「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

南三陸町・志津川中学校正門脇の見晴らし台に立って考える

2015-05-03 21:48:29 | 東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)
東日本大震災の現地踏破には、結局のところ11日をかけることになった。
過去3年に比べると時間を長く使っているが、見始めると、あれもこれも、となってしまい、
残念ながら、うわっつらをなめるだけ、というのが現実ではあるが。

今日は気仙沼を発って小泉、伊里前、志津川(ベイサイドアリーナ、防災対策庁舎前、
志津川中学校、慈恵園跡、さんさん商店街)、大川小学校前、雄勝病院前、女川と、
ゆっくり、じっくり、モノを考えながら車を動かす。

さんさん商店街のすぐ隣に、URとJVが南三陸町の復興計画の一般向け説明用に施設を作っている。
スタッフもいた。(もっともこれはGW中ゆえの特別対応かもしれない。)

ともあれ、気になったことがあって質問してみた。

「10年先、20年先の想定人口について、ご存じであれば教えてもらいたいのですが。」

案の定、しっりした答えは返ってこなかった。

この旅に出て、ようやく「旅の坊主」なりに整理がついた、
「にぎわい」「なりわい」「子どもたちの遊び声」という、復興まちづくりの基本的な理念。

10年後、20年後の人口構造はどうなっているのか。
高校生までは志津川高校があるとしても、そこから先、さらに学びたくなったとして、
大学なり専門学校なりを卒業して、で、このまちに戻って来たいと思ったところで職があるのか。

志津川高校の高校生有志が、高台移転等の模型を作ったとのことで、それが施設に展示してあった。
それを見て思った。

「彼ら彼女らは、この模型を作りつつ、将来の自分がこの模型のどこかに住む、と、考えていただろうか。
それとも、いずれ外へ出ていく身として、ふるさとの形を記憶にとどめる作業として、
この模型作りに取り組んでいたのだろうか。

志津川中学校の正門脇の高台に立つのは、2年ぶりだろうか。
ここから見下ろす風景もずいぶん変わった。

発災から4年余が経ったのだから当たり前ではあるが、幾つかの建物が消え、
かさ上げが始まり、高台移転用の工事も進んでいる。
それでも、まだ、土地造成の段階。

4年という時間は長い。
南三陸さんさん商店街は、復興商店街としては図抜けた成功をおさめていると聞くが
(実際、GW中という特別な理由はあろうが、大変なにぎわいであった。)
それでも、先の見える者であれば、自分の力で将来を切り拓いていくだろう。

残る道を選ぶ者もいるとは思う。しかし、それが多数派とは思えない。
ただ、出る者も、出たくて出る訳ではない。

ベイサイドアリーナにあった志津川中学校の復興イメージに秀逸なものがあった。

「出ていくのも、戻ってくるのも、気兼ねなくできるまち」
(中学生だって、しっかり現実を見ているなぁ!)

悲劇があった町。
「防災対策庁舎の悲劇」も「慈恵園の悲劇」も、長く記憶されるべき。)
先人の挑戦と成功事例があった町。
(志津川地区の学校はみな高台にある!ベイサイドアリーナ地区や旭ヶ丘といった高台が開発され、
そこに移転した人は家を失っていない!)
課題もある町。

次の巨大災害が発生した時には、必ず、甚大な被害を受ける静岡に活動拠点を持つ者として、
ここから何を学び、何を伝えていけばよいのか。
旅に来る前よりも、少しは、聞く人の腑に落ちるような説明が出来るようになりつつある、
そんな手応えを感じつつ、旅も終わりが近づいてきている。