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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

完ぺきな場所

2017-05-02 10:05:11 | 熊野の神社

<色川神社 いろかわじんじゃ>

 

海沿いから那智山に向けてひたすら山道を登り、

川沿いに佇むその神社の姿を目にしたとき、

「ここは完ぺきな場所だ」という思いが、

どこからともなく湧いてまいりました。

おそらく何百年前、何千年前の時代も、

この場で「神気」を感じ取った人々が、

あたり一帯に流れる特別な空気に触れて、

私と同じような感覚を抱いたのでしょう。

 

神社前の狭い駐車スペースに車を停め、

逸る気持ちを抑えながらドアを開けると、

何とも涼やかな朝の風が、

川のせせらぎの音と共に、

心地よく全身を包み込みました。

頭上ではたくさんの鳥たちが、

一日の始まりを待ちきれなかったかのように、

思い思いの音色でさえずっています。

 

那智勝浦・色川神社はまさに、

有形無形の精霊が飛び交う「聖地」だったのです。


不思議な静寂

2017-05-01 10:00:31 | 熊野の神社

<色川神社 いろかわじんじゃ>

 

国道42号から県道45号線へと進路を変え、

那智勝浦町を流れる太田川(熊瀬川)に沿って、

那智山のほうへとひたすら山道を登って行きますと、

オートキャンプ場を過ぎた先の道沿いに、

「色川神社」と書かれた木の標識が見えてまいります。

 

四方を山に囲まれた神社の周りには、

集落はもちろん民家の姿すら見当たらず、

白い飛沫を上げて岩の間を流れ落ちる川の音だけが、

一時も途切れることなくあたり一帯を包み込み、

不思議な静寂を生み出していました。

 

もともと深瀬明神森と呼ばれていたこの神社は、 

川向こうにある岩壁をご神体とする自然信仰の場で、

社殿がない時代は、 拝礼のための神籬があったそうです。

今でも祭礼日には、ご神体である岩壁の前で、

ご神事が行われていると聞きます。


心動かされる里

2017-04-30 13:50:40 | 熊野の神社

<那智勝浦町・口色川地区>

 

 ***** 熊野の神社2 *****

世界遺産でもある熊野那智大社の近くに、

那智勝浦町・口色川という地区があります。

周囲を険しい山々に囲まれたこの山間集落は、

2011年の紀伊半島豪雨による被害が大きかった場所で、

犠牲者こそ出なかったものの、50戸ほどの住宅のうち、

半数近くが土石流のために被災したそうです。

 

今回の旅では、長い山道を登った先に、

突如として出現する小さな集落に、

幾度となく心を動かされたわけですが、

こちらの那智勝浦・口色川地区も、

その桃源郷のような光景が視界に入ったとたん、

思わず車を降りて見入ってしまった場所でした。

 

新聞社の主催する「にほんの里100選」

にも選ばれたこの山深い地区は、

熊野の他の山間部に比べると、

より「人の息づかい」が強く感じられ、

至るところで人々の活気が伝わってきます。

そして、この集落に入る手前の県道沿いにも、

清らかな神域を持つ元無社殿神社があるのです。


潮御岬神社

2017-02-14 10:03:27 | 熊野の神社

 

<潮御崎神社 しおのみさきじんじゃ>

 

串本町を代表する観光名所のひとつ

「潮岬」に着いたのは日暮れ間近でした。

車を停め外に出ると、まるで辺り一帯が、

夕日色のフィルムで覆われたかのように、

深いオレンジ色一色に染まっていました。

 

潮岬のシンボルである潮岬灯台から

ほんのちょっと足を延ばせば、

「この地で常世へと旅立った」と、

日本書紀の中に記される、

少彦名命(すくなひこなのみこと) を

お祀りした潮御岬神社に到着します。

 

現在こちらの神社は、

立派な社殿を持つ「有社殿神社」ですが、

境内から海岸のほうへ降りて行くと、

静之窟(しずのいわや)と呼ばれる洞窟があり、

古くからの祈りの対象になっていると聞きます。

 

残念ながら今回は確認できなかったのですが、

ここにもまた古代の信仰の跡が残っていました。


鎮魂の祭り

2017-01-31 10:10:09 | 熊野の神社

<飛瀧神社 ひろうじんじゃ>

 

「水の聖地」である熊野の神社では、

不思議と「火祭り」が盛んに行われており、

新宮の神倉神社では御燈祭(おとうまつり)が、

そして那智の飛瀧神社では那智の火祭りが催され、

毎年多くの観光客を集めています。

また、熊野地域だけでなく、京都鞍馬の火祭、

富士吉田の火祭など、火祭りが行われるのは、

なぜか豊富な水源を持つ地域がほとんどです。

 

「火」をモチーフにした熊野の二つのお祭りが、

いつ頃この地に定着したのかはわかりませんが、

神道のみならず仏教や修験道、

ユダヤ教やゾロアスター教など、

様々な宗教的エッセンスを取り入れながら、

今の形に定着したのでしょう。

 

