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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

霊魂の出入り

2019-09-12 09:25:10 | 縄文への旅

<三内丸山遺跡・縄文時遊館>

 

昨日、縄文前期までに制作された土偶は、

主に形代(かたしろ)として

使用されたのではないかと推測しましたが、

板状土偶のちょっと呆けたような口元を見ておりますと、

「彼らが」人々の身代わりとなり、

罪穢れを飲み込み吐き出すイメージが、

どこからともなく漂ってまいります

(あくまでも主観ですが……)。

 

一説によりますと、我々人間の霊魂というのは、

「口(および鼻)」から出入りし、

死者の魂が肉体を抜け出る際も

同様な経緯をたどるのだとか……。

板状土偶の特徴でもある少々締まりのない口元は、

もしかすると現代のヒトガタと同様に、

「息を吹きかける」ために造られた

形状だったのかもしれません。

そしてときには、自らの霊魂を板状土偶に写し、

「呪詛」をかけるような場面もあったのだと思われます。

 

土から地母神を作り上げる過程において、

人体というフォームが持つ霊力を再発見した縄文人は、

新たに「土の形代を用いて」

縄文以前の祭祀を継承しようとしたのでしょうか……。

ただし、それ以降に制作された土偶もすべて、

「形代」だったかと問われると決してそうではなく、

それぞれの時代の土偶には

それぞれの事情があったようなのでした。


形代

2019-09-11 09:19:12 | 縄文への旅

<三内丸山遺跡・縄文時遊館>

 

昨日の記事で取り上げた人形(ひとがた)は、

「形代(かたしろ)」とも呼ばれる身代わり人形を指し、

人形に人間の厄を移すことで災難を避ける呪術具です。

現在では、年に二回の大祓の時期に、

神社で配られる人体型の和紙にその名残が見られますが、

実は形代(あるいは依り代)という概念は

古神道の奥義として今に伝えられ、その源流は

縄文よりも遥か以前にまで遡るともいわれています。

 

つまり、板状土偶がヒトガタの進化形であったとすれば、

縄文草創期の人々が「土の人形」を制作し始めた背景には、

すでに「依り代」の概念があったとも想像できるのですね。

 

恐らく、縄文人は「依り代」の意味を知っていたからこそ、

新たに手に入れた「土を焼く」という技術を使って、

形代を造ることを思い立ったのでしょう。

そう考えると、縄文前期までの土偶の出土数が

他の時期に比べて極端に少ないのも、

土偶を「形代」として水に流したり、

粉々に砕いてしまったりしたことで、

物自体が残存しにくかったという

理由があるのかもしれません。


板状土偶

2019-09-10 09:13:26 | 縄文への旅

<三内丸山遺跡・縄文時遊館>

 

縄文を代表する人気キャラ「土偶」の中でも、

縄文中期に登場する「板状土偶(ばんじょうどぐう)」は、

他の個性あふれるユニークな「人形たち」に比べると、

少々マイナーな存在かもしれません。

私自身も最初その姿を目にしたときは、

「何だこのクッキーみたいなやつは?」と、

作者の意図を図れずにいたわけですが、

「板状土偶」の宝庫である、

三内丸山遺跡の展示室の壁一面に張り付けられた、

「彼ら」の無数の視線を感じたとたん、

一瞬にして「板状土偶」の世界に

はまり込んでしまったのですね。

 

何といっても彼らの特徴は、

デフォルメされたボティーと、

あたかも魂を吸い取られたかのような

(もしくは魂を吸い取るかのような)不気味な表情。

ぼんやりと口を開きながら虚空を見つめるその顔には、

他の肉体表現を極力抑えたデザインの効果も相まって、

立体系土偶以上の「異次元さ」を感じます。

板状土偶たちの前に佇み、

「彼ら」の様子をしげしげと眺めるうちに、

ふいに脳裏に重なってきたのは、

神社の「大祓」などで使用する

和紙の「人形(ひとがた)」でした。


地母神

2019-09-09 09:10:14 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

実は、土偶という造形物が出現した当初、

「彼ら」は手のひらにすっぽりと収まる程度の大きさでした。

その形状も平たい三角形やトルソーのようにシンプルで、

顔はもちろんのこと手足も存在せず、

唯一胸に相当する部分に乳房を模した表現が

加えられているだけの素朴なフォルムだったのです。

 

その後、平面的でありながらも、

顔や四肢などがはっきりと刻まれた、

逆三角形や十字形の「板状土偶(ばんじょうどぐう)」

が東北地方で誕生し、また五体を兼ね備えると共に、

土偶自体が自立するよう工夫された

「立像土偶(りゅうぞうどぐう・りつぞうどぐう)」が、

関東から中部地方にかけて出現し始めます。

 

