「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

ドイツ・ベルリンで考える戦争の爪痕を記憶しておくということ:ノイエ・ヴァッヘと空っぽの書棚

2015-08-20 23:49:29 | 安全保障・安保法制・外交軍事
年一度の母親孝行の海外旅行、今年はドイツとチェコをまわっている。
昨夕、フランクフルトからICEスプリンターに3時間40分ほど揺られてベルリン入り。
今朝からは、今回の旅で初めて晴天に恵まれつつ、まずはベルリン・ウェルカム・カードという
バス・市電(トラム)・地下鉄(Sバーン)・近郊電車(Uバーン)に乗り放題のカードを買い、
行き当たりばったりのベルリン市内観光、となった。

初めてのベルリンで、かつ、十分な事前準備もないまま飛び込んだ訳だが、
その割にはかなり密度の濃い体験が出来ているとは思っている。

宿であるベルリン・マリオットホテルは、かつて「ベルリンの壁」が建っていた場所にある。

壁が壊されたのが、1989年11月の話だから、あれからも四半世紀。
「ベルリンの壁」があった場所には、現在、アスファルトの舗装を横切るように幅40cmほどの石畳が延々と続いていて、
かつての東西ドイツ分断の記憶をとどめようとしている。
部屋の窓から外を見下ろせば、その石畳で示された壁の跡を示す線が
ホテルの建物へ吸い込まれる方向で視線から消えて行っている。
その延長線から想像するに、朝食バイキングで利用しているメインダイニングを横切る形で、
壁があったのだろう。
(もちろん、四半世紀前は、ポツダム広場近くに立つこのホテルはもちろん存在していないのだが。)

『地球の歩き方』のドイツ編(A14)のベルリンについての紹介には掲載がなく、
ベルリンと北ドイツ編・ハンブルグ・ドレスデン・ライプツィッヒ(A16)のみに記載があったのだが、
フンボルト大学や国立歌劇場近くにある2つの場所は、小さいが、是非モノと思う。
一つが、フンボルト大学の東隣りに「ノイエ・ヴァッヘ」、
もう一つが、フンボルト大学とウンダー・デン・リンゲンをはさんだお向かい、
国立歌劇場の西にあるベーベル広場の「空っぽの書棚」。

「空っぽの書棚」については、『地球の歩き方・ベルリンと北ドイツ』に曰く、

  フンボルト大学向かいのベーベル広場には中央に四角い穴が掘られている。
  ガラス板がはめ込まれて中が見えるが何も入っていない。
  1933年5月10日、ナチスによりここでハイネやケストナーなど
  ナチスが非ドイツ的とみなした作家の書物2万5000冊が焼かれた。
  この事件を忘れないため、深さ5mで7m司法の穴の中に空の本棚を作った。
  2万5000冊の本が収納できるスペースだ。(64頁)

「ノイエ・ヴァッヘ」は、かつては衛兵の詰所だったのだそうだが、
1993年からは、「戦争と暴力支配の犠牲者に対する記憶と追悼の場」とされている。
建物の中には中央にただ一つ、ケーテ・コルヴィッツという女性彫刻家による「ピエタ」が、
天井に開けられたガラス窓から差し込む光の中、たたずんでいる。
死んだ息子を抱く母の姿は、息子と孫を失ったコルヴィッツ自身の姿でもあるのだろう。

入り口の脇には以下の言葉がドイツ語で書かれている。
(以下の日本語訳は近くに掲示されていたもの。訳文については確認の必要があるかもしれない。)

  我々は
  戦争で苦しんだ各民族に思いをいたす。
  我々は、そうした民族の一員で
  迫害され命を失った人々に思いをいたす。
  我々は、世界大戦の戦没者たちに思いをいたす。
  我々は、戦争と戦争の結果により
  故郷で、捕らわれの身で、また追放の身で、
  それぞれ命を落とした罪無き人々に思いをいたす。

  我々は殺害された何百万ものユダヤの人々に思いをいたす。
  我々は殺害されたシンティ・ロマの人々に思いをいたす。
  我々は、その出自、その同性愛、その病いや弱さゆえに
  それぞれ殺されていった全ての人々に思いをいたす。
  我々は生きる権利を否定され殺害された全ての人々に思いをいたす。

