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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

魔の曲がり角

2017-05-27 10:34:20 |  無社殿神社2

<花の窟 はなのいわや>

 

熊野市の市街地からさほど離れていない場所にある、

自然信仰の聖地へ出発したのは夜明け前でした。

ちょうど花の窟のあたりでご来光を拝み、

次第に勢いを増す太陽光に背中を押される中、

まず最初に私を出迎えてくれたのは、

住宅街の一角に突如としてあらわれた、

車一台がギリギリ通れるほどの

狭く細い坂道への曲がり角でした。

 

崖を削って作られたようなその坂道は、

少なく見積もっても30度以上の傾斜があり、

思わずハンドルを切ることをためらうほどです。

「本当にこの道で大丈夫だろうか…」

という漠然とした不安にかられて、

再度ナビと地図を確認してみたのですが、

やはりここ以外の選択肢は見つかりません。

 

先日の静川・高倉神社での恐怖体験がよみがえり、

その先の展開を想像してあれこれ迷うこと約10分。

「ここまで来たら行くしかない」と意を決し、

魔の曲がり角へとやおらハンドルを切り、

アクセルを最大限に踏み込みながら

先の見えない急坂へと突入したのです。


雌の聖地

2017-05-26 10:04:51 |  無社殿神社2

<乳子大師 ちごだいし>

 

熊野本宮大社近くの森の中に突如としてあらわれた、

「ちちさま」と呼ばれるお乳型の二つの岩は、

その形状から「母乳の出がよくなる」と言われ、

古くから信仰の対象となってきました。

ここに限らず、熊野の東エリアには、

女性の身体を象った自然物(主に岩)や、

女性特有の願いをかなえる信仰の場が、

あちこちに散らばる「雌の聖地」で、

これほど「女性色」が集約された地域は、

全国的に見ても珍しいような気がします。

 

この地にイザナミが祀られるようになったことが、

これらの信仰形態に影響したのか、

もしくはもともと存在した特殊な形の自然物が、

イザナミへの信仰にすり替わったのかは、

今となっては定かではありませんが、

「何かを産み出そうとする力」にあふれた、

独特の形状の岩々を目にするたびに、

自然物を通して発せられる「神様の意志」に、

思いを馳せずにはいられなくなるのです。


乳子大師

2017-05-25 10:02:30 |  無社殿神社2

<乳子大師 ちごだいし>

 

熊野本宮大社手前の交差点を、音無川のほうへ曲がると、

ほどなくして森の中へと続く小道の入り口のあたりに、

「乳子大師」という案内板が見えてまいります。

谷沿いの細い遊歩道を歩いた先に見えてきたのは、

無社殿神社の象徴である自然石を積み上げた石垣と、

この場所の名称にもなっている石仏(乳子大師)、

そして豊かに張り出した女性の乳房を象った岩でした。

 

「●●に似た」と称される自然物はたくさんありますが、

これほどまでに見事な形状はそうそうないはずで、

滑らかな岩肌に突き出す二つの突起物を見た瞬間、

思わず「リアルだ…」と唸ってしまったほどです。

決して信仰対象として人為的に作られたわけではなく、

いつの頃からか自然にあらわれたそうですから、

自然に秘められた力には改めて不思議な感情を抱きます。


熊野の自然信仰

2017-05-24 10:08:19 |  無社殿神社2

<まないたさま>

 

***** 自然崇拝 *****

ここからは舞台を熊野の東エリアに移し、

この地に点在する「自然信仰の痕跡」を

探索して行きたいと思います。

世界遺産にも登録された花の窟を筆頭に、

神倉神社のゴトビキ岩や大丹倉など、

三重県・和歌山県・奈良県との県境付近には、

神社との境目すらわからないような、

信仰の跡がたくさん残っています。

 

