狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

怪人・上原正稔 沖縄戦メモリアル構想

2009-07-31 16:52:07 | 未分類

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【動画】[沖縄戦集団自決の強制否定証言

1974年英国で制作された秘録第二次世界大戦の第22話、一億玉砕・日本銃後の記録から沖縄戦の集団自決に関する証言部分を抜粋
 
                  ◆

 以下は「ハーバービューホテルの決闘」第六章 沖縄戦メモリアル構想を加筆したものです。

                 

「1フィート運動」の事務局長の座を追われたその後の上原氏の活動に話は戻る。

反戦平和を売りものにする沖縄の有識者たちの策謀により、貴重な体験をした上原氏は、

1985年以後、太田氏への怒りを胸に秘めながらも、独自に沖縄戦や大琉球の研究を始めその結果を次々と新聞に発表し、本を出版していった。

そのときの成果が『青い目が見た「大琉球」』( 1987年発行、2000改訂版)で、その内容は沖縄に関する外国の歴史的資料を上原氏が翻訳、編著したものである。
 
そして、上原氏の頭の中に「1フィート運動」よりもインパクトが大きく、さらに重要な歴史的住民運動の構想が湧きあがってきた。

それが沖縄県メモリアル構想である。 

沖縄戦で亡くなった住民も兵士も、日本兵もアメリカ兵もすべて網羅した一大記念碑を建立する、という壮大なものだ。

そのとき上原氏の脳裏に浮かんだのは、1フィート運動の失敗を繰り返してはいけないという過去の教訓だった。

だが、太田氏は当時は既に県知事になっており、公的立場の知事が、このような上原氏のアイディアを個人的名誉欲達成のため再び奪い、かつ追放劇を演じるとは、神ならぬ身の上原氏は予測できなかった。 

又しても上原氏は、名誉欲の塊と化した太田氏に煮え湯を飲まされる羽目に陥ることになる。

上原氏が沖縄県メモリアル構想を準備していった過程を上原氏自身の著書から引用する。

89年、グレン・スローター、グレン・ネルソンらが沖縄戦の最中に、共に住民救出活動に命を投げて協力してくれた米須清一さんと涙の対面をしたが、その橋渡しをしてくれたのが、ロジャー・ピノー先生であった。 ぼくはピノー先生に沖縄戦メモリアル構想を話した。 ピノー先生は目を輝かせて、「これは素晴らしい構想だ。 アメリカ兵のリストはぼくが集めよう。」と言ってくれた。明けて90年初頭、ピノー先生から第一陣のリスト、海軍兵の5000人の膨大な名簿が届いた。 海兵隊、陸軍の名簿も次々、入手のよていだとのこと。 僕は既に川平朝申、照屋善彦、米須清一、ロジャー・ピノーの4人の代表に10人の信頼できる友人を委員に選んでいた。 90年6月22日、記者会見で沖縄メモリアル構想を発表した。

「1フィート運動」の場合、自分が苦労して会発足の記者会見までこぎつけたその会見現場で、識者の仮面を被った左翼集団に追放された上原氏だが、

今回の「沖縄戦メモリアル構想」の記者会見は前回の轍を踏まないように万全の準備の末、どうにか記者会見の発表までこぎつけることが出来た。

上記引用文には、上原氏の著書を読んでない人には馴染みの無いグレン・スローター、グレン・ネルソン、米須清一それにロジャー・ピノーといった名前が登場する。

すべて沖縄戦に関わる人物だが、沖縄戦を深く取材している鴨野守氏が上原氏に取材した時の「世界日報」サンデー版の記事に、これらの人物が登場する。

ドラマチックに描かれているので以下に抜粋して引用する。(太字強調は引用者)

沖縄戦で数千人を救った米須清一
 
沖縄戦で数千人を救った米須清一

 「軍は住民を助けない。これが沖縄戦の教訓だ」――。左翼勢力のこのような口車に乗って、沖縄の教育行政もまた、平和教育の教材に「集団自決」に関するテキスト作成などに熱心に取り組んでいる。だが、こうした教育が児童生徒に勉学への意欲をかきたて生きる希望を与えるとは到底思えない。戦争という心身の極限状態において発揮された気高き人間性の輝きこそ、後世に伝えるべき財産だと考える。          (編集委員・鴨野 守)

