夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

好雪片々不落別處

2007年11月30日 10時49分23秒 | 芸術・文化

今日のアクセス解析を見ていたら、「好雪片々不落別處」で探されて来られていた人がいた。碧巌録の言葉ですよね。碧巌録はトラックバックの練習でちょっとオチャラケを書いていたけど、とにかく難解。あまりにも難解すぎて、睡眠薬代わりに本を読むなんてレベルではなく、手にとった段階ですぐにパタッと眠ってしまう。条件反射の見事な見本になりました。だから、いまやベッドサイドの必需品。なんせ「眠れぬ夜」が多い人ですから。同じベッドサイドに置くものでも、ペイネみたいな本はエッチ本だからかえって眠れなくなるでしょうしね~

なんて思いながら、先日の「鬼が笑う」のコメントにレスをつけていたんですけど、薄いピンクの山茶花を深い緑の木々をバックに一杯に撮った写真で、「背景がもっと明るいとき、画面に他のものが入っているときにはこの山茶花は目立たなくなるでしょうね」って書いていて、自分のカメラ目線は山の風景に感動して、紅葉の一枚を撮るようなことが多いな~って思い直していました。

目の前に広がる風景、山でも海でもいいのですけど、を見ながら、それを見て綺麗だなって思うのではなく、その中にふっと溶け込んでしまっている自分を見つける。
自分が山の一部になっているから、一枚の葉っぱを撮り出すことで自分には山が見えている、というよりそれに同化している。

展覧会でもステージでもいいのだけど、絵を見て、その絵が綺麗だなって思っている段階では、まだ作品を鑑賞している段階。その絵とそれを見ている自分が溶け込んで一体になっている自分を見るとこれは何とか紹介しなければと思う。

美術史なんかをやっている連中がその流れの中でこの作品がどれだけ重要かなんて、口に泡を飛ばして説明し、人を引きずり込もうとしているのを見るとそんなの論外だよって感じになってしまい、引いてしまう。芸術ってもっと違うものじゃないっていいたいんですよね。もちろん売名や、売れるからって企画を立てる人が多い中で、これはとても良心的な人だとは思うけど。

だから私の場合いつも一匹狼の、マスターベション企画でしか過ぎないのはよく判るけど。

でも、ほんとうにパリでも、バルセロナでも、アムステルダムやロンドンでも、道を歩いていて、誰かに呼ばれたってふっと横のショウウインドウを見ると絵がかかっていてそれがおいでおいでをしている。足が動かなくなり、画廊のドアを開け、あの絵はいくらってことになる。金なんかないんだけど、プラスティックマネーなる悪魔の発明がそれを可能にしているんですよね。後々どれだけ苦労するのか、毎回の経験でわかっているのに。
このPCの前にかかっているダリ。この部屋のシャガールやコルネイユ、コレクターであったある大支社長が「お前はビッグネームだけ買うのか」って聞いたことがあるけど、とんでもない、クレジットカードを出すまで誰の作品か知らなかったのだから。
絵に呼ばれて、動けなくなって仕方なく、物にした、、、(自分にとって)いい作品ってそんな力をもっているんだと思っている。

現代作品は嫌いっていつも言っているけど、99.99%のそんな作品は、綺麗で終わるか、どうだこれなら面白いだろうとか、これなら注目を引けるとか、売れるとか、そんな気持ちしか伝わってこないもの。
でも現代作家の作品の中にもふっと暖かな気持ち、一途な気持ち、そんなものを感じられるようなことがある、動かされるような作家の気持ちが伝わってくるというのは、作品と一体化する時のどうしても必要な橋だと思う。そしてそれを見ているうちに、その作品とそれを見ている自分が一体になっていることを感じたら、もうこれは何とかしなきゃ仕方がないでしょうってことになる。

蕎麦を食べたいと思ったときに、美味しくない蕎麦を食べても、その気持ちは変わらない、いつまでたっても蕎麦を食べたいって気持ちに動かされている。私ってそんな粘着質なところがあるから、なんとなくこれは絶対に紹介しようと思ったものは大体やってきた。好運な生涯だったんですよね。

「好雪片々不落別處」 
雪がちらほらと落ちてきている。ここに落ちないし、あそこにも落ちない。
綺麗な雪景色だと思うのは自分の気持ち、そしてその風景を作り出している一つ一つの雪を、ここに落ちた、あそこに落ちたというのも自分の気持ち、雪はただ落ちているだけだけど、雪景色を見るのでもなく、雪の一つを見るのでもなく、そして雪の景色や、雪の一片になるのでもなく、その全部と溶け込んでしまう、、、
ねっ、碧巌録はあまりにも難解すぎて、睡眠薬の代わりになるってよく判るでしょう。

雪は無心だけど、作品はそうは行かない。どうしても自分の気持ちや、作為(理性?)が入ってしまう。ならいい作品を仕上げるには自分をもっと見つめなければ、本当の自分に蓋をしていたんじゃいつまでも、作り物でしかない。
そうするには、自分の行動を分析していくしかない。ほんとうの自分の奥底の気持ちをね。失敗を恐れないで、失敗はすぐに忘れてなんて、誰が言ったのかな。それはゲームの途中ならそうかもしれないけど。ゲームが終わったらきちんと見直さなきゃ。それも単なる技術的、表面的なことだけでなく、もっとなぜそうしたのか、なぜそれがいいと思ったのかまで深く、深く掘り下げていかなきゃね。そうしなければ失敗から何も学べない。