  我々は、宗教や政治的信念ゆえに
  命を落とさなければならなかった人々に思いをいたす。
  我々は暴力支配に抵抗し命を犠牲にした
  女性たちや男性たちに思いをいたす。
  我々は自らの良心を曲げるより死を受け入れた全ての人々の栄誉を讃える。

  我々は、1945年以降の全体主義独裁に逆らったために
  迫害され殺害された女性たちや男性たちに思いをいたす。

日本で、この「ピエタ」、このノイエ・ヴァッヘに相当する場所が思い当たらない。
そのような場所の無さこそが、日本は学んでいないということの証、なのかもしれない。

ハイデルベルグ・哲学者の道で考える戦後70年の日本とこれから

2015-08-19 23:53:17 | 安全保障・安保法制・外交軍事
教員免許更新講習の2日間合計12時間のワークショップを終えた後、
年1回の母親孝行で、ドイツとチェコを11日かけて回るべく、
16日昼前に成田を発ち、まずはフランクフルトを本拠地に数日を過ごしたところ。

今夕にはICEスプリンターでベルリンに向けての移動予定だが、
夕方までにフランクフルトに戻ればよい、というので、
今日の日帰り旅行はドイツ国鉄の特急で1時間ほど南に行った、大学の街ハイデルベルグへ。

ネッカー川にかかるレンガ造りの橋と、その背後にそびえる古城(ハイデルベルグ城)の写真が何ともきれいで、
で、その地に行ってみようではないか、と決めた次第。
このアングルは、ドイツ最古の大学であるハイデルベルグ大学のあるネッカー川左岸ではなく、
右岸のブドウ畑(今は果物畑)を通る「哲学者の道」から、だったのだそうな。

あまたのドイツ人哲学者を相手に互角の戦いができると思うほど自惚れてはいないが、
なぜ日本は、否、日本人は、ここまで情けなくなってしまったのだろうか。

今回の旅ではミュンヘンまで足を伸ばすことは出来そうにないが、
旅の荷物の中には「白バラ運動」のショル兄妹、特に妹のゾフィー・ショルに焦点を当てた、
映画『白バラの祈り』のDVDや、『白バラ-反ナチ抵抗運動の学生たち』(関楠生著、清水書院)は持ってきた。

実のところ、「白バラ運動」(あるいは「白バラは死なず」か?)の名前はしばらく忘れていた。
しかし、2週間ほど前だったか、かの池上彰さんがミュンヘン大学の「白バラ運動」の記念碑を訪問するシーンをどこかの番組で見て、
そういえば……、で思い出したような次第。

命をかけてヒトラー独裁に立ち向かった若者がいた。
見つかれば死、ということをわかっていながら言うべきことを言い、それに殉じた若者がいた。
その若者の志を理解せず、官憲に「売って」報奨金をもらった者もいた。
後に空襲で命を落とすが、兄妹とその仲間に死刑判決を出した裁判官がもし敗戦後まで生き残っていて、
そしてもし、ナチドイツ時代の行為を問われたならば、何と言って己を正当化したのだろう。

池上さんをわざわざミュンヘン大学まで引っ張り出したメディア人がいた、ということは、
今のメディアのあり方に「これではまずい!」と思っている人によるギリギリの抵抗なのだろう、と思う。
もちろんそこには、「安倍何某の独裁をヒットラーと重ねてみるべき」「本気で気をつけないといけない」という
会社勤めのジャーナリストなれど「魂までは売ってはいないぞ」というメッセージを読み取るべきであろう。

ハイデルベルグの「哲学者の道」を散策していた先哲は、時代に対して、何を問いかけていたのだろう。

災害大国でありながら、現在形の防災と未来形の防災の差がわからなくても何も感じない日本。

立憲主義の何たるかがわからないような人物を国会議員に選出し、
あまつさえ、その御仁を一国の宰相の地位にまで就けさせてしまった日本人。
(行政権を持つ者が憲法の解釈を好き勝手に出来る、などということは絶対にあり得ない、
というのが立憲主義のはず、なのだが……。)