つまり、土偶というのは、

最初から立体的だったわけではなく、

二次元的な表現から三次元的な表現へと、

徐々にバリエーションを増やしていったわけですね。

 

これら「土偶創成期」の作品を眺めておりますと、

それらの時代に生きた縄文人たちが、

「土」という材料を慈しみながら、

大地を育む「地母神」を表現すべく、

試行錯誤していたイメージが個人的には湧いてきます。


土偶の遍歴

2019-09-08 09:05:35 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

ひと口に「土偶」と申しましても、

「ひとつとして同じ型はない」といわれるほど、

それらのフォルムは多岐に渡り、

縄文早期から晩期にかけてのおよそ一万年の間に、

様々な進化を遂げてきました。

専門機関の調査によりますと、

現時点での出土総数は15,000体~18,000体ほど。

出土分布は東日本に偏っていて、

西日本での出土例は全体から見ると

かなり少ないと聞きます。

 

ちなみに現在、国宝指定された5点の土偶は、

どれもが強烈な「個性」を持ち、

一目見ただけで「タダ者ではない」

印象を与える土偶たちです。

「彼ら(彼女ら?)」が制作されたのは、

主に縄文中期~後期という

「土偶文化」がまさに充実期・革命期を迎えた時期。

 

私たちが「土偶」と聞いて思い浮かべるのは、

ほとんどがこれら中期以降の作品群なのですが、

実はそれ以前(縄文時代の草創期~早期)の土偶は、

中期・後期の土偶とは全く異なる

形状を持つことをご存知でしょうか……。

まずは、「土偶」に対する「思い込み」を払拭すべく、

縄文時代を通して造られた土偶の遍歴について、

詳しく見て行くことにします。


不可解な人形

2019-09-07 09:00:35 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

昨今の縄文ブームにより、

プロアマ問わず様々な人々が「土偶」について、

あふれんばかりの愛を炸裂させております。

特に、「土偶女子」などと名付けられてしまった女性たちが、

土偶を「人気キャラ」のように崇め、

称賛の嵐を送っている姿を見ますと、

どことなく御朱印ガールなどと被る空気を感じる昨今……。

 

まあ、そんなことをいっておきながら、

私自身もキュートな土偶たちを目の前にした瞬間、

「おーこれが●●土偶か~」と、思わず駆け寄って

ガラスケースにへばりつきたくなる衝動を

抑えるのに必死なのですが、

それはともかく、みなさんは「土偶」という

造形物にどんな印象をお持ちでしょうか……。

 

ある程度用途がはっきりしている土器とは異なり、

この人型?の不思議な土製品は、

縄文時代を通して制作された、

縄文の「公式マスコット」であるにも関わらず、

その大きさもフォルムも見た目の印象も千差万別。

それゆえ、古くから人々の様々な憶測を呼び続けながらも、

今もって「何に使われたのか」がはっきりしないという、

非常に不可解な「人形たち」なのです。


土偶

2019-09-06 09:50:28 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

縄文土器について簡単に考察したところで、

次にご紹介したいのが「土器」と並ぶ

縄文のシンボル「土偶」に関するあれこれです。

恐らく、世の縄文マニアの多くが、

「土偶」という謎の土製品を入り口に、

底なしの縄文ワールドへと

引き込まれて行ったものと思われますが、

土器以上にミステリアスな存在である土偶について、

一介の素人が語るのは容易ではなく、

多分に「妄想」が先走ってしまうことをお許しください。

 

土偶(および土器)に関する専門書は

たくさん出ておりますので、

詳しくお知りになりたい方は、

そちらを参考にしていただいたほうが

確実にためになるかと……。

 

というわけで、まずは「土偶」の定義から

お話しすることにしましょう。

以前の記事でも触れたように、

縄文時代を通して制作された「土偶」は、

古墳時代の埋葬品である「埴輪」とは

似て非なるものでございます。

 

ただし、どちらも「土製品」であることや、

埴輪を考案したとされる

野見宿禰の出自などを考慮しますと、

両者がまったく無関係であるとは言い切れず……。

数は少ないながらも、土偶が副葬品として

埋葬された例もあるそうですし、埴輪の原型が

縄文の土偶である可能性は否定できないのでしょう。


日常と非日常

2019-09-05 09:46:11 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

昨日、「土器棺墓」という言葉を

ご紹介しましたが、子供の遺体と共に

土の中に埋められた可能性のある土器には、

底部や底部近くの側面部が壊されていたり、

意図的に穴が明けられたりしたような跡が

頻繁に見られるのだそうです。

 

