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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

神の声の主

2016-03-13 11:41:49 | 名草戸畔・神武東征

<吉原中言神社 よしはらなかごとじんじゃ>

 

普段あまり聞き慣れない

中言(なかごと)名称ですが、

この言葉には「神の託宣を受ける」

という意味があるそうです。

中言神社の総本山である吉原の中言神社には、

神の声を聞き伝えてまつりごとを行う

「卑弥呼」のような女性が存在し、

その中で特に活躍したひとりが、

名草戸畔だったといわれています。

 

名草戸畔が託宣を受けていた声の主は、

伊太祁曽神社でお祀りされている、

大屋毘古神(おほやひこのかみ)別名・五十猛命。

神武一行(天孫族)が来るまで、

この地を治めていたスサノオ系の神様でした。

神武たちが各地で対峙したのは、

名草戸畔などを通じて立ちはだかった、

国津神(スサノオ)という存在なのかもしれません。


最大の激戦地

2016-03-12 11:35:19 | 名草戸畔・神武東征

<黒江中言神社 くろえなかごとじんじゃ>

 

古くは名草山を取り囲むように、

数多く点在していた中言神社ですが、

現在、中言という名称を残すのは、

吉原・黒江・田尻地区の3社だけだそうです。

その中のひとつ、黒江の中言神社は、

商店や民家が立ち並ぶ賑やかな街中にあり、

古い酒蔵の趣きある建物や、

特産品である美しい漆器の土産物などが、

訪れる観光客の目を楽しませてくれます。

 

ちなみにこの一帯は、名草軍と神武軍との

最大の戦いが繰り広げられたエリアでして、

名草軍の猛攻に遭った神武軍側が敗北し、

紀の川からヤマト入りするルートを諦める

直接のきっかけになったといわれています。

神武軍により滅ぼされたとされる名草戸畔ですが、

郷土史や地元の口伝によりますと、

実際には神武一行を追い払った形跡があるのだとか。

その後神武軍は、紀伊半島をぐるっと回りこみ、

熊野のあたりから上陸を目指すことになります。


勝者と敗者

2016-03-11 11:32:23 | 名草戸畔・神武東征

<吉原中言神社 よしはらなかごとじんじゃ>

 

京都の地図を眺めていますと、

京都御所の北から北東方向にかけて、

鞍馬寺、貴船神社、上賀茂神社、

下鴨神社、御霊神社、崇道神社など、

名だたる聖地が並んでいるのに気づきます。

北は「神の座」北東は「鬼門」とされ、

方位の中でも特に神聖視される場所でして、

現在の東京も、江戸時代に天海という僧侶が、

この理論に基づき設計したという話は有名ですね。

 

通常、北東の方角に祀られるのは、

「敗者」「怨霊」といった存在が多いのですが、

名草山(吉原・中言神社)の北東には、

なぜか勝者側の五瀬命が葬られています。

さらに広い範囲に目を向けてみますと、

名草山から見て真北の方角(神の座)には、

日前宮という一の宮が遷座されています。

名草の地では、勝者と敗者とが混然一体となって、

お互いを見守り、監視し合ってるのかもしれません。


二つの力関係

2016-03-10 11:27:07 | 名草戸畔・神武東征

<吉原中言神社 よしはらなかごとじんじゃ>

 

名草軍の重要拠点だった吉原の中言神社は、

神武一行の有力者・五瀬命が葬られた

竈山神社の目と鼻の先にあります。

「名草戸畔は神武軍に殺された」

と日本書記には明記されていますし、

竈山神社に祀られていた地主神は、

五瀬命に土地を明け渡したわけですから、

「神武側が中言神社を監視する目的で、

竈山神社の地に五瀬命を埋葬した」

と考えるのが普通でしょう。

 

ただ、竈山神社から中言神社まで、

実際に自分の足で歩いてみて感じたのは、

名草山へと向かう中言神社の道が、

想像以上に上り坂であり、

山裾にある中言神社からは、

竈山神社を見下ろす形になるということ。

名草山に登れば、視界を遮る障害がなくなり、

竈山神社の方面を一望に見渡せたはずです。

このことから、名草の人々と神武一行の力関係が、

決して神武軍上位ではなかったことがわかります。


名草戸畔の本拠地

2016-03-09 11:24:00 | 名草戸畔・神武東征

<吉原中言神社 よしはらなかごとじんじゃ>

 

中言神社に祀られているのは、

名草彦命と名草姫命という、

名草の産土神そのものを示す二柱の神様です。

名草山の北に位置する吉原の地は、

名草戸畔の本拠地だったともいわれており、

周辺に点在する(点在した)中言神社は、

すべてこちらの吉原から勧請したものだそう。

 

