夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

「法は法」「悪法も法」ですか?

2006年07月22日 16時35分45秒 |  これがまあつひのすみかか我が日本
先ほどの「認知症の親を殺す」を書いてから、あちこちでこの裁判への反応を見ていた。


多くはこの息子に対して同情的であり、判決を支持するものだったけど、中にはこれに対しての反論や、クールな意見もあった。


その一つは、認知症の母親が殺されることを認識できたのだろうかということ。
でも、これは認知症というものが、完全に脳が働かない状況にあるということではなく、行きつ戻りつしながらその症状を重く、広くしていくということを知っていれば、その時点で母親が、どんな状況にあって、何が起こるのか認識できたのだろうと思う。
もちろん警察も、検察も、裁判所もその辺が一番の鍵になるところだから、きちんと調べた上での罪状になったのだと思う。
そこで異論を唱えることも可能ではあろうが、私は関係者の判断を信じたいと思う。


もう一つは、事情はどうあれ、殺人は殺人。それに対しての判決が法をないがしろにするものだというもの。
でもはたしてそうだろうか。どのような罪であれ、そのときの状況をかんがみて、情状を酌量する余地は与えられている。目をつぶしたから目を、手をつぶしたから手を、といった報復的な罪罰を科すというのは今の世の中には存在しない。
もし法の執行に情状酌量の余地がなければ、報復的な刑罰しかないとすればそれこそ問題だと思う。

自分の娘が暴行されそうになり、相手に傷を負わせた親が過剰防衛で起訴された。
この親と誰でもいいから暴力をふるいたい犯罪人と同列に扱えるのだろうか。

末期癌で苦しみ、自殺したいと願う我が子、親を見るに見かねて、殺してしまう。確かにこれは殺人だろう。自殺幇助にもあたらないかもしれない。
でもその人と、楽しみで人を殺す人間を同列に扱えるだろうか。

単に私利私欲、楽しみのために犯罪を犯す人と、罪は犯したけども、その理由がどうしても止むに止まれぬ行為であったものと同列にしか扱えないとしたら、法としては欠陥だと思う。

日本の法律でも、同じ殺人であっても、そこには状況に応じられるようなさまざまな酌量の余地が残されていることを知っていて欲しい。


ある人は、殺人者が執行猶予で社会に出てくることを、法がないがしろにされたと嘆いていた。法は法なのだと。
でも、法はないがしろにはされていない。裁判所も、現在ある法令の下であの判決を下したのだ。
現在の日本の裁判機能では、超法規的な解釈、判決は絶対にありえない。
自然法的な法の精神というような解釈も非常に困難な状況にある。
あの判決も現行の法の体系の中での判決なのだ。決して法がないがしろにされたわけではないと思う。


はっきり言って私はある場面では裁判所や役所の現場などにもっと法の柔軟な解釈が許されてもいいとさえ思っている。
法律はさまざまな条件を勘案しながら作られる。でもどんなにそれらの条件について研究しても、現実には法が意図していない状況というのが起こりうる。
私がよく例に出すのが、関西淡路地震の時の救助犬が検疫をパスできなかったこと。
検疫の制度を作ったときには、輸入される動物が日本で新たな病気を蔓延させないために作られた。そのおりにはさまざまな事項は検討されていたと思うけど、地震が起こったとき救助犬が送られてくることまでは考えていなかったのだと思う。
法は法という考え方からすれば、あのときの検疫官が入国を止めたことは正しい。でもそれによって助けられたかもしれない何十、何百の命が絶えたことはどう考えればいい?それでも法は法ですか。目の前のたくさんの人を見殺しにしても、法の条文にしがみつくことが正しいと思われますか?
これはそのときスタンバイしながら、出動できなかった自衛隊。あるいはその後の北海道でのトンネル事故などでの消防や警察、自衛隊が顔を合わせながらも、意思決定が現場ではできなかったことなども、これも法律なのだ。
むしろヨーロッパやアメリカなどでは現場の意思が最優先される。現場に決定権の多くが自動的に与えられる。あるいは現場の担当責任者が逢えて法を犯したとしても、その理由が理解できるものであれば、それは支持されるし、もし救助犬のようなケースがあれば、現場の責任者が責任を問われることになる。

「法は法」でもその法律は人々の命と安全を守るためのもの。
司法でも行政でも、人はよく「悪法も法」という考え方をするけど、これは自分が置かれていて、期待されている、本当の意味での責任を回避していることに過ぎない。司法も行政も突き詰めれば人の命、安全を守るためのものだから。


もしここに死ぬかもしれないというような人がいて、私が手を差し伸べるのが法に触れるとする。でももし私が人としてそうすべきであると思えば、私は法を破るほうをとりたいと思う。そして罪に服したとしてもそれを誇りに思える人間でありたいと思う。