ちなみに、「火と水」は「かみ」でもあり、

火水が出会うことで、

「生命力の蘇り」 を促すといわれています。

もしかすると火祭りという儀式は、

水を司る神スサノオが、

火の神カグツチを産み亡くなった

母イザナミを弔うための

鎮魂と再生のセレモニーだったのかも知れません。


日本の命運

2017-01-30 10:41:31 | 熊野の神社

<飛瀧神社 ひろうじんじゃ>

 

数年前、「那智の滝をロッククライミングするために、

数名の男性が滝に無許可で立ち入った」というニュースが、

インターネットを中心に大きな話題となりました。

最初にこの一報を耳にしたとき、

不敬を犯した人に憐みの情を抱いてしまったほど、

現代人の無知さや軽率さに驚いた事件だったのですが、

実際にこの那智の滝という聖域は、

「日本の命運」をも左右する場所だと言われています。

 

那智の滝が象っているのは「女陰」であり、

岩壁を流れ落ちる大量の水は、

あふれる母性の象徴です。

熊野全体を覆っている「陰」の力は、

この滝に集約され母なる海へと注ぎ込み、

万物を生み出す源となります。

女性的なエネルギーが強い熊野の地でも、

特に「陰」の力が極まった

那智の滝という聖域を犯すような行為は、

日本全体の「産む力」を削いでしまうのでしょう。


菌の森

2017-01-29 10:39:14 | 熊野の神社

<飛瀧神社 ひろうじんじゃ>

 

古代の人々は「聖地」のありかを見分ける際に、

「菌の匂いをかぎ分けていたのではないか」と、

ときどき思うことがあります。

那智の滝の周りに広がる那智原始林は、

「熊」の文字を名前に冠する天才であり、

古今東西のあらゆる知識に通じた学者、

南方熊楠(みなかたくまぐす)が、

粘菌採取に明け暮れた場所でもありました。

 

那智の滝という著名な観光スポットが、

長い間聖地としての機能を保っているのも、

周囲を取り巻く広大な菌の森が、

「命の元」を保持し続けているからなのでしょう。

もともと人間という生き物は、

「菌から生まれた」という説もあるように、

巨大な女陰を模した那智の滝は、

膨大な「菌」を放出する

優れたお産場だったのかもしれません。


那智原始林

2017-01-28 10:34:25 | 熊野の神社

<飛瀧神社 ひろうじんじゃ>

 

もともと、熊野三山のルーツは異なると言われており、

熊野川への信仰が元になって発展した本宮大社、

神倉山の「ゴトビキ岩」を依り代とした速玉大社、

那智の滝をご神体とした那智大社といった具合に、

それぞれが独立した自然信仰の場だったそうです。

豊かな自然に恵まれた熊野一帯の中でも、

特に古代の様相が残る那智の滝周辺には、

「人の形跡」や「人の匂い」があまり感じられません。

 

「人の気配の薄さ」を感じさせる一番の理由は、

やはり那智の滝を懐に抱く原生林の存在でしょう。

那智山には「那智原始林」と呼ばれる広大な森が広がり、

かつて南方熊楠がこの地で粘菌の採取を行ったほど、

たくさんの貴重な「菌」が生息していました。

今も滝周辺への立ち入りは厳しく管理され、

原生林の中には、古代より脈々と息づく稀有な「菌」が、

数多く生息し続けていると聞きます。


那智の滝

2017-01-27 10:31:38 | 熊野の神社

<飛瀧神社 ひろうじんじゃ>

 

「熊野地方の無社殿神社」という言葉を聞いたとき、

まず頭の中にイメージしたのは那智の滝でした。

「熊野といえば那智の滝」といっても過言ではないほど、

その名を全国に響かせる一大観光スポットですが、

同時に「自然崇拝」というキーワードが、

これほどしっくりとする場所もありません。

いついかなるときも、人間の思惑など

「どこ吹く風」といった佇まいで、

訪れる観光客を迎えてくれます。

 

那智の滝をご神体とする熊野那智大社の末社

「飛瀧神社(ひろうじんじゃ)」には、

本殿や拝殿といった建物は存在せず、

鳥居の向こうに見える那智の滝本体を、

直接拝むような形式を取っています。

この場所が「仏教の霊場」「修験の聖地」

として開かれるごく近年までは、

那智の滝を神としてお祀りした、

典型的な自然信仰の場だったのでしょう。


先遣隊

2017-01-12 10:30:08 | 熊野の神社

<神倉神社 かみくらじんじゃ>

 

日本武尊(やまとたけるのみこと)が活躍した時代、

熊野の国造として熊野地方を支配していたのは、

高倉下の子孫・大阿刀足尼(おおあとのすくね)でした。

大阿刀足尼は、空海との血縁も噂される人物ですが、

のちに子孫が重用された経緯を踏まえても、

高倉下という人物が、当時この地で大きな勢力を保ち、

熊野の人々に強い影響を及ぼしていたことがわかります。

 

