夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

収斂 方丈 小間

2007年05月21日 09時00分02秒 | 芸術・文化
こちらには転載しなかったけど、5月9日のMixiには収斂ということで、身の回りのいろんなことが収斂してきているようだと書いた。要するに気が付かないうちに自分が周りのものをフィルターをかけてはじいている、その結果、周りで起こることが収斂してきているように見えるということであるし、裏返せば、身辺をだんだんと整理していかなきゃねという願望でもあるかもしれない。

日記は要するにその日その日のメモだし、それに添える写真も散歩に刺激と付加価値を与えるために、目に付いたものをとにかく何でもバシャバシャと撮っているだけ、内容も、展開もまるで方向性のないものばかりだけど、ただそれを続けているとだんだんと内容が整理されていって、どこかへ集中してこないだろうかな~って思っている。
今のところ、その兆候は非常に少ないけど。

死ぬまで、あれもこれもってのもちょっと考え物。少しは何か特徴のあるものであって欲しいと思うのだけど、それがなかなかうまく行かない。

生活する空間にしてもその通りだと思う。横浜だ、岬だ、蒲田だって自分の住む場所さえ果たしてどこが基準なのかわからない。ふらふら、ふらふら、、、

若いうちはそれでもいいのかもしれない。新しい可能性を求めてなんてことでいろんなことを試すのもいいのだろう。(もっとも出発点の自分の座標だけはしっかり見据えていなければね、そこがふらふらじゃ浮き草って言われても仕方がない。自分で自分を見るときに、あまりにもかけ離れたかっこいい自分を見ている人も多すぎるけど、そんなんじゃいつまでたっても自分の満足する生き様はできないし、人も説得できないって感じるけど)

小さな空間の持つ快適性っていうのは何も方丈記などでの東洋的なものだけじゃない。変な話ドリトル先生なんかにも、必要なものが何でも手を伸ばせば取れるとても快適な部屋(マントルピースなのだけど)というのが出てくるけど、within arm's lenghの快適さというのは洋の東西を問わず、人間誰しも心のどこかで求めているものかもしれない。
ロシアの作家さんも人間に必要なのは2メートル、1メートルの空間だって言っているし、今の日本の法律からすれば、最終的に人間に必要なものは骨が入るだけのもの、その空間ということになるのだろうか?

いずれにしろ、人間はそちらへと向かっているわけだから、ある程度の年齢になったら身の回りのものを整理し、身軽に、壺へ飛び込む用意をしなければと思うのだけど、結構それが大変。なんせ今までやってきたしがらみがたくさんある。あれも欲しい、これも置いておきたいではいつまでたっても整理できなくて、どこかのゴミ屋敷みたいになって、それじゃお迎えを待てないね~~~

なんて思いながら、ふと利休の小間の話を思い出す。利休はどんどんと茶室から純粋にお茶を楽しむために不必要なもの、不要なものをそぎ落としていった。残された空間で出されるお茶、その雰囲気、、、それが本当に利休の求めている最終結果なのかどうかはわからない。それはあの天才だけが知りえることだろうけど、でも、私から見ると、とても緊張感あふれる、切迫した空間なのだろうと思う。そんなお茶はよほど相手が親しくなければ、点てたくないし、呼ばれたくもない。あれはそんな絶対空間の中でお茶に何が必要かを見出すための実験室なのではないかと、ふとそんなことを思ったりするけど、まぁ、お茶のことが何もわかっていない私が何を思っても仕方ないか。

身の回りを整理して、収斂していきたい。でもいまだに無駄の必要性もまた、どうしても必要なものとして気持の中にあるのですよね。



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2 コメント

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無駄 (赤い風車)
2007-05-22 08:55:33
Mixiのほうに頂いたコメントへのレスを紹介しておきます。


無駄な時間、空間というのは物事に柔軟性を持たせるためにもどうしても必要なものなんですけど、あえてそれを削り落として、全くの素になったときにそれでも何が必要なものかを考えることも必要なのでしょうね。
ただ、人生の残り時間がなくなってきて、その中で、今までと同じような無駄なスペース、物は必要なくなってきている、そぎ落とさなければならない、じゃ、何を落としていくっていうのもまた、、、
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結界 (赤い風車)
2007-05-22 08:56:54
これまたMixiのレスです。



>にじり口
はいはい、マイミクさんから、貴人口専門のお腹を持つ赤い風車だと言われております。偉い人にはにじり口ではない入り口があり、座る場所も一段高めのフロアーが用意されている茶室があります。

>正座

私は、にじり口からは入れない。しかも正座がちょっと困難になり、お茶から離れてしまいました。男性はまだしも、女性だと完全にお茶を諦める人もいるようですね。


お茶には結界ということがよく出てきます。
露地から茶室までは結界だらけ。
茶室の中でも茶室と外の部分を分けるときとか、内、外を区分するときにこの考えが出てきます。扇子もその小道具の一つとして使われますし、畳の縁もそうです。
お茶が発達した時代というのは戦国時代から、ようやく日本が統一されるに至る時期。世俗でどのような命を懸けた敵対関係にあったとしても、お茶を楽しむときには、世俗を忘れてお茶だけに専念しましょうということだとよく言われます。お茶を楽しむというより、世俗のしがらみをひとまず忘れた空間の必要性があったのでしょうね。

世の中平和になって、結界の持つ意味もただの見立てとしての意味しかなくなって、逆にこの結果いの持つ冷厳としたルールが安直に受け入れられて、お茶を軽いものにしているような気がしますけど。

いずれにしろ、私にとってのお茶は遠い世界のものになってしまいましたので、あまり口幅ったいことはいえませんけど。
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