そんな古代日本史のカギとなる場所でありながら、

中言神社には神主がおらず、地元の人々の手により、

お祭りや年中行事が執り行われていると聞きます。

神社の前で出迎えてくれたのは、

きれいに掃き清められた参道と、

整然と並べられた鉢植えの列でした。


吉原中言神社

2016-03-08 21:20:50 | 名草戸畔・神武東征

<吉原中言神社 よしはらなかごとじんじゃ>

 

竈山神社から1kmほど南西向かった吉原という地区に、

中言神社(なかごとじんじゃ)という古社があります。

車一台通るのがやっとの細い道を、

民家沿いにひたすら歩いていくと、

森を背にした小さな公園の奥に、

素朴な佇まいの神社が見えてきます。

 

一見、どこにでもある氏神の風情に見えますが、

実は名草山周辺に点在する中言神社の総元締であり、

紀州徳川家からも手厚く庇護された

この地域の重要な地主神でした。

かつては中言神社という名前の神社が、

名草山周辺に15社ほどあったそうです。


真逆の歴史

2016-03-01 13:58:52 | 名草戸畔・神武東征

<貴志川 きしがわ>

 

日本書記の伝承と名草の伝承とを読み比べて感じたのは、

「視点によって歴史は180度転換する」という事実でした。

よくいわれるように、記紀(特に日本書記)の文章は、

当時の政権側から見た内容であり、

敗者はあくまで敗者としてしか描かれていません。

ただ、敗者の側からその出来事を眺めてみると、

公に残されている(授業で習う)歴史は、

真実のほんの一部を伝えているだけです。

 

名草戸畔に関しても、実際には殺されておらず、

逆に「名草側が勝利した」あるいは

「譲歩した」と思われるような話が、

地元では言い伝えられていると聞きます。

見ず知らずの渡来人が突然目の前に現れ、

土地を譲るよう交渉したのは事実だとしても、

無理な申し出に戸惑った土地の人々は、

決して卑しい「鬼」ではなかったのでしょう。


穏やかな融合

2016-02-29 13:56:18 | 名草戸畔・神武東征

<小野田地区 おのだちく>

 

志摩の磯部地区と同様に、この名草山周辺も、

海人族の一大居住地だったという話があります。

神武一行が日本にたどり着くはるか以前、

九州より移住してきた海人族の人々は、

名草の地で半農半漁の生活を送っていたそうです。

 

海人族といいますと、どうしてもその言葉の響きから、

「海外からやってきた渡来人」という印象が勝りますが、

海人族は古来より日本に住んでいた先住民であり、

渡来人と日本人とをつなぐ仲介者的な役目があったと、

個人的には考えております。

 

この名草の地でも、ニニギや神武天皇に先んじて、

イスラエルから日本に渡ってきていた

ニギハヤヒなどの初期の渡来人と共存しながら、

穏やかな縄文時代を過ごしていたのでしょう。


先住民

2016-02-28 13:13:01 | 名草戸畔・神武東征

<琴ノ浦 ことのうら>

 

名草や名草戸畔(なぐさとべ)については、

以前から調べてみたい気持ちはあったものの、

なかなか気軽には足を踏み入れられない領域でした。

ただ今回、名草山周辺の神社を巡ってみて、

やはりこのあたりは、日本建国の経緯と、

日本と海人族との関わりを考える上で、

どうしても外せない地域であることを確信した次第。

 

ヤマト入りを目指していた神武天皇は、

ようやくたどり着いた念願の地を目前にして、

各地の先住民の抵抗により行く手を阻まれます。

熊野の山中で山の民・川の民と対峙するにあたり、

名草や那智といった海岸沿いの地域で、

海の民を味方に引き入れなければなりませんでした。


名草戸畔

2016-02-27 13:11:55 | 名草戸畔・神武東征

<名草山 なぐさやま>

 

 ***** 名草戸畔 *****

神武天皇が大和を目指して進軍する際、

大阪湾から紀伊半島にかけて、

いくつかの大きな戦いがあったといわれています。

そのひとつが、神武天皇即位の数年前に発生した、

現在の和歌山市名草山周辺での先住民との軋轢。

ナガスネヒコにより生駒山越えを阻止された一行は、

紀の川からヤマトへの侵入を試みたものの、

名草山の人々の激しい抵抗に遭いました。

 

その際、名草戸畔(なぐさとべ)と呼ばれる

女首長を殺したと日本書記は記しています。

 

女首長という興味深い肩書きや、

「6月23日、軍、名草邑(むら)に至る。

則ち名草戸畔という者を誅す」 という

簡潔な一文のみに登場する謎めいた経歴などから、

歴史マニアや古代史ファンの間で、

様々な議論が交わされる名草戸畔という存在。

残された伝承が少ない分、 私たちの想像意欲を刺激し、

無意識の共鳴を誘うのでしょう。