条約はGive and Takeであり、双方が納得しなければ(≒双方にとって利益がなければ)成立しない。
ということは、一旦成立した条約は、双方の思惑と許容範囲内にあることを意味する。
一見片務的であろうともそれで構わないとした背景には、それでもそれに利益を見出したから。
(日本は、日米安全保障条約により、アメリカの世界戦略の極めて重要な機能を、支え続けているのです……。)
(その対価としてアメリカには日本防衛の義務があるのだが、
「岩礁のためアメリカが戦うことはない」という「極めて率直かつ合理的な」意見を、
『スターズ&ストライプス』紙上で取り上げてしまった。
(=当然そう考えるよね、ということ、か……。)

「合意は守られなくてはならない」は国際法の大原則。
条約で定められた義務を果たさなかった場合は、未来永劫非難され続けたとしても自業自得。
とはいえ、ハーグの国際司法裁判所で、世界で唯一、テロ国家との判決を受けたものの完全に知らばっくれた国もある。
領有権(最終的な領有権の帰属については関与しないとずっと言い続けている)と施政権の違いという逃げ道は、
今も作っているように思われる……。

1億2千6百万人と13億人か14億人かの市場規模を天秤にかければ、当然、市場規模の大きい方を取るだろう。
両大国に挟まれた中級国家日本。今こそ賢く振る舞わなくてはならないだろうに……。

学問のための学問ではなく、現実社会を生き抜くための指針となるような理念。
今、哲学特に政治哲学に求められているのは、そういうことなのだろう、と思っている。
この国のかたちはどうあるべきか。たとえ浅くとも、たとえ小さくても、
その問いかけに対して答えられる者でありたい、と、「哲学者の道」を歩きつつ考えていた。

『戦争をしない国:明仁天皇メッセージ』(その3)

2015-08-18 23:50:10 | 安全保障・安保法制・外交軍事
一昨日から紹介を続けている標記の本。
最後に、あとがきで触れられていることを紹介して終わりとしたい。
(改行は小村による)

*****

あとがき

自分がなぜその本を書いたのか、という本当の理由は、いつも書き終わったあとでその答えが見つかるもののようです。
いま思えば、私がこの本を書こうと思った理由は、次のようなものでした。
私たち日本人がほこりにし、何より守りたいと思っている「戦争をしない国」(=平和国家という基本的な国のかたち。
それがなぜいま、安倍政権というたったひとつの政権によって破壊されようとしているのか。
なぜその現実を前にしながら、圧倒的多数派であるはずの私たち「非戦派」は、
勢力を結集してそれを押しもどすことができないのか。
その大きな疑問を解くために、これまで「平和国家・日本」に関してもっとも深い思索をめぐらしてこられた明仁天皇の言葉を、
一度くわしくたどってみたいと思ったのです。
みなさんよくご存じのとおり、「平和国家・日本」の根幹である憲法9条の条文には、
(1項)戦争の放棄
(2項)すべての軍事力と交戦権の放棄
のふたつがあります。
(注:正確には「軍事力の不保持」と「交戦権の否認」)
いまでは広く知られているように、右の2項内の「すべての軍事力の放棄」については、
1952年の独立後、一度も守られたことがありませんでした。
現在の自衛隊は世界第7位の軍事予算をもっていますし、
国内に駐留する世界最強の同盟軍(米軍)は、日本政府の許可なく、いつでも自由に戦地に向けて出撃しています。
しかし、だからといって憲法9条がインチキだったといいたいわけではありません。そうではないのです。
空文化した2項の矛盾は飲み込んだうえで、「憲法には指一本ふれるな」という明確な防衛ラインを設定し、
なんとか1項の「戦争放棄」という理念だけは死守してきた。それが日本の戦後70年だった。
その歴史は決して間違ってはなかったといいたいのです。
けれども安倍政権の進める、米軍との密約に手をつけぬままでの集団的自衛権の行使容認は、
9条2項だけでなく、1項も完全に空文化させるものです(くわしくはこのあとの「付録」を参照)。
簡単にいうと、日本はついに、平和憲法に指一本ふれぬまま、平和憲法を完全に葬ろうとしている。
憲法についてはなにひとつ議論しないまま、世界中でアメリカ軍の指揮のもと
「戦争ができる国」(=他国に先制攻撃を行う国)になろうとしているのです。
いったいそれはなぜなのか。
日本はなぜ、「戦争」を止められないのか。
その究極の問題について、いま私たちは真正面から向き合い、議論する必要があります。
そして私たち「非戦派」による、新たな議論にもとづいた、新しい「平和国家・日本」のかたちを見つけだす必要があるのです。
この本がそうした問題を考えるきっかけになることを、心から願っています。