古代イスラエル氏族の出身と思われる高倉下は、

同じく、先遣隊である八咫烏のグループなどとともに、

神武天皇に先駆けて熊野の地に入ったのでしょう。

名草戸畔や丹敷戸畔をはじめとする土着豪族との絆を深め、

外来者の侵入を阻む一派を説得するだけでなく、

熊野古来の信仰や祭祀の場を手厚く守りながら、

神武天皇の国造りが円滑に進められるよう、

水面下で奔走していたのかもしれません。


参拝者の良心

2017-01-09 10:44:19 | 熊野の神社

<熊野本宮大社前>

 

数年前、熊野三山をお参りした際に思ったのは、

「想像以上に観光地化していた」ということです。

特に、熊野本宮大社と熊野速玉大社に関しては、

本来の「神社の色」がことごとく消されてしまい、

「普通の神社」になってしまった感は否めず…。

 

速玉大社のほうはまだ許せる範囲内だとしても、

本宮大社の境内に乱立する「●●禁止」の看板は、

残念ながらあまり気持ちのよいものではありません。

* あくまでも個人的な感想で、現況は未確認です

 

仮に、参拝客のマナーが原因だったとしても、

本来神道というのは「個々の判断に任せる」のが筋です。

「あれもダメ」「これもダメ」と規則ばかり増やせば、

神道の基礎となる部分は失われてしまうでしょう。

伊勢神宮を訪れますと、

神職の方々が「参拝者の良心」 を尊重すべく、

腐心されていることを毎回感じます。


天からの知らせ

2017-01-08 10:37:24 | 熊野の神社

<大斎原 おおゆのはら>

 

いくら「聖域です」と言われても、

鳥居や社殿などがまったくない場所に、

「神様」を感じることは難しいものです。

神社側の都合や経営維持を考える上で、

様々な建物を作るのは仕方ないことでしょう。

 

ただし、近年の自然災害の巨大化により、

神社の建造物の被害が目立つのは、

「神社の主役は建物ではない」という、

天からのお知らせとも受け取れます。

 

もしかすると、大斎原を押し流した大洪水は、

聖域を更地に戻すための

強制手段だったのかもしれません。

神を感じる力を無くした現代人への警告を、

私たちは知らずに受けているのだと思います。


陰陽の交わる地

2017-01-07 10:35:10 | 熊野の神社

<大斎原 おおゆのはら>

 

なぜ多くの人々が、熊野大社を目指して、

険しい道のりを歩き続けるのかといえば、

それはこの場所が「山と海が出会う地」だからでしょう。

熊野本宮大社を境に、北に位置する山側の吉野エリアと、

南に位置する海側の熊野エリアの信仰は、

「陰と陽」にはっきりと色分けされます。

 

川を下って山から降りてきた山の民は、

この地で海の民と出会い、

イザナミの温かな懐に抱かれました。

そして、川を遡り海からやってきた海の民は、

この地で山の民と出会い、

スサノオの厳かな息吹に触れたのでしょう。

 

陰と陽が交わる場所に生まれる「第三の命」を求め、

昔も今も人々は、熊野本宮の地を目指すのかもしれません。


イザナミの面影

2017-01-06 10:33:10 | 熊野の神社

<大斎原 おおゆのはら>

 

3つの川が合流した大斎原という場所は、

「神」の力が生じる聖なる地点であると同時に、

死のケガレを祓い清め、

御霊を海の彼方へと送り出す

重要な埋葬地でもありました。

一説によりますと、熊野本宮大社の神様は、

イザナミやイザナミの死の伝承が残る

有馬の産田神社から移されたといわれており、

大斎原の近くにある「産田社」という末社には、

イザナミの命が大切にお祀りされています。

 

最初は「イザナミの命がなぜこんなところに?」と、

訝しく思ったのですが、「産田社」という名前を見て、

引っかかるものを感じ、いろいろ調べてみたところ、

熊野本宮大社の成り立ちに「イザナミ」が、

深く関与していることを知りました。

熊野本宮大社の主祭神は「スサノオ」です。

様々なケガレを祓い清めるスサノオの命は、

母神であるイザナミの面影を追い求めて、

この地を守る守護神となったのかもしれません。


聖なる埋葬地

2017-01-05 10:31:24 | 熊野の神社

<大斎原 おおゆのはら>

 

大斎原に関して最も特筆すべき点は、

やはりその立地条件にあると思います。

私が最初にこの地を訪れたとき、

まず目を奪われたのは、

大斎原のそばを悠々と流れる

熊野川(新宮川)の雄大な姿です。

今回の訪問でも、真っ先に川沿いの土手に登り、

晩秋の陽の光にキラキラと輝く川面を見ながら、

大斎原の境内へと足を進めて行きました。

 

ちなみに、古代の熊野川やその上流では、

死者を川原の小石の下に埋める

水葬の習慣があったそうです。

昔から水害の多いこの地域では、

洪水のたびに川原に埋葬した亡骸が流され、

大斎原のある中州にたどり着いたと聞きます。

死者の御霊を祀るための場所が大斎原であり、

古代熊野信仰のひとつの形となったのでしょう。