危険回避力を高めていく考えだ。「みんなが安全に教育を受ける権利が保障されるよう、考えをまとめ、推し進めていきたい」と決意を込めた。

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