作家・上原正稔氏に会う

 五月中旬、記者(鴨野)は那覇市内の図書館で、作家の上原正稔氏とようやく会うことができた。昨年秋からずっと探していたが、なかなか連絡が取れなかった人物である。
 沖縄戦を通じて、人間の醜さや死にゆく人々の悲しみだけに焦点を当てがちな地元ジャーナリズムの中にあって、上原氏は異色の活動を展開してきた。
 氏は、アメリカ公文書館に保管されている、膨大な沖縄戦記録フィルムを独自ルートで取り寄せて、そこに登場する本人たちに届けるというユニークな取組みを行ってきた。

 また、米軍の戦時記録を入念に読み解き、そこから多くの「物語」を発掘して、著書にまとめてきた。それが『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』(三一書房、昭和六十一年)、『沖縄戦トップシークレット』(沖縄タイムス、平成七年)などにまとめられた。

 たとえば、『沖縄戦トップシークレット』に収録されている米須清一氏の活躍ぶりは、一本の映画にまとめるだけのドラマがある。戦場という極限状態で、発揮された人間愛の崇高さ、気高さを学ぶには最高の物語だ。
 スティーヴン・スピルバーグ監督の名作「シンドラーのリスト」は千二百人のユダヤ人の命を救った実話に基づくが、あの作品以上の迫力と感動を与えよう。

 なぜならば、米須は、沖縄戦で数千人の日本人を救ったからである…

米軍要請受け説得作戦

 沖縄戦で彼が捕虜になった時、すでに四十三歳だった。米軍の日本語将校、グレン・スローター中尉、グレン・ネルソン中尉らの要請を受けて、無数の壕に隠れている住民や日本兵に投降を説得する役目を担った男である。米軍はそれまでにも隠れている日本兵の説得を経験しているが、沖縄戦では自分たちの日本語のレベルでは全く沖縄の人々を説得する力がないと悟った。

 それで米軍は、「地下壕に隠れている君たちの仲間を救ってもらえないか」と日本人捕虜十人に要請した。すると全員が「やります」と承諾。彼らの必死の説得で恐る恐る壕から老人、女、子供が出てきたのである。しかし、住民の中に兵士も紛れ込んでいて、説得役の彼らはたびたび、壕から銃で狙われることもあったという。文字どおり命をかけた説得作戦である。

 米軍は、米須を含む五人を「正式な志願兵」と任命。だが、五月上旬、日米が最も熾烈な戦闘を展開したシュガーローフの戦いの後では、五人の沖縄人のうち四人が辞めたいと申し出た。残ったのは、米須ただ一人に。しかし、そのような状況でも米須は護身用の銃を持つことはなかった。

 彼らの説得に応じることなく、壕の中で自決した日本人も多くいた。また、投降しながらも、自決すべきかどうか迷っていた日本兵がいた。その日本兵は密かに、手に安全ピンを抜いた手榴弾を握りしめていた。安全ピンを押さえている指を離せば、数秒後には現場にいる者が吹っ飛ぶ。どうしたものかと本人も決断が決めかねていた――。その時、捜索部隊と一緒に行動していた軍曹が手榴弾を発見し、奪い取るや入江に投げ捨てた。次の瞬間、手榴弾は空中で爆発。危機一髪、そこにいた全員が助かったのである。

 こうして数千人の命を救った米須だが、後日談がある。

一九九一年五月、大好きな大リーグの野球を見るため、米須は初めてアメリカの地を踏んだのである。彼を知る元軍人の連絡で地元紙が彼を取材した。翌日、ボルティモア・サン紙は一面で彼のカラー写真を掲載し、「沖縄戦のヒーロー、アメリカ兵と共に数千人の住民救出、大リーグ見物で渡米」と大見出しで報じた。

 同月下旬、ボルティモア市のメモリアル球場に米須が到着すると、球場マネージャーは彼の切符を取り上げ、十㌦を返し、一週間前にエリザベス女王が座った特別席に案内した。大スクリーンには歓迎の文字が映し出され、大観衆の拍手が彼を包んだ――。

