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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

イの地名

2018-06-13 09:00:19 | 阿波・忌部氏2

<三好市・東祖谷>

 

「伊予国」と言えば愛媛県を表しますが、

その昔、四国は「東の伊の国」「西の予の国」

の二つの国に分けられており、愛媛県は「予の国」、

「伊の国」は徳島県の一帯を示す言葉でした。

その影響なのか、実は徳島県内には、

「イ」から始まる地名が多々見られ、

かずら橋で有名な、剣山西部の祖谷(イヤ)は、

その代表的な名称のひとつです。

 

ちなみに、祖谷という難しい読みの由来は、

イ(井)ヤ(谷)で川の流れる谷との説や、

「祖霊のいる地」という意味のオヤが転訛したとの説など、

様々な可能性が取り沙汰されているものの、

はっきりした根拠はわかっておりません。

また一説には、祖谷は「イザヤ」

あるいは「イシヤ」を暗示する地名であり、

古代イスラエル由来の名称とも言われています。


祭祀者の道

2018-06-12 09:42:24 | 阿波・忌部氏2

<三好市・東祖谷>

 

二度にわたる阿波忌部氏の

痕跡を巡る旅も終わりに近づき、

剣山の周囲をぐるっと一周して、

祖谷の裏側まで戻ってまいりました。

剣山と古代イスラエルとの関係を皮切りに、

粟国から長国へと足を進めてまいりましたが、

剣山一帯の歴史を紐解くヒントは、

やはり「祖谷」に隠されているのではないか、

という思いがふつふつと湧き上がってきます。

 

忌部氏とは一定の距離を

保っていたと思われる祖谷の地は、

恐らく、彼らとは異なる祭祀氏族が、

居を構えていたエリアなのかもしれません。

もしかすると、物部の天中姫宮にも縁する

「祭祀家」の人々だった可能性もあります。

古代の祖谷と物部とを結ぶ、

塩の道という名の「朱の道」は、

言うなれば古い祭祀者の道でもあったのですね。

 

祖谷という空白の地の伝承を探ることで、

古代の阿波国の様相、忌部氏という謎の部族の姿、

そして祖谷で暮らしていた人々の隠された素性が、

よりはっきりと浮かび上がってくるはずです。

ここからは再び「祖谷」に舞い戻り、

祖谷に伝わる「ある歌」をご紹介しながら、

旅の締めとすることにしましょう。


祭祀家の姫

2018-06-11 09:37:47 | 阿波・忌部氏2

<物部町・別府>

 

物部と祖谷との関係を考えている最中、

ふと脳裏によぎったのが、

いざなぎ流の始祖である天中姫宮のことでした。

いざなぎ大神から、弓祈祷や人形祈祷の技を

伝授された天中姫宮という少女は、

天竺(恐らく大陸という意味)の呪術を、

軽々とマスターしただけでなく、

それらを凌駕するほどの返し技を見せつけ、

いざなぎ大神を驚かせます。

 

そして、天竺の祈祷術が、犬や猿や蛇など、

獣の類を使った妖術であることを見破り、

「私の国(日本)では、このような外法は行わない」

といった内容の言葉を発したのだとか。

これはつまり、日本古来の祈祷法(祭祀家)と、

大陸由来の祈祷法(祭祀家)との交流を示唆すると同時に、

「日本の神事においては、獣を扱うような祈祷は邪道」

という、渡来系氏族へのアンチテーゼなのでしょう。

 

もしかすると、天中姫宮という少女は、

日本の先住民族の血筋を引く、

高貴な家柄の生まれなのかもしれません。

忌部氏が渡来するずっと以前から、

このあたりに本拠地を構えていた

祭祀家の「姫」だったと想像すると、

にわかに気になり始めたのが、

物部と「朱の道」を通じて結ばれていた、

古い日本の神を祀る祖谷という場所でした。


忌部空白域

2018-06-10 09:33:44 | 阿波・忌部氏2

<絵金蔵>

 

土佐の町絵師・絵金の本拠地である旧赤岡町と、

いざなぎ流で有名な旧物部村を結ぶ「塩の道」は、

古くは物部村の北側に位置する矢筈峠を越えて、

阿波の祖谷方面へと続いていたそうです。

祖谷から物部に通じるこの峠越えの道は、

安徳天皇一行が逃げ延びたという伝承や、

よさこい節に登場する純信とお馬が、

駆け落ちしたという伝承……等々、

様々な「逃亡伝説」が残っております。

つまり、人々の目から身を隠すには、

うってつけの場所だったわけですね。

 