*****

日本は、地理的には、アメリカと中国の間に位置する。この地理的条件は変えようがない。
その一方に「ポチ」のように仕え、「シッポは振り切れている」と言われた日本。
そのうちに、もう一方が経済的技術的そして軍事的台頭し、
「太平洋は広いのだから、両国で分割支配しようではないか」と言い出すに至る。
落ち目のもう一方は、新たなグローバルプレイヤーと事を構える気はなく、またその余裕もない。
自分勝手にルールを解釈する、あるいは作って押し付ける傾向があるので、この点は苦々しく思っても、
14億人になろうという規模の市場を捨ててまで、ポチが持つ岩礁の親玉を巡って、
ドンパチする気はさらさらない、というか、ある訳がない。

この程度の相関図は素人でも描ける。
問われるべきは、この間でどう振る舞うべきか、ということ。
シッポは振り切れても、生身の人間を戦地に送り出すことだけは、
「国民世論からして政権が持たない」云々を言い訳として、のらりくらり避けてきた。
130億ドルが砂に消えても、それを是としてきた。
しかし今、自ら進んで、落ち目の国のお先棒を担ぎ、自衛官を人柱に捧げることで発言力を確保しよう、
そのような方向へと、ものすごい勢いで方向転換を図ろうとしている。

70年間培ってきた日本のブランドは、自衛官の命と引き換えに発言力を確保しなくても
(そもそも、そうしたところで、どれほどの発言力が手に入るということやら……。)
別のところにある。
(それを情けないほど活かせていないことも事実だが……。)

だからこそ、己の15歳の誕生日にA級戦犯の処刑をぶつけられることで、
否応なしにあの戦争と日本、そしてアメリカとの関係を考えざるを得なかった明仁天皇のお言葉を探ることで、
一つの指針を見出そうとした、そのような本だと受け止めている。
やはり、学生達としっかり読みたいと思う。で、学生達が別の考え方を持ったならば、それはそれで構わない。
ただ、日本の最上級の教養人である明仁天皇が何を語ってきたのか、そのことを多少なりともフォローした上で、
自分の考えを持ってもらいたい、とは思う。

『戦争をしない国:明仁天皇メッセージ』(その2)

2015-08-17 23:42:07 | 安全保障・安保法制・外交軍事
昨日の更新に引き続き、矢部宏治文・須田慎太郎写真による『戦争をしない国:明仁天皇メッセージ』(小学館刊)から、
気になる&共有しておきたい部分を抜粋で示すこととしたい。

*****

「なぜ、日本は特攻隊戦法をとらなければならないの」(90頁)

矢部氏は、第二次世界大戦も最末期の1945年8月2日、明仁皇太子が陸軍の高級軍人に発した上記の質問を、
皇太子の軍事教育係だった者の手記に記されたもので、まず間違いのない事実だと考えて良いと述べた上で、
以下のように続けている。

「その時有末は、最初かなり困った顔をしたものの、すぐに気をとり直し、平然と次のように答えたといいます。

「特攻戦法というのは、日本人の性質によくかなっているものであり、また、物量を誇る敵に対しては、
もっとも効果的な攻撃方法なのです」(『天皇明仁の昭和史』高杉善治/ワック)

その有末は戦後、GHQの諜報機関への情報提供者となり、戦犯指定をまぬがれて、
平成4年、96歳まで生きのびることになりました。
若者に特攻を命じる一方で、自分たちは安全地帯にいて、占領終了後すぐに復活した高額の「軍人恩給」によって
生涯安楽な生活を送った戦争指導者たち。
その責任をしつこく調査・糾弾せず、結果として許してしまった国民たち。
特攻は玉砕や飢死と並んで、私たち日本人のもつ欠点が凝縮された、
歴史上もっとも深刻に反省すべき出来事といえます。」(92頁)