「神社」という概念さえなかった

古代の人たちからしてみれば、

常日頃 私たちが接している信仰の形のほうが、

よほど不可解なものなのでしょう。

巨大な岩や太い古木の前に置かれた、

お飾りのような祭壇を見るにつけ、

日本人が手を合わせ続けてきた対象が、

素の自然そのものであるということを、

はっきりと理解できたような気がしました。


静川の裏の顔

2017-05-23 10:25:36 |  無社殿神社2

<静川・高倉神社 しずかわたかくらじんじゃ>

 

本宮町・静川地区の高倉神社は、

山壁を削るようにして積み上げられた、

頑丈な石垣の上に建てられていました。

さほど古さを感じさせない社殿の脇にある

板状のブロックを敷いたような祭壇が、

恐らくこの神社の元の姿だと思われます。

 

そして静川・高倉神社の目玉?と言えるのが、

山の斜面を流れ落ちる「宮さんの滝」と呼ばれる

小さいながらも存在感のあるご神体の滝です。

滝つぼの周辺には、大きな岩が無造作に転がり、

大雨が降れば確実に道路を塞いでしまいそうなほど、

荒々しい自然の姿をそのままに残していました。

 

数日前から晴天が続いていたその日は、

ご神体の滝も眼下を流れる大塔川も、

穏やかな様相を保っていましたが、

ひとたび台風や嵐の時期に入れば、

いつ何時、山崩れや路肩の崩落が起こり、

神社へと続く道が閉鎖されるとも限りません。

 

思いがけず参拝することが叶った縁と、

険しい環境だからこそ生まれる

「真剣な神様への畏敬の念」を、

この土地のあちこちに感じながら、

自然災害が最小限にとどまるよう、

祈念しつつ神社を後にしました。


氏子との絆

2017-05-22 10:23:06 |  無社殿神社2

<静川・高倉神社 しずかわたかくらじんじゃ>

 

熊野地方の小さな神社を巡っておりますと、

頻繁に出くわすのが「合祀」という言葉です。

明治から大正の時代にかけて、

この地では多くの神社が廃社の危機に遭いながらも、

「氏子たちの崇敬心」により神様との絆を保ってきました。

 

本宮町にある静川・高倉神社も、

一時期、近隣の神社に合祀され、

形式上は神様がいなくなってしまったそうですが、

再び元の場所にお戻りになるまでの間、

以前と同じようにお祭りが続けられたと聞きます。

 

静川の集落で道を教えてくれたおばあさんの

「高倉神社」の名を聞いたときのうれしそうな顔が、

この神社への地域の人々の思いを、

代弁しているような気がしました。


よそ者の流儀

2017-05-21 10:20:22 |  無社殿神社2

<静川・高倉神社 しずかわたかくらじんじゃ>

 

静川・高倉神社へと続く「退避スペースのない一本道」で、

来るはずのない対向車と鉢合わせしたとき、

まず私が思ったのは「準備不足」という言葉でした。

常々「事前準備こそ参拝の極意」などと言っておきながら、

訪問先の神社に対する予備知識をほとんど持たずに、

衝動的に予定を入れてしまうことが間々あります。

 

他人から見れば「それほど慎重に構えなくても…」 と思うような、

つまらないこだわりかもしれませんが、

私自身の経験の中から感じるのは、

お参りさせてもらう神社(神様)への仁義を切ることが、

「よそ者」に課せられた参拝流儀だということです。

 

前回訪れた、古座川の峯・矢倉神社を訪問した折も、

かなりの行き当たりばったり感は否めなかったものの、

あのときは、何度も情報を精査したうえで、

やむなく旅の日程から外していた経緯があり、

今回のように全くの準備不足だったわけではありません。

 

本来であれば、改めて道路事情などを考慮した上で、

参拝させていただく旨を心に思うべきだったのでしょう。

静川・高倉神社での出来事を通してわかったのは、

やはり神様は「参拝者の心を見透かしている」という、

知っているつもりで知らなかった当たり前の事実でした。


現代の八咫烏

2017-05-20 10:10:03 |  無社殿神社2

<本宮町・静川地区>

 

