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昨日に引き続いて、『正論】7月号に掲載の藤岡信勝拓大教授の論文「沖縄戦『集団自決』 控訴審判決の誤診を糾す」の最終部分の引用です。
おわりに
宮平は、大阪高裁の法廷に「這ってでも行って、梅澤さんの無実を証言したい」と漏らしていた。
弁護団の方針で、宮平の証人尋問が行われなかったのは、返す返すも残念である。 控訴審判決は、「控訴人の訴訟代理人は、期日前にには、当審で宮平秀幸の証人調べを求めるとしていたが、結局、証人申請はなされなかった」と書いてある。 法廷で宮平が証言していたら、裁判所は窮地に追い込まれた可能性がある。 証人申請を出せないほど、自信がないのだろうと思われても仕方がない。 裁判官は安んじてデタラメな判決を書くことが出来たわけである。
しかし、手弁当の弁護団が訴訟を提起してたたかったことは、歴史的快挙であったことに変りはない。
「因果はめぐる」というが、この訴訟が提起されたことが、教科書検定意見のきっかけとなり、それに反発した沖縄の大騒動がおこり、それに危機感をいだいた宮平が誰に相談するでもなく、真実を語ろうと決意するようになったのだから、結局、訴訟を提起するという能動的行為こそが現実を動かしたのである。 このことを忘れてはならない。
今後、私は、チャンネル桜などの協力も得て、座間味村役場に貞子証言のテープの公表を求めるとともに、宮城晴美に事情の説明を求めたい。 そして、座間味島集団自決の説明を求めたい。 そして、座間味島集団自決の全貌を解明したいと考えている。(完)
◇
前稿で、今「澄江証言」で、一番戦々恐々としている人物は宮城晴美氏と安仁屋政昭沖国大名誉教授の左翼師弟コンビであろう、と書いた。
何しろ藤岡教授は、貞子証言を収録した座間味村役場に貞子証言を収録したテープの公開を求めているのだ。
沖縄戦史の検証のため証言者の録音テープの公開を求める大学教授の要請を村当局が、断る理由はないはずだ。
テープが公開されたら宮城晴美氏の捏造工作が白日の下に晒されることになる。
それでも宮城晴美氏が貞子証言の捏造に無実潔白だというなら、テープの公開に協力し、藤岡教授の疑問に答えるのが『母の遺したもの』の著者として多くの読者に対する責務ではないのか。
沖縄タイムス、琉球新報を中心に左翼学者達で幾重にも張り巡らせた沖縄のサヨクネッチワークが、いかに歴史の真実を隠蔽・捏造しようと画策しても、これまで天の配剤とも言える出来事が幾度となく彼らの虚偽を暴いてきた。
全体主義の島沖縄で、真実を語ることがどんなに難しいことを知りながら、宮平秀幸さんは、島の空気に逆らって真実の証言をした。
宮平さんが真実の証言をしたからといって、得をすることは何一つ無い。
それどころか、証言をして以来自分が経営するペンションに関しても村の住民や学校教師などの村八分を受け、宮平さん自身が多くの経済的打撃を被っていると聞く。
その宮平秀幸さんの苦境を見聞きしている村人が、新たに真実の証言をするというのは非常に困難なことと思われた。
そんな矢先の、今回の大城澄江さんの証言である。
まさに、天網恢恢疎にして漏らさず、天知る地知る、澄江知る、である。
ここに筆者は天の配剤を感じたのである。
宮平さんが、2001年の毎日新聞での証言以来、沈黙を守っていた。
それが2007年、再度真実を語るように宮平さんを決意させた動機は一体なんだったのか。
その経緯を詳述した藤岡信勝拓殖大学教授の論文『座間味島集団自決の証言者・宮平秀幸さんとの出会い』(歴史論争最前線より 08/2/25掲載記事)より引用する。
(前略)
◆宮平さんはなぜ証言を決意したか
宮平秀幸さんは昭和五年1月10日、座間味島で父・宮平秀松と母・貞子の間に生まれた。梅澤隊長は軍命令を出していなかったことを後に証言した宮城初枝は腹違いの姉、秀幸さんは初枝の弟にあたる。秀幸さんのきょうだいは姉の初枝と、母を同じくする6人の兄弟姉妹からなる。ただし、初枝は母に連れられて実家に帰っていたから、秀幸さんと初枝は同じ家に住んで育ったわけではない。ただ、秀幸さんの家と初枝の家は隣同士だった。初枝の手記に登場する美恵子は、初枝とは父が異なる同腹の姉妹である。このあたり初枝の家庭事情は複雑だが、本筋に関係ないからこれ以上立ち入らない。
秀幸さんの父・秀松は秀幸さんの生後10ヶ月の時、南洋のトラック島に鰹漁に出かけた。秀幸さんが物心ついたころ、母も父のもとに行くことになったので、秀幸さんは主に祖父母に育てられたといってもよかった。祖父母の愛情を受け、たいそうかわいがられた。秀幸さんは間違ったことを嫌うまっすぐな性格に育った。
秀幸さんが14歳の昭和20年1月1日、座間味で郷土防衛隊が組織され、秀幸さんもその一員となった。同月10日には15歳になる。彼はいつしか梅澤隊長の本部付きの伝令員をつとめるようになった。といっても、防衛隊は法的根拠のないもので正規の日本軍の一部ではないから、伝令員としての正式の辞令が出たわけではない。ただ、機敏で現地の地理に詳しい少年が重宝がられたことは確かであろう。
