夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

気持ちの伝わる作品

2005年04月30日 11時47分20秒 | 芸術・文化
例えばフルーティストがいて、ロングトーンを吹いている。何も考えなくて音だけを聞きながら練習しているのと、その中にも彼の思いを込めているのでは聞いている音が違って聞こえる。
ピアニストがいて、ちょっとしたフレーズを弾く。音符どおりに弾いていれば、聞くほうは彼のテクニックがどの程度のものか以上は何も感じない。でもそのフレーズに彼の気持ちを載せて弾いていれば単に音のつながりとしてではなく、メロディの豊かさなども感じ取ることができるだろう。
ここではアゴーギクのことを言っているのではありません。それは単に演奏法のテクニック。ここで問題にしているのは演奏家の気持ちを載せること。
それが演奏者の独りよがりに終わるか、聞く人に共感を与えるか、それはまたその次の次元のものだと思うけど。
音楽家や役者、ダンサーたちは与えられたものを演奏し、表現する仕事。でも創作をする立場の作家たちにとっては、この気持ちを込めることはもっと重大な意味を持つ事柄ではないだろうか。

こうすれば人目を引くだろう、新しい表現だ、こんな風な作品を作りたい。作家にはいろんな望みがあるだろうけど、それだけで終われば、自分が修練してきたテクニックと知識の集大成を応用しているだけで、音符どおりに弾いている音楽家とちっとも変わらない。他人の作った楽譜を演奏しているのか、自分の頭の中にあるものを実現しようとしているかの差だけで、本当の意味での自分の表現ではないと思う。それは人目は引くかもしれないし、その場での評価は得られるかもしれないけど、ほんとうに人の心の中に染み込んで、見る人の気持ちを打つ作品にはなりえない。

自分の気持ちは解かりにくいもの。自分はこう思っていると思っていても、実は自分を正当化しようとしたりして、ほんとうの自分の気持ちの奥底を自分で自分に蓋をしていることがむしろ多いのかもしれない。それは気持ちではなく、行動で判断している第三者がむしろ自分の気持ちに気づいていることがあるのもこのような理由が原因なのだろう。

それが自己満足で終わるかもしれないけど、自分のほんとうの気持ちを作品にぶつけることがまず作家としての第一歩なんだろうと思う。虚飾に塗れ、嘘に立っている作品はどんなに綺麗に見えても、それだけのそこの浅いものでしかないから。

ところが世の中にはロングトーンを吹かせても、初めから自分の気持ちを込めて弾ける人がいる。絵筆を取って、一筆一筆に楽しい、嬉しいって気持ちを込められる人がいる。時々このような人の作品を見ると、その類稀な才能を羨ましく思う。
そしてそのような人の作品は自己満足ではなくほんとうに人の気持ちにすんなりと入ってきて、人を楽しくさせたり、苦しくさせたり、メッセージを伝えてくる。
ほんとうに素直に人生と向き合い、制作のときにもその気持ちがそのまま出せるオープンな人なんだろうと思う。
普通は誰でも、人に見せるものを作るときには、構えて、飾ってしまうものなんだけど。だから自分の気持ちの奥底を意識して見なければ、そしてそれを意識して出していかなければ、このような素直な作品は生まれてこないのだけど。羨ましい才能ですよね。


04/30/2005 15:14:43


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