塩の道の終点(起点)でもある

物部・祖谷という山深い二つの山村は、

阿波忌部の拠点にごく近い場所でありながら、

忌部氏の痕跡がほとんど見当たらないエリアです。

特に祖谷は、阿波国の一部であるにも関わらず、

なぜか忌部系の神社がほぼ存在しない、

「忌部空白域」だと言われています。

恐らくこの一帯は、忌部とは一定の距離を置き、

独自の交易ルートを持っていたのかもしれません。

だとすれば、祖谷や物部に住んでいたのは、

いったいどのような人々だったのでしょうか……。


物部の辰砂

2018-06-09 09:30:48 | 阿波・忌部氏2

<弁天座>

 

「毒を以て毒を制す」……この言葉は、

いざなぎ流という民間信仰の大元にある

「物部の祈祷」、そして「忌部の祭祀」の

ある一面を言い表したものかもしれません。

疫病や悪霊払いのために描かれたと言われる、

芝居絵屏風という独特の浮世絵風絵画の中で、

作者である絵金が「血赤」にこだわったのも、

単に赤という色が重要だったわけではなく、

辰砂(水銀朱)の成分に魔を除ける効果が

あることを知っていたからなのでしょう。

 

恐らく、画材用の辰砂(水銀朱)の調達のために、

物部の里やいざなぎ流の太夫との交流を持つ中で、

絵金はその驚くべき作用を体感したのだと思います。

そして、画面全体に血しぶきが飛び散るような

「魔を寄せる図柄」と辰砂とを組み合わせることで、

ただの飾り絵ではない実践的な呪術としての

芝居絵屏風を書き上げて行ったのかもしれません。

もしかすると、絵金本人が「物部系の人」であり、

物部村との縁故を有していたのでしょうか……。

いずれにせよ、絵金の生々しい芝居絵には、

物部の秘術が潜んでいるのは確かなようです。


毒を以て毒を制す

2018-06-08 09:27:31 | 阿波・忌部氏2

<絵金蔵>

 

古くは「丹陵(あかおか)」とも表記した、

絵金蔵のある赤岡町という地名は、

その昔は沖合のほうから見ると、

一帯が赤く盛り上がった丘のように

見えたことからその名がついたそうです。

また、赤岡の町には、鍬や鎌や鉈などの

農耕具を造る「鍛冶屋」や、

鍋や釜など修理する「鋳掛け屋」が、

多く集まっていたという話も聞きました。

赤く盛り上がった丘が、水銀朱を

指しているかどうかはわかりませんが、

少なくとも、赤岡町と鉱山とが、

綿密につながっていたのは確かなようです。

 

ちなみに、芝居絵の描かれた屏風を

家の外側へ向けて飾る赤岡の風習は、

邪気を家に入れないためのまじないであり、

夏祭りに合わせて訪れた観光客らは、

蝋燭や提灯に照らされたそれらの絵を、

夜の街を歩きながら見て回るのだとか。

暗闇の中でぼんやりと浮かび上がる

物々しい屏風の絵面は、まさしく

「毒を以て毒を制す」の雰囲気です。

絵金蔵でも、手に持った提灯を頼りに、

薄暗い館内に飾られた芝居絵を

鑑賞する趣向になっておりました。


血赤

2018-06-07 09:24:44 | 阿波・忌部氏2

<絵金蔵>

 

絵金の作品の中で特に印象深かったのは、

大量に使われていた「赤」の色合いでした。

「血赤」とも呼ばれるその鮮やかな赤は、

絵金ならではの持ち味のひとつであり、

「絵金=血」というイメージを定着させたのも、

この血赤の色味が影響しているのでしょう。

恐らく絵金は、この「赤」を使いたいがために、

作品を描き続けたのではないかと思えるほど、

その色は鮮烈なインパクトを放っていました。

 

ミュージアムに展示されていた絵を眺めるうちに、

どうにも「赤」の由来が気になって仕方なくなり、

案内してくれたボランティアガイドの方に聞いてみますと、

「この赤は物部で採取された朱を使っています」とのこと。

実は、物部村には鉱山があり、そこで採れた水銀朱を、

絵金は好んで使用していたのですね。

恐らくは、赤岡村の特産である塩を

物部村に届けたのちの帰り荷として、

水銀朱(辰砂)を得ただけでなく、

水銀朱を入手するための代価として、

塩を運んでいた可能性も考えられます。


絵金

2018-06-06 09:21:20 | 阿波・忌部氏2

<香南市・赤岡町>

 

土佐に生まれ江戸時代末期から明治にかけて

活躍した浮世絵師・弘瀬金蔵(通称:絵金)は、

当時庶民が熱狂していた歌舞伎や浄瑠璃などを題材に、

独自の浮世絵風絵画を描き続けた町絵師です。

地元の豪商をはじめとする人々の依頼に応じて、

芝居絵屏風、絵馬提灯、五月幟、押絵、凧絵など、

多種多様な工芸品の制作を請け負いました。

 

