東日本大震災の現地踏破には、結局のところ11日をかけることになった。
過去3年に比べると時間を長く使っているが、見始めると、あれもこれも、となってしまい、
残念ながら、うわっつらをなめるだけ、というのが現実ではあるが。
今日は気仙沼を発って小泉、伊里前、志津川(ベイサイドアリーナ、防災対策庁舎前、
志津川中学校、慈恵園跡、さんさん商店街)、大川小学校前、雄勝病院前、女川と、
ゆっくり、じっくり、モノを考えながら車を動かす。
さんさん商店街のすぐ隣に、URとJVが南三陸町の復興計画の一般向け説明用に施設を作っている。
スタッフもいた。(もっともこれはGW中ゆえの特別対応かもしれない。)
ともあれ、気になったことがあって質問してみた。
「10年先、20年先の想定人口について、ご存じであれば教えてもらいたいのですが。」
案の定、しっりした答えは返ってこなかった。
この旅に出て、ようやく「旅の坊主」なりに整理がついた、
「にぎわい」「なりわい」「子どもたちの遊び声」という、復興まちづくりの基本的な理念。
10年後、20年後の人口構造はどうなっているのか。
高校生までは志津川高校があるとしても、そこから先、さらに学びたくなったとして、
大学なり専門学校なりを卒業して、で、このまちに戻って来たいと思ったところで職があるのか。
志津川高校の高校生有志が、高台移転等の模型を作ったとのことで、それが施設に展示してあった。
それを見て思った。
「彼ら彼女らは、この模型を作りつつ、将来の自分がこの模型のどこかに住む、と、考えていただろうか。
それとも、いずれ外へ出ていく身として、ふるさとの形を記憶にとどめる作業として、
この模型作りに取り組んでいたのだろうか。
志津川中学校の正門脇の高台に立つのは、2年ぶりだろうか。
ここから見下ろす風景もずいぶん変わった。
発災から4年余が経ったのだから当たり前ではあるが、幾つかの建物が消え、
かさ上げが始まり、高台移転用の工事も進んでいる。
それでも、まだ、土地造成の段階。
4年という時間は長い。
南三陸さんさん商店街は、復興商店街としては図抜けた成功をおさめていると聞くが
(実際、GW中という特別な理由はあろうが、大変なにぎわいであった。)
それでも、先の見える者であれば、自分の力で将来を切り拓いていくだろう。
残る道を選ぶ者もいるとは思う。しかし、それが多数派とは思えない。
ただ、出る者も、出たくて出る訳ではない。
ベイサイドアリーナにあった志津川中学校の復興イメージに秀逸なものがあった。
「出ていくのも、戻ってくるのも、気兼ねなくできるまち」
(中学生だって、しっかり現実を見ているなぁ!)
悲劇があった町。
「防災対策庁舎の悲劇」も「慈恵園の悲劇」も、長く記憶されるべき。)
先人の挑戦と成功事例があった町。
(志津川地区の学校はみな高台にある!ベイサイドアリーナ地区や旭ヶ丘といった高台が開発され、
そこに移転した人は家を失っていない!)
課題もある町。
次の巨大災害が発生した時には、必ず、甚大な被害を受ける静岡に活動拠点を持つ者として、
ここから何を学び、何を伝えていけばよいのか。
旅に来る前よりも、少しは、聞く人の腑に落ちるような説明が出来るようになりつつある、
そんな手応えを感じつつ、旅も終わりが近づいてきている。
過去3年に比べると時間を長く使っているが、見始めると、あれもこれも、となってしまい、
残念ながら、うわっつらをなめるだけ、というのが現実ではあるが。
今日は気仙沼を発って小泉、伊里前、志津川(ベイサイドアリーナ、防災対策庁舎前、
志津川中学校、慈恵園跡、さんさん商店街)、大川小学校前、雄勝病院前、女川と、
ゆっくり、じっくり、モノを考えながら車を動かす。
さんさん商店街のすぐ隣に、URとJVが南三陸町の復興計画の一般向け説明用に施設を作っている。
スタッフもいた。(もっともこれはGW中ゆえの特別対応かもしれない。)
ともあれ、気になったことがあって質問してみた。
「10年先、20年先の想定人口について、ご存じであれば教えてもらいたいのですが。」
案の定、しっりした答えは返ってこなかった。
この旅に出て、ようやく「旅の坊主」なりに整理がついた、
「にぎわい」「なりわい」「子どもたちの遊び声」という、復興まちづくりの基本的な理念。
10年後、20年後の人口構造はどうなっているのか。
高校生までは志津川高校があるとしても、そこから先、さらに学びたくなったとして、
大学なり専門学校なりを卒業して、で、このまちに戻って来たいと思ったところで職があるのか。
志津川高校の高校生有志が、高台移転等の模型を作ったとのことで、それが施設に展示してあった。
それを見て思った。
「彼ら彼女らは、この模型を作りつつ、将来の自分がこの模型のどこかに住む、と、考えていただろうか。
それとも、いずれ外へ出ていく身として、ふるさとの形を記憶にとどめる作業として、
この模型作りに取り組んでいたのだろうか。
志津川中学校の正門脇の高台に立つのは、2年ぶりだろうか。
ここから見下ろす風景もずいぶん変わった。
発災から4年余が経ったのだから当たり前ではあるが、幾つかの建物が消え、
かさ上げが始まり、高台移転用の工事も進んでいる。
それでも、まだ、土地造成の段階。
4年という時間は長い。
南三陸さんさん商店街は、復興商店街としては図抜けた成功をおさめていると聞くが
(実際、GW中という特別な理由はあろうが、大変なにぎわいであった。)
それでも、先の見える者であれば、自分の力で将来を切り拓いていくだろう。
残る道を選ぶ者もいるとは思う。しかし、それが多数派とは思えない。
ただ、出る者も、出たくて出る訳ではない。
ベイサイドアリーナにあった志津川中学校の復興イメージに秀逸なものがあった。
「出ていくのも、戻ってくるのも、気兼ねなくできるまち」
(中学生だって、しっかり現実を見ているなぁ!)
悲劇があった町。
「防災対策庁舎の悲劇」も「慈恵園の悲劇」も、長く記憶されるべき。)
先人の挑戦と成功事例があった町。
(志津川地区の学校はみな高台にある!ベイサイドアリーナ地区や旭ヶ丘といった高台が開発され、
そこに移転した人は家を失っていない!)
課題もある町。
次の巨大災害が発生した時には、必ず、甚大な被害を受ける静岡に活動拠点を持つ者として、
ここから何を学び、何を伝えていけばよいのか。
旅に来る前よりも、少しは、聞く人の腑に落ちるような説明が出来るようになりつつある、
そんな手応えを感じつつ、旅も終わりが近づいてきている。