何でも、縄文時代の人々は、日用品の一部を

欠損させることで「日常性」を失わせ、

呪術具として転用していた節があるのだとか……。

現代人の感覚からすれば、普段使いの鍋を

「棺」にするという発想はなかなかできないものですが、

もしかすると、縄文時代の人々にとって

「日常(生)」も「非日常(死)」も、

「地続き」の出来事だったのかもしれません。

 

また、厳しい基準をクリアし、

神聖な「火」の中で焼き上がった土器は、

それ自体が「聖なるもの」であり、

特別な事情がある場合を除いて、

再利用をするのが当たり前だったとも考えられます。

いずれにせよ、土器をこねる、飾りをつける、

火にくべるという一連の作業のひとつひとつに、

縄文人の「祈り」が込められていたのでしょう。


シュールな造形

2019-09-04 09:42:46 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

様々な種類、様々な大きさ、

様々なフォルムを持つ縄文土器は、

基本的に「煮炊きをするための鍋」

として使用された日用品です。

ただし、一部の土器には、

鍋として使われた形跡が見られないことから、

「祭祀のみに用いられた特別な土器」

が存在していたとも推測できるのだとか……。

確かに、火焔型土器の神がかった

フォルムを眺めておりますと、

お祭りで使用されたと考えたほうが自然であり、

突起のデザインや胴体のモチーフなども、

神に対する「特殊な印」を施したかのような趣を感じます。

 

そんな「神がかり」的な縄文土器の中でも

ひときわ目を引くのが、縁(もしくは胴体)に

「人の顔」らしき造形物が施された、

シュールな造形の土器たちです。

一般的にこれらの文様は、

女性の出産風景を模したとされますが、

実はこの「人面付き土器」「顔面把手付き土器」

と呼ばれる土器には、亡くなった子供の遺体を

埋葬していた可能性も否定できないといいます。

「土器棺墓」というこれらの習俗は、

土器を「女性」や「母体」に見立てることで、

子供の魂を子宮に戻す(母体回帰)

儀式だったという話を聞きました。


シビアな基準

2019-09-03 09:37:34 | 縄文への旅

<三内丸山遺跡・縄文時遊館>

 

未だに土中に眠っているものも含めれば、

膨大な数に上るとされる縄文土器たちですが、

実は「彼ら」には失敗作というものが存在しないと聞きます

(ただし、上記の画像には「失敗した土器」との説明文が……)。

出土した土器を詳しく調査しても、

途中で作るのを止めたり、途中で壊れてしまったり

(壊れた状態で出土するものは多々あり)するなど、

「どう見てもこれは明らかに失敗だろう」という

未完成の作品はひとつも見当たらないのだとか……。

 

もちろん修正痕が残る土器や、

試作品と思われる土器はあるものの、

現代人の尺度から見ても、

出土する土器はすべて「完成品」に近く、

制作の過程において基準を満たさない土器は、

「焼く」という段階に進めなかった

と推測できる節があるのだそうです。

 

つまり、縄文の人々は「無意味な装飾がある土器」や、

反対に「必要な装飾がない土器」、

あるいは「決まりを無視した文様」や、

逆に「決まりが描かれていない文様」に対して、

シビアな基準を設けていたとも考えられるのですね。

これらのことから改めてわかるのは、

縄文土器は何らかの目的を持って制作されたこと、

そして「土器を焼く」という行程に

強いこだわりがあったということかもしれません。


独立独歩の精神

2019-09-02 09:29:02 | 縄文への旅

<是川縄文館>

 

「縄文の華」と呼ぶにふさわしい

圧倒的な存在感を放つ「火焔型土器」ですが、

実は一万年以上続いた縄文時代の中でも、

縄文中期のおよそ500年ほどの短期間、

新潟県の信濃川流域周辺に限り

制作されていたものだと聞きます。

 

他の土器と比べても、火焔型土器は

出土数が極端に少ないだけでなく、

後の時代にもほとんど影響を残さなかったため、

その用途や目的などは未だに闇の中なのだとか……。

 

ねぷた祭や津軽三味線など、

幾多の「熱い」文化を誕生させた、

北の縄文王国青森ですら、

なぜかこの火焔型土器は出土しておらず、

代わりに火焔型土器の荒々しさを削ぎ取ったような、

クールで洗練された深鉢型土器を

たくさん目にいたしました。

 

なぜ火焔型土器が信濃で誕生したのか、

なぜ火焔型土器が青森では流行しなかったのか……、

様々な謎は尽きませんが、

縄文晩期の代名詞でもある遮光器土偶しかり、

赤黒を基調にしたモダンな土器や遺物しかり、

青森の縄文文化には、他とは一線を画す

「独立独歩」の精神を感じるのは気のせいでしょうか……。


有益なデザイン

2019-09-01 09:23:42 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

昨日、縄文土器が「一定のルールの元に

制作された可能性が高い」と記しましたが、

それらの仮説は、「異なる地点で発掘された土器に、

同じようなモチーフが施されている」

という事実からも証明できるそうです。

 