眠っている真実の物語

 記者は、上原氏に尋ねた。
 「米須さんとは何度ぐらい会いましたか」
 「もう、数え切れないよ。まさに、彼とは“戦友”だったな」と上原氏。

 米須氏の救出作戦で出てくる「手榴弾を握りしめた日本兵」は、単行本に掲載されている若者ではないのか、と尋ねた。
 上原氏は、「そうかもしれないが、スローター中尉はその兵隊が誰だったかを最後まで明言しなかった。それはスローター中尉が騎士道精神を発揮したためだ。なぜなら、その日本兵が生きていれば、彼を傷つけることになると配慮したのだ」。

 米須氏の印象を聞くと、上原氏は懐かしそうに語った。

 「米須は数千人の日本人の命を助けたというのに、詳しく覚えていなくて、一緒に説得にかかわった元米兵が詳しく話してあげたほどだ。米須は、それほど無欲で無口な男だった。僕が米須ならば、沖縄戦秘話として書いてピュリツァー賞を獲得しようと思うけどね。どうやら本当の英雄というのは自慢しないようだ」

 沖縄戦の関係者のドラマを追って約三十年。その上原氏はこう語った。「人間が試される究極の舞台、それが戦争である。そこには数多くの素晴らしい真実の物語が眠っている。そのひとつひとつを掘り起こすのが僕の仕事だ。沖縄戦で本物のノーベル賞作品を何本も書けますよ」と。

                     ◇

なお、G・ネルソンさんが最近逝去されたことを新報は報じていた。⇒G・ネルソンさん死去 沖縄戦で投降呼び掛け(2009.2.26)

さて、沖縄戦メモリアル構想の委員の中で唯一人のアメリカ人であるロジャー・ピノー氏は上記記事には登場していない。

ピノー氏は、沖縄戦で活躍した日本語の話せる情報将校のグレン・スローター中尉、グレン・ネルソン中尉らが日本語を学んだ米海軍日本語学校の出身で、

1980年代から90年代にかけて、海軍日本語学校の歴史を書くために、史料収集や卒業生についての情報収集を始めた戦史研究家である。

丁度この時期に上原氏から沖縄戦メモリアル構想の相談を受け全面的に協力したことになる。

上原氏が沖縄戦メモリアル構想の記者会見をした年の3年後の1993年にピノー氏は死去する。

同時に海軍日本語学校史の編纂も未完となった。  

対米戦争中、日本は敵性語だとして英語の使用を禁止した。

だが情報戦で数段日本に勝っていた米国は日本が真珠湾攻撃を仕掛ける1941年の数年前から、日米関係の悪化を想定、さらに戦争に到る事態に備えて陸海軍で日本語学校を作り日本語の話せる要員の育成を開始していた。

陸軍の日本語学校は2世を中心とした日本語の訳、尋問などのための教育施設であり、1941年にサンフランシスコに設置された。

戦争開始後の1942年5月陸軍省直属となり、同年11月にはミシガン大に1年の集中コースを設けることを決定、1943年1月5日から授業が開始される。

150人の生徒からなる日本語コースで、白人の生徒を対象としていた。

これが陸軍日本語学校として知られるものである。

ハワイ出身の沖縄系二世が、スパイとして沖縄戦で活躍したことが知られているが、米軍統治下の沖縄から米留学をした沖縄人の受け入れ大学にミシガン大学が貢献したことは、

ミシガン大学が日系二世を中心にスパイの養成に関わったことに関連があると思われる。

一方、コロラド大学では、米海軍日本語学校史料の収集、整理、公開プロジェクトをすすめられていた。

この海軍日本語学校の史料収集作業を最初にはじめたのが、同日本語学校出身者でもあるロジャー・ピノー(Roger Pineau)氏である。

彼は戦後、日本での米戦略爆撃調査に参加、その後海軍情報局をへて米海軍史研究室へと配属され、その後も国務省や様々な大学、研究機関と連携した仕事を続けていた。

そんな時、沖縄戦メモリアル構想を上原氏から持ちかけられたのである。

続く

 

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