本宮町・静川地区の山深い断崖絶壁の一本道に至り、

「退避スペースのない場所での対向車出現」という、

絶対に避けたかった事態に遭遇した私は、

「やはり無謀な試みだったか…」と、

無計画のチャレンジを激しく後悔したものの、

さすがに相手は熊野で生きる山の民でした。

 

私があたふたと前後左右を確認している間に、

颯爽とギアをバックに入れ替えるやいなや、

ものすごいスピードで後ろへと引き返し、

気づけば遥か彼方の尾根の向こうへと、

露のごとく消えてしまったのです。

 

まるで山々を縦横無尽に駆け回る

八咫烏を思わせるようなその雄姿を、

あっけにとられながら見送った私は、

記憶の底に追いやっていた当初の不安を、

このタイミングでようやく思い出したのです。

 

そして同じ年代であろうその運転手 (しかも女性)

のたくましさに感服するとともに、

どこか遠いところで私の到着を待っているはずの

勇敢な女子に心からの謝意を述べるべく、

ホッとひと息ついて車を前進させたのでした。


一抹の不安

2017-05-19 10:14:32 |  無社殿神社2

<本宮町・静川地区>

 

本宮町・静川地区で出会ったおばあさんの

懇切丁寧な道案内を無にすることもできず、

不穏な山道へと車を走らせた私はその数分後、

「これはまずい展開になりそうだ…」という、

漠然とした不安に襲われることになります。

幸い、道路が崩落した個所はすでに修繕され、

通行止めのアクシデントを免れたにも関わらず、

なぜか一抹の不安が頭の中をよぎるのです。

 

結論から先に申し上げますと、

無事に神社参拝を終えたその帰路で、

運悪く数台もの車とすれ違う羽目になり、

途中まではかろうじて退避できたものの、

最後に対面した町の庁用車と思われる車とは、

どうしても離合する方法が見つからないまま、

断崖絶壁の細い山道を、数百メートル以上も

バックで戻るという状況に追い込まれたのでした。


不穏な狭路

2017-05-18 10:09:02 |  無社殿神社2

<本宮町・静川地区>

 

以前も申しましたように、山深い過疎の集落で、

土地の人と出会う確率は、想像以上に低いものです。

案の定この本宮町・静川地区でも、

民家の数はそこそこあるにも関わらず、

いくら目を凝らしても「人」を見つけられないまま、

気づけば集落の端まで来てしまいました。

 

「これは無理、今回はあきらめよう」と、

なぜかちょっとだけ安堵感を覚えながら、

元来た道を引き返そうとしたそのとき、

民家の玄関からおもむろに登場した、

ひとりのおばあさんを発見し(てしまっ)たのです。

 

突如として訪れた幸運(不運?)に躊躇したものの、

出会ってしまったからには声をかけないわけにはいきません。

意を決して神社の場所を訪ねた私に、

おばあさんはとびっきりの笑顔とともに、

集落の最奥からさらに山の中へと消える、

「不穏な狭路」を指し示してくれました。


一か八かの運試し

2017-05-17 10:06:45 |  無社殿神社2

<静川小学校>

 

本宮町・静川地区にある無社殿神社を目指して、

神社へと続くはずの山道の入り口まで来たものの、

以前ネット上で幾度となく目にした、

「路肩崩落」「通行止め」という情報が、

頭の中をグルグルと駆け巡り、

どうしてもそこから先へと進むことができません。

一瞬「次の機会に」という選択肢がよぎったのですが、

やはりここまで来て引き返すのは、少々悔いが残ります。

 

廃校になった小学校の前で、

しばらくの間あれこれと考えあぐねた結果、

「地元の人があらわれたらGOサイン」

「地元の人があらわれなかったらNOのサイン」

という結論を出した私は、

「あらわれて欲しい気持ち半分」

「あらわれて欲しくない気持ち半分」

といった複雑な感情を抱きながら、

運試しのつもりで集落の中心部へと車を進めたのでした。


山越えのメッカ

2017-05-16 10:03:58 |  無社殿神社2

<本宮町・静川地区>

 