こういう立場の伝令員の少年は秀幸さんの他にも数名いた。同年配の村の少年たちにとって日本軍はあこがれの存在であり、軍の壕に出入りし、軍から与えられた任務を張り切って果たすべく村中をはだしで飛び回っていた。梅澤隊長は秀幸さんを「あんちゃん」と呼んでいた。戦後30数年ぶりに二人は再会したが、当時那覇泊港と座間味島を結ぶ連絡船の機関長をしていた秀幸さんをすぐに認めて、梅澤さんは「あんちゃん」と呼びかけたという。
初枝の証言をもとに晴美が書いた著書には、秀幸さんの証言と矛盾する箇所がたくさんある。秀幸さんは初枝に、「姉さん、本当のことを言わなければ駄目だよ」と繰り返し意見していた。
宮平さんは、大阪の名誉毀損訴訟の証人になることを2年前には固辞していた。なぜ、心境が変わったのか。それは昨年の教科書騒動で、嘘が歴史になることに耐えられなかったからだという。
25日、ツアーの一行が高速艇で座間味港に着いた時、二人の島民が私に抗議文めいたものを突きつけた。それを同じ高速艇に乗り込んでいた沖縄タイムスの吉田啓記者が横から写真に撮った。島民の一人は宮里芳和という人で、夜、彼の経営するパブに行って真意を聞いた。私達の到着時刻は沖縄タイムスの編集委員・謝花直美からの連絡で知った。彼は昭和23年生まれで、隊長命令のことはわからないと弁解した。ところが、翌日の沖縄タイムスの記事には、座間味島民が藤岡に抗議文を突きつけ、隊長命令があったと彼が語ったことになっていた。地元紙による歴史偽造の現場に立ち会った私は、彼等が最も恐れていた人物にめぐりあったことになる。
◇
2001年の毎日新聞への取材を最後に沈黙を守っていた宮平さんが、島に蔓延する同調圧力に立ち向かって、再度証言する決意をしたり理由が、2007年の「11万人集会」の大騒ぎだったという。
全国を騒がした「11万人」の数字捏造による左翼勢力の歴史隠蔽運動が、宮平さんの危機感を突き動かし、逆に歴史の真実を白日の下に曝す結果になるとは皮肉なものである。
【おまけ】
■大城澄江さんは以前にも証言していた■
問座間味島の集団自決生き残りとして、大城澄江さんは2007年に沖縄タイムスの取材を受けていた。
だが、島の同調圧力を恐れた当時87歳の澄江さんは、「軍命」に関しては曖昧な証言しかしていなかった。
ところが捏造を得意とする沖縄タイムスは、「軍命令があった」とは明確に証言していない澄江さん(87歳)の証言を巧妙に「軍命令があった」と印象操作している。
≪当時25歳だった大城澄江さん(87)は座間味島への米軍の艦砲射撃が始まり、友人4人と避難中、壕内で「忠孝碑の前に集まれ」との声を聞いた。一度は忠孝碑の前に行ったが、その後、逃げ回っている途中で日本軍に遭遇、手りゅう弾を渡された。逃げ場を失い、自決しようとしたが爆発せず、生き延びた。≫(沖縄タイムス 2007年7月7日)
>米軍の艦砲射撃が始まり、友人4人と避難中、
>その後、逃げ回っている途中で日本軍に遭遇、手りゅう弾を渡された。
小さな島を取り巻いた敵艦の艦砲射撃で村民は、完全にパニックに陥り、忠魂碑前から四散した。
澄江さん達が逃げ回っている最中に日本兵に遭遇し、手りゅう弾を渡されたのは、その日本兵の思いやりではなかったのか。
「鬼畜米英」は女子供を強姦し八つ裂きにして殺されると信じていた島民にとって、敵に捕らわれるより自ら命を絶った方がましだと考えても不思議ではない。
だが、自ら命を絶つ手段が無い。
遺された最後の手段は「舌を噛み切る」以外には無かったのだ。
パニック状態で逃亡中に遭遇した日本兵から貰った手りゅう弾に地獄に仏と考えるのがそのときの状況だろう。
このパニック状況から、「軍の命令で自決した」と言う絶対服従の状況はどうしても想像できない。
パニックで「軍命で自決する」ような規律は既に崩壊していたのだ。
■数多く証言はあっても「軍命令があった」という証言はない■
2007年当時、沖縄タイムスは「続々出てくる証言」と、大見出しで煽ったが、悲惨な体験の証言はあっても「軍命令があった」と言う証言はただの一つもなかった。
少なくとも沖縄県議団文教厚生委員の聞き取り調査を受けた大城澄江さん(87)(上記記事)は、「軍命令があった」とは証言していない。
■島民は死ぬ手段を捜し求めて島を彷徨った■
最近の証言では女子学生が日本兵に、自決のための手りゅう弾を「おねだり」して、断られたという例もあるくらいだ。
弾薬装備の貧弱だった日本兵が貴重な手りゅう弾を「これで自決せよ」と住民に配布したとは、当時の状況を知らない者の推測に過ぎない。
沖縄タイムスが捏造した上洲幸子さんの記事でも、自分で命を絶つ手段が無く、切羽詰って殺ソ剤(ネズミ殺し剤)で死のうと思ったと証言している。
このような状況で逃亡中、手りゅう弾をもらったら少なくとも「軍命令」というより「渡りに舟」の心境ではなかったのか。
《上洲幸子さん(84)は母ら4人と壕に避難。母は殺ソ剤での自死を主張したが、上洲さんが「逃げられるうちは逃げよう」と訴え、島内を歩き回った。ため池近くに村民や日本兵がおり、梅沢裕部隊長の姿もあった。梅沢部隊長は村民を集め「米軍は上陸して、どこにでも入り込んでくるから、もし敵に見つかったら舌をかみ切って死になさい」と話したという。》(沖縄タイムス 2007年7月7日)
注:上記記事で赤字の部分は、後に「沖縄タイムスの捏造」ということが判明し、小さな訂正記事で誤魔化している。
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