さらに、海軍予備学生だった矢部氏の父の特攻隊志願についての個人的経験を紹介した後、以下のように続けている。

「戦争に関する庶民の手記が教えてくれるのは、旧日本軍の指導者は『天皇』の名のもとに、
驚くほど簡単に国民の命を奪うことができたという事実です。
『一億玉砕』という国民全員を殺害するような『戦法』を、軍の『戦争指導班』が公的文書の中に標記していた過去を持つ日本。
それは純粋な自衛以外の戦争など、絶対にやってはいけない国なのです。」(93頁)

同書94頁、95頁の見開きでは、日の丸を背景に、明仁天皇の次の言葉が記されている。

「やはり、強制になるということではないことが望ましいですね」
(注:2004年の秋の園遊会における、当時東京都教育委員をつとめていた米長邦雄氏による
「日本中の学校にですね、国旗をあげて国家を斉唱させるというのが、私の仕事でございます」との発言への返答として。)

「天皇という権威をかかげて、国民に法的根拠のない義務を強制する、そうした日本の社会や権力者のあり方が、
戦前は多くの国民の命を奪うことになりました。その代表がすでにふれた特攻です。
明仁天皇のこの言葉には、二度とそうしたことがあってはならないという決意がこめられています。」(96頁)

矢部氏の解釈は、明仁天皇と美智子皇后のお気持ちを、そのまま受け止めたものだと思う。
自分の都合の良いように(意図的に)曲解している様は感じられない。
立場の限界を十分認識しつつ、そのギリギリのところで国民に、社会に、メッセージを発している。

この時代感覚とバランス感覚、そして過去の過ちを繰り返してはならないということへの大変強い思い。
我々には、このような良き道しるべがある。
そして本書は、その道しるべについての、大変的確でわかりやすい解説書だと思うのだが。

あと1回、ひょっとするともう1回、この本について書くことになると思う。
というのも、あとがきと付録に、大変良い考え方が示されているので。
こういう本がしっかりと売れてほしいと思う。
そうすれば、日本人もまだまだ捨てたモノではないな、と、確信をもって思えるのだが。


『戦争をしない国:明仁天皇メッセージ』

2015-08-16 22:16:40 | 安全保障・安保法制・外交軍事
昨日が70年目の終戦記念日だった。

本来であれば、それにちなんで何かを書くべきだったのだろうが、
しっかりとモノを考えるには、(本職絡みとはいえ)いささかドタバタ続きで集中が出来ず、
前日の教員免許更新講習の話題の続きで「お茶を濁してしまった」ような次第。

今日16日から、年1回の母親孝行でしばらく日本を留守にする。
この時にこそ、という訳でもないが、ガイドブックの他にも数冊、旅荷物の中に本を入れている。
その中で、フランクフルトに向かう機中で読み、感動し、
後期が始まったら、まず、学生に読ませなくてはならない、と思っているのが、
標題に掲げた『戦争をしない国:明仁天皇メッセージ』
(矢部宏治文、須田慎太郎写真、小学館、2015年)

本当の教養人というのはどういう人なのか。
昭和天皇もそういう人だったと聞いているが、今上陛下である明仁天皇も、
幼少期から今日に至る「大きな苦悩の中から」「読者の心を打つようなすぐれたメッセージ」を生み出したのだ、ということが、
本の中で数多く引用されている「お言葉」の節々から、感じ取ることが出来る。
否、いやでも正面から受け取らざるを得ない。

戦後70年。日本が営々と築き上げてきたものを、ただの一つの内閣が捨て値で売り飛ばそうとしている。
そのことについて、象徴天皇である明仁天皇は、はっきりと述べることはしていないが、
明仁天皇が、また美智子皇后が折々に述べてきたことを振り返るだけで、
本当の教養人とニセモノとの差は、誰の目にも明らかになるのではないか、と思う。