さらには、一旦消滅したと思われていたモチーフが、

数千年経ってから再度復活するような事例もあり、

縄文土器の意匠が単なる「その場の思い付き」

「作者のお遊び」ではないことが見て取れるのだとか……。

 

ちなみに、これまでの研究においては、

弥生時代に入ると同時に、

縄文土器はほぼ消滅したという説が有力でした。

しかし実際には、弥生時代に切り替わってからも、

縄文文様を継承したような土器や銅鐸が、

かなり残存しているることがわかっています。

 

つまり、弥生人たちが縄文モチーフの価値を

認めていたと考えられるわけで、

弥生人の中に脈々と「縄文スピリット」が

受け継がれていた様子が伺えるのですね。

 

いずれにせよ、縄文土器に刻まれた意匠は、

縄文人全体が共有する価値観であり、

また後年の人々にとっても「有益なデザイン」

であったことは間違いないのでしょう。


意志ある土製品

2019-08-31 09:18:36 | 縄文への旅

<三内丸山遺跡・縄文時遊館>

 

一見、感性の赴くままに

創られたような縄文土器ですが、

たくさんの作品を見比べてみますと、

ほとんどの土器がある一定のルールに基づき、

綿密な計算の上で制作されている様子が

伝わってまいります。先日ご紹介した、

「鶏頭冠突起」のモチーフしかり、

「縄文」の由来ともなった独特の縄目文様しかり、

決まった「型」をベースにして、

その枠から外れないよう細かく微調整しながら、

産み出された創造物だと考えられるのですね。

 

恐らく、縄文土器の製作者たちは、

自由奔放にデザインを施したわけではなく、

明確な狙いを定めた上で作業をしていたのでしょう。

各々の地域や縄文人全体の共通認識として、

「これだけは守るべき」という

厳密な決まりが存在していたのだと思われます。

いうなれば縄文土器は「意思ある土製品」であり、

自然と共生しながら暮らしてきた

縄文人だからこそ持ち得る「呪術的な図案」を、

その規則性の中に織り込んだのかもしれません。


奇数と偶数

2019-08-30 09:13:40 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

火焔型土器を始めとする縄文土器の多くは、

口縁に2つあるいは4つの突起を

有しているものがほとんどです(主に東北地方)。

そんな中でも、時折「3」「5」「7」

さらには「9」に至るまで、奇数の突起を施した

土器を目にすることが間々あり(主に信濃地方)、

「数」にこだわる縄文人の性質が

浮かび上がってまいります。

 

恐らくは、地域の独自性や作品の創造性を高めるために、

あえてレイアウトのしにくい奇数を、

土器のデザインとして取り入れた面もあると思われますが、

もともと縄文の人たちは「奇数(特に3や5)が好き」

という話も聞きますし、奇数という「割り切れない数」

に何らかの効果を見出した可能性も高いのでしょう。

 

もしかすると、信濃地方を中心に

「奇数」に強い呪術性を見出す一族が住んでいた……、

あるいは用途により奇数の突起を持つ土器と、

偶数の突起を持つ土器とを使い分けていた……等々、

ある明確な目的の元に土器を制作していたとも考えられます。

いずれにせよ、縄文土器は単なる日常生活の道具ではなく、

縄文世界を転写した「創作物」だったことは間違いないようです。


土器の装飾

2019-08-29 09:08:00 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

「縄文」を象徴するアイテムの

ひとつ「土器」の基本用途は、

あくまでも煮炊きに使用する「鍋」であり、

それは縄文土器の代名詞でもある

「火焔型土器」に関しても同様だと聞きます。

 

現代の感覚で考えれば、普段使いの日用品に

あえて「邪魔な」装飾をつけるなど、

非合理的に感じるものですが、

まじまじと火焔型土器を眺めておりますと、

その飾りの中にただの「思い付き」ではない、

何らかの意図が込められているような

気がするのもまた確かです。

 

そこで、土器の口縁に付け加えられた

「突起」にフォーカスを当て、

手元の資料を漁ってみたところ、

意外な事実が浮かび上がってまいりました。

 

実は、火焔型土器の口縁には、

「鶏頭冠突起」という鶏冠のような

オブジェを付けるという決まりがあり、

それ以外の部分についても、

定型的なモチーフが施されているのだとか……。

 

さらに火焔型土器の仲間である

「王冠型土器」も同様に、

何らかの規則性が認められることから、

縄文人が単に自らの芸術性を表現するためだけに、

これらの装飾的な土器を制作した

わけではないことが見て取れるのです。