その極彩色に彩られた迫力満点の絵は、

まるで人間の業をむき出しにしたかのごとく、

猥雑かつ不気味なムードが漂う

おどろおどろしい作風でありながら、

なぜか人を惹きつけて止まない

不思議な魅力にあふれています。

 

絵金が描いた作品の多くは、

疫病や悪霊払いの「魔よけ」として、

神社や御堂に納められたそうですが、

中には個人が所有しているものもあるのだとか。

現在も赤岡周辺では、夏祭りの時期になると、

氏神の境内だけでなく、民家や商店の軒先に

各々の家に伝わる芝居絵の屏風を置き、

邪気払いをする風習が残っています。


塩の道

2018-06-05 09:00:58 | 阿波・忌部氏2

<香南市・赤岡町>

 

いざなぎ流で有名な旧物部村を訪ねた翌日、

高知県の香南市の旧赤岡町へと車を走らせました。

この町には「絵金蔵」というミュージアムがあり、

赤岡町を拠点に活躍した町絵師、

絵金(えきん)の作品を拝観できるのです。

しかしながら、文化財および著作権保護のため、

展示作品は主にレプリカであるだけでなく、

写真撮影もNGということで、

画像をご紹介できないのが心苦しいところ。

絵金の作品をご覧になりたい方は、

ぜひネットなどで検索してみてください。

 

ところで、なぜこのタイミングで

「絵金」かと申し上げますと、

その絵面を最初に見たときから、

「物部との縁」を強烈に感じたからなのでした。

調べてみますと、確かにこの地と物部村とは、

「塩の道」という古代の産業道路で結ばれており、

かつては海辺の赤岡町で採れた塩を、

山間部の物部町まで運んでいたのだそうです。

現在は、香美市物部町大栃から

香南市赤岡町までの 約30kmの区間が、

「塩の道」として整備されていますが、

当時は、物部町大栃からさらに奥に入った別府地区や

徳島県祖谷地域などへも道が繋がっていたと言われています。


いざなぎ流の神髄

2018-06-04 09:57:41 | 阿波・忌部氏2

<山崎神社 やまさきじんじゃ>

 

面妖な人型や怪しげな祭文、不気味な表情の仮面に

犬神や猿神などの眷属動物……等々、

「いざなぎ流」に付きまとうイメージは、

いわゆるオカルト的な部分がほとんどです。

恐らく、物部の里を訪れる人たちの多くが、

これらの「呪いの一面」に俗な興味を抱きつつ、

期待半分、不安半分といった気持ちで、

この地に足を踏み入れるのだと思います。

 

今回、非常に短時間ではありましたが、

直に物部の空気に触れて感じたのは、

「呪術」という上澄みの下に隠れた、

いざなぎ流の大元の姿でした。

どのような経緯があったにせよ、

恐らく物部の人々にとってのいざなぎ流は、

神を敬い、祖先を慰め、他を救うために祈りを捧げる、

日本古来の信仰と何ら変わらぬものなのでしょう。

 

この日最後の神社参拝を終え、境内のご神木の根元に、

野ざらしになったままのお札を見つけたとき、

「誰のための祈りか……」という言葉が、

心の中から湧きあがってくるのを感じました。

もしかするとそれは、歴代の太夫と呼ばれる人々が、

どんな術を極めてもたどり着かなかった、

いざなぎ流の神髄を質す問いかけなのかもしれません。


モノの部

2018-06-03 09:55:55 | 阿波・忌部氏2

<物部町・別府>

 

100種類以上の御幣(式神)や、

犬神や猿神などの精霊を操る妖術が、

いざなぎ流の「顔」となった背景には、

忌部氏の衰退が少なからず影響していると思われます。

朝廷の祭祀氏族としての立場を中臣氏に奪われ、

天皇祭祀の役目を失った忌部氏の一部は、

「外法」を使って生き延びざるを得なかったのでしょう。

あるいは「外法」を生業としたがために、

表舞台から身を隠したのでしょうか……。

 

現在、皇室や神宮の祭祀を表向き取り仕切っているのは、

忌部氏のライバルであった中臣(藤原)一族ですが、

その裏では「忌部氏の祭祀」が、

今なお粛々と執り行われていると聞きます。

恐らく、「外法」を知る忌部の祭祀氏族の末裔たちは、

その後「モノ(* 畏怖を感じる対象)」

を扱う物部と名乗り、今なお天皇を密かに守護し、

日本という国を陰から支えているのかもしれません。


荒神鎮め

2018-06-02 09:49:16 | 阿波・忌部氏2

<別府公士方神社 べふくじかたじんじゃ>

 

