「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

広島原爆の日に思う

2018-08-06 21:31:56 | 日常の一コマ
初めて、広島原爆の日、8月6日の午前8時15分を、平和公園で迎える。

メディア的には「祈りと鎮魂の1日」なのだろうが、現実にはヘイトスピーチあり、シュプレヒコールありと、
祈り一色ではないところに、リアルポリティークが現れていた。

前年以前の例を知らないが、警備に当たる警察官の数の多さは異様に思われた。
ではあるが、それもまた、核軍縮(あるいは核軍拡)という問題が持つ特徴の一つなのかもしれない。

心情倫理で国際政治の問題が解決することはない。
少なくても、心情倫理を十二分にカバーし得るリアルポリティーク上の知恵あるいは方法論
(時にしたたかさ・あるいはずるさ)を持たない限り、思いが具体化されることはない。
ある意味で、その現実を、奇妙な形ではあるが、再確認させられた、そんな広島原爆の日、だったのかもしれない。

ただ……。現実を変え得る方法論を持つことの重要性は当然のこととして、
己の原点が何だったのかを抱き続けることも、また重要なことだろうと思っている。

その意味で、以下に、合唱組曲「男声合唱とピアノのための《祈りの虹》」
(作詞:峠三吉、金子光晴、津田定雄/作曲:新実徳英)全4曲より、
終曲〈ヒロシマにかける虹〉の歌詞を記す。

折々に聞き直すべき曲、と思っている。


汐の香が静かに吹き渡ると
まだ冷たいしじまの砂に黎明はひたひたと寄せてくる

次第に公園の楠は明るく
見え隠れする記念碑たちは赤く映えて
ヒロシマはよみがえって来る

みなぎり昇ってきた
八月の太陽はもう暗い影ばかりをつくりはしない

水晶のような川底の砂は
デルタから昇ってきた魚と光りながら語り合っている

過ちは再び繰り返してはならない

研ぎ澄まされた僕の眼と
和らぎを求める人々の眼がヒロシマに集まり
じりじり時を刻んで 死者の時を待っているのだ

今は物質と精神のけじめも対立もなく
普遍者の中に助け合い 川は流れてゆくのだ

もはやカルマもゴルゴダの夜もない

僕は光り輝く霊となり
青みわたる空の中に昇華してゆく

一陣の風が起これば霊はしたたる水となり
涙となってくぐりぬける
美しい虹を咲かせる

これこそ真の神よりヒロシマにかける救いの虹
そして普遍者に応える祈りの虹

七色に大きくふたつの輪を描き
いつしか象徴の花に溶け合い輝き合ってゆく

アベ・マリア・・・


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