(長州人は、このようなニセモノを国会議員に選んでしまったことを、恥じるべき、と思う。)

一冊の本にまとめた矢部さんの筆の力も大したもの、と思うが、やはり、
教養があり、バランス感覚があり、そしてこの国の姿を我が事として考えてきたお二方の「お言葉」という、
素晴らしい素材があったればこそ、とも思う。

この本は6章構成になっている。

Ⅰ I shall be Emperor
Ⅱ 慰霊の旅・沖縄
Ⅲ 国民の苦しみと共に
Ⅳ 近隣諸国へのメッセージ
Ⅴ 戦争をしない国
Ⅵ 美智子皇后と共に
(さらに付録として、世界はなぜ、戦争を止められないのか、と題して、
国連憲章と集団的自衛権についての考察がみじかくまとめられている。)

第2章に、こんな一節がある。

1975年7月、沖縄を初めて訪問された明仁皇太子ご夫妻に対して火炎瓶が投げつけられるという、
いわゆる「ひめゆりの塔事件」が発生した。
その夜、報道陣に配られた談話に、以下のお言葉があったのだそうな。

  「払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものでなく、
  人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、
  この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません。」
    (昭和50年〔1975年〕7月17日/文書による「談話」、32頁)

筆者の矢部さんは、このお言葉を、

「これから自分は国民と共に長い年月をかけて、沖縄が過去に払った尊い犠牲に対し、
記憶しつづけ、考えつづけ、心を寄せつづけることを約束しますという、
皇太子の明確なメッセージでした。」

と整理している。なるほど、その通りだ、と思う。

火炎瓶を投げつけた側にも、皇太子ご夫妻を害する気はなく、ただ、
昭和天皇や日本政府の戦争責任を問いたかったのだ、と。
だから、数m外れたところに、火炎瓶は投げられた。

直後に行われた有識者への緊急世論調査では、①長い間モヤモヤしていたものが、あの一発で吹っ切れた、
②皇太子ご夫妻に当たらなくてよかった、③過激派はいやだ、④皇太子ご夫妻には好感を抱いた、
というものだった、と。

そしてこうも述べている。

「決して「やらせ」というわけではなく、結果として「無意識の共同作業」が行なわれ、
沖縄と本土が関係を修復する糸口が作られたことになります。
本当の政治というのは、無数の人びとの思いや激情が交錯するなか、こうしてぎりぎりの着地点を求め、
そこに一瞬だけ収斂し、またふたたび次の着地点を求めて飛び去っていく。
そういうものなのかもしれません。」(33頁)

また、第5章では、こんなことも述べている。

  「今年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。
  各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより
  亡くなった人々の数は誠に多いものでした。
  この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、
  今後の日本のあり方を考えていくことが、極めて大切なことだと思っています。」
   平成27年〔2015年〕1月1日/新年の感想

「戦後日本とは、とにかく戦争だけはしない、それ一本でやってきた国でした。
そのために、どんな矛盾にも目をつぶってきた。
沖縄に配備されていた米軍の核兵器にも、本土の基地からベトナムやイラクに出撃する米軍の部隊にも、
首都圏上空をおおう米軍専用の巨大な空域にも、ずっと見て見ぬふりをしてきたのです。
それもすべては、とにかく自分たちだけは戦争をしない、海外へ出かけて人を殺したり
殺されたりしない、ただそのためでした。
戦後の日米関係の圧倒的な力の差を考えれば、その方針を完全な間違いだったということは、
だれにもできないでしょう。
ところがいま、その日本人最大の願いが安倍首相によって葬られ、
自衛隊が海外派兵されようとしているのです。
こうしたとき何より重要なのは、右の明仁天皇の言葉にあるように、歴史をさかのぼり、
事実にもとづいた議論をすることです。数え方にもよりますが、少なくとも半世紀のあいだ、
私たち日本人はそういう根本的な議論をすることを避けつづけてきたのです。」(84頁)

他にも紹介したいフレーズは幾つもあるが、今日の更新ではこのくらいにしておく。
最後に一つ。このような本を世に出した小学館を、大いに評価したい。
まだ、日本は、根本までダメになってしまった訳ではない。