もともといざなぎ流という民間信仰は、

様々な学問や占術に精通していた天中姫宮が、

「人を救うための祈祷法」を身に着けるべく、

天竺のいざなぎ大神に教えを求めたことが、

事の始まりだったと言われております。

恐らく「人を救う術」への追求を重ねる中で、

仏教や道教、陰陽道など数々の呪術の中から、

「より即効性のある要素」を拾い集めた結果、

現在のように複雑かつ込み入った

「しきたり」が生まれたのかもしれません。

 

ちなみに、「すその取り分け」から始まる

いざなぎ流祭儀の一番最後に行われるのが、

「荒神鎮め」という神楽だそうです。

荒神というのは、つまりスサノオであり、

その土地を守護している地主神や、

古くからの先住民を指すのでしょう。

これは、いざなぎ流の根幹の呪術が、

「スサノオの鎮め」にあるということを、

それとなく示唆しているのだと思います。

他のパフォーマンス的な部分は、

あくまでも祭儀の前振りに過ぎなかったのですね。


祈祷する人々

2018-06-01 09:44:02 | 阿波・忌部氏2

<いざなぎ流資料>

 

いざなぎ流の発祥に関しては、

いくつかの説がありますが、

物部村最奥の別府集落では、

平家一族の「小松」の姫君が、

様々な舞楽や祈祷術を編み出し、

いざなぎ流の開祖となったという

言い伝えが残っているそうです。

また、村の中心部近くの仙頭地区には、

「神道系」のいざなぎ流が伝承され、

こちらの流派を興した家のルーツは、

伊勢国の渡会(外宮)にあると聞きました。

 

恐らく、全国各地の祈祷者が、

様々な呪法を持ち込んだ結果、

もともとこの地に根づいていた素朴な風習に、

異国風の色味が加わり、各々の流派ごとに、

「開祖伝説」が創られたのかもしれません。

だとすれば、彼らはなぜ他所ではなく、

物部村に集まってきたのかが気になります。

この地に全国の祈祷者を呼び寄せたのは、

いったい誰だったのでしょうか……。


祭祀のタブー

2018-05-31 09:41:13 | 阿波・忌部氏2

<物部町・根木屋>

 

数ある忌部氏の職責の中でも、

主に「祈祷」を担った一族が、

木頭に住む忌部氏だったと仮定するならば、

他の氏族との交流が盛んな剣山北麓を避け、

あえてひと目につきにくい

阿波南西部を選んだとも考えられます。

 

木頭村の隣に本拠地を構えた物部の里の人々が、

木頭忌部の一派なのか、他地域からの移住民なのか、

あるいは後発の渡来人なのかはわかりませんが、

いずれにせよ、物の怪の類を利用する呪術師が、

一部に存在していたのは確かでしょう。

 

現在、いざなぎ流の太夫が行う祈祷は、

「個人の願い」に対するものがほとんどです。

ただし、忌部氏の時代に置き換えてみれば、

それらの行為は恐らく「外法」であり、

祭祀氏族としての禁忌を犯していたとも言えます。

 

いざなぎ流の成り立ちを伝える祭文の中で、

秘術を伝授したとされるいざなぎ大神が、

「私は外法を扱う家筋ではない」と憤ったのも、

忌部氏が伝え続けてきた祭祀が、

「正統派」であることを主張すると同時に、

「外法」というタブーを犯すことへの

戒めを強く説きたかったのかもしれません。


呪術師

2018-05-30 09:35:59 | 阿波・忌部氏2

<いざなぎ流資料>

 

本来、忌部氏が担っていた立場というのは、

「天皇のために」祈りを捧げる役目であり、

一般民衆の個人的な願いをかなえる目的で、

自らの技を利用することはなかったはずです。

古代、卑弥呼と呼ばれた女性たちのように、

「国」や「天皇」の安寧を祈ることこそ、

祭祀氏族としての最たる努めだったのでしょう。

 

ただし、「麻」「弓矢」「祭文」などを、

自由自在に操ることができた忌部氏は、

いわゆる「外法のもの」に対する

技術や知識も豊富だったと思われます。

そして、時によっては「外法」を使い分け、

国家の窮地を救っていたのかもしれません。

 

ちなみに、旧物部村に隣接する旧木頭村は、

麻や木綿を栽培する木頭忌部の拠点であり、

その昔、物部村の人たちは木頭村の家と、

姻戚関係を結ぶことも多かったのだとか。

木頭の人々が麻や木綿を育てていたことを考えても、

「祈祷(木頭)」を得意とする集団が、

木頭村に隠れ住んでいた可能性もありそうです。

 

もし仮に、いざなぎ流と忌部氏とが

深く関わっていたとするなら、

当時、物部の里にいたのは、

祈祷に専従する木頭忌部の中でも、

とりわけ「外法」の扱いに長けた、

呪術師たちだったのでしょうか……。