熊野本宮大社近くの観光名所・川湯温泉を、

大塔川に沿って遡って行きますと、

本宮町・静川という地区に出ます。

集落を貫く県道241号線は、一般道が途絶えた先にも、

ライダーたちのサバイバル心をくすぐる長い林道が

続くことで知られるドライブルートで、

「秘境マニア」からの注目も熱い、

山越えのメッカだと聞きます。

 

今回私が、急きょ予定を変更して目指したその神社は、

県道の終点近くにあるという情報は得ていたのですが、

いかんせん「本気で」訪れる気持ちがなかったため、

かなり行き当たりばったりの感は否めません。

静川集落の最奥には何とかたどり着いたものの、

急激に幅を狭めるカーブの向こうを想像すると、

果たしてその先に進んでいいものかどうか、

しばし車を停めて思案してしまいました。


いわくつきの場所

2017-05-15 10:03:24 |  無社殿神社2

<本宮町・静川地区>

 

熊野川町にある大山・高倉神社への参拝を終え、

次の目的地へと向かう最中、頭の中にふと、

とある神社の名前が浮かび上がってまいりました。

それは、前回訪問を後回しにした場所なのですが、

諸々の理由により、今回の旅の予定からも

外していた「いわくつき」の無社殿神社でした。

 

ちなみに、なぜ前回に引き続き、

今回も選択肢から外したかと言いますと、

路肩崩壊による道路閉鎖のため…(現在は未確認)。

不定期で通行止めになるという噂を聞きつけ、

安全策を取り参拝をあきらめていたのです。

 

しかし、2度も近くまで来ているにも関わらず、

立ち寄らないというのも心残りな話ではあります。

不穏な憶測がかすかに頭をよぎったものの、

「それでも…」という好奇心を抑えきれず、

急きょスケジュールにはないその場所へと、

車を走らせることに決めたのでした。


見えない石段

2017-05-14 10:28:28 |  無社殿神社2

<大山・高倉神社 おおやまたかくらじんじゃ>

 

熊野地方の地主神をあらわす「空神」という表現は、

神様の本質を実に的確にとらえた言葉だと思います。

もしかすると「空神」という存在を残したいがために、

この地の無社殿神社が守られたとすら思えるほどです。

普段私たちが参拝している大きな社の前では、

「空」という存在を感じ取ることは難しいでしょう。

どうしても社殿の中に神様がおられるように感じ、

その先にあるものにはなかなか意識を向けられません。

 

余計な人工物を取り払った無社殿神社だからこそ、

私たちは「何を拝んでいるのか」を考えるようになり、

手を合わせた先にあるのが「空(くう)」だとわかるのです。

空の青と森の緑を混ぜた碧色(へきしょく)は、

神様の色であり神社を取り囲む色でもあります。

大山・高倉神社の美しい緑色の空間で、

木々の合間からのぞく澄んだ青空を見上げたとき、

空神の元へと見えない石段がかけられたような気がしました。


地上の天空

2017-05-13 10:23:30 |  無社殿神社2

<大山・高倉神社 おおやまたかくらじんじゃ>

 

まるで宙の上を歩くかのように滑らかな苔、

天へと向かうように積み上げられた石の階段、

何ひとつ視界を遮るものがない簡素な祭壇…。

改めて全体を見渡すと、大山・高倉神社の境内には、

「天空」を思わせる装置が随所に仕掛けられていました。

参拝者が神域に入り、祭壇の前にたどり着くと、

自然と空を仰ぐような形が作られているのです。

 

長い歴史の中で、人間の都合に合わせて、

建物の配置が替えられたケースは多々ありますが、

もともと神社という場所は、

最も効率よく神様に向き合えるよう、

最善の形で設置されているものなのでしょう。

「空に向かって手を合わせる」

それ以外の奉納の儀式は、

まったく必要ないのだと思います。