夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

岬へ

2005年10月15日 16時33分37秒 |  岬な日々


ずいぶんと昔から私は終の棲家を探していた。

もちろん伊豆やその他の有名地も探した。確かにこれらの場所には素敵な家、設備などが完備し、温泉も入っているところもあり、景色も素晴しいところがあった。おまけにバブル崩壊後の値崩れでそれが夢ではないこともあった。
でもこれらの場所はシーズンには交通渋滞で辿りつくまでに何時間もかかり。オフになると店も管理事務所を閉まってしまい、朝ごはんを食べようにも車で30分以上もかけて街まで出かけなければならないそんな場所ばかりだった。

業者や友人からの情報であちこち走り回りながら何年か経ったある日、千葉の不動産屋からこれはどうでしょうかと二つの物件がもたらされてきた。一つは内房の屋敷で書院造の築山を持つ庭と、運転手用の部屋の着いたガレージ、物置などがある素晴しいものだった。海は見えないけど、歩いて1分。
本当に喉から手が出そうだったけど、ふとこの家を買ったら、家人に全ての用を言いつけ、私は一日中床の間を背に背筋をぴんと立てて座り、高尚な本を読む、そのような生活が求められるのではないだろうか。そして毎日業者に家や庭の整備を頼んでその家の格式を守ることに汲々としなければならないのじゃないだろうかそんな思いに駆られてしまった。
だから泣く泣くこのうちは諦めた。

もう一つが、今の岬。
オリジナルでは一階は陶芸かガラスのアトリエになっていたらしい広いスペース。2階にリビングと寝室が二つ。台所もプロ用の機材が入っている。結構こだわりのある人が設計したような作り。そして何よりも決定的だったのは檜の風呂。そして風呂の窓には八重桜が触れるように枝を延ばしている。
思っているほどには庭が広くなくそれで躊躇していたけど、友人がこんなところでは
草刈が大変。何時も居るわけではないので、来るたびに草刈だけで終わってしまうよって忠告してくれて、それもそうかと思い直した。

3方ががけになっていて、崖には木が生い茂っており、他のうちが立つこともない。
ってことでここが私の終の棲家。

ここの一角には他に4軒のうちがあるが3軒は私がこちらを買って以来、もう数年になるが一度もきたことがない。持ち主を探して、友達を紹介すれば年に数万でも貸してくれるかもしれない。だって今もだれも使わないので荒れてきているから。でも私はあえてそれをしない。

風の音、虫と鳥の声以外は何も聞こえないこの静寂と緑に包まれた棲家と環境に私は十分満足しているから。


質問 貴方のリズムはいくつ?

2005年10月15日 16時29分24秒 | 芸術・文化

ところで先ほどの「微小な差の認識」は別な目的で書き始めたのだけど、頭だけで終わってしまった。

全くの無知な素人の仮説だけど、演奏家というのはいくつものリズムを感じながら演奏をしているのではないかということ。

一つは音楽家が持っている絶対的なリズム。(これは数学的なリズムとその国民性、文化から来るリズムも含まれている。)前のBlogで例えばウインナワルツは2拍子目がちょっと長いって書いたことがあった。オランダ人の若い音楽家が能の音楽をやろうとして、「一番難しかったのは自分のリズムを棄てて白紙で能のリズムを取り込むことだった」って話をしていたこと、騎馬民族は馬の上で育つので3拍子になるって思っていたら、実はモンゴルなどの音楽では無拍子が多く、今まで何を勉強してきたのだろうって、自分の浅はかさに驚いたことなどを書いていたと思う。

二つ目は、メロディを浮かべながら演奏しているときに音楽家が感じている感情的なリズム。ただあまりにも感情的になりすぎるとクラッシックがポップスになってしまう。
ダンスの場合は身体の動きとダンスの大きさという物理的な制約があるのでもっとわかりやすいかもしれない。
ダンサーなどの場合にはこれは自分の身体からするリズムだと思う。
大きな動作を求められれば、普通はリズムは遅れてくるもの。

三つ目は、感情的にメロディを弾いているときに、どこかで感じているであろうきちんとしたリズム。これは上の1と2の間にあるのだろうと思う。
エモーショナルな演奏をしていても、(リズムは2になっている)音楽家ならどこかで(1の)正当なリズムを刻んでいて、でも自分の演奏をするために、また感情に流されすぎないように格調を与えるためにも、どこかでリズムを引き戻している。それが3っ目のリズム。
ダンサーの場合はメロディに合わせるためには感情に導かれた大きな動作、踊りを意識的に小さくするか、早く踊るか、リズム全体を遅らせるか、、の選択になるかもしれない。

常に刻まれている1のリズムがあるから、ルバートを繰り返しても、フレーズ全体ではキチンと収まったりすることができる。
しかし1のリズムだけしかなければ、それは単なる指の練習にしかならない。

感情に導かれたままなら、それはバーやナイトクラブの演奏で終わるかもしれない。

その間のどこを取るかなんだろうけど。

でも1のリズムであっても、もしかしたら演奏家はいくつかのリズムを持っていると思う。当初からのリズム、ルバートをした後でのリズムなどなど。

彼らの頭や、身体にこれらがどう治められていて、どう機能しているのか、とても興味がある。


これは形を変えれば、ビジュアルアーティストにとっても同じことが言えるかもしれない。感情と理性。

「山を登りながら考えた。知に働けば角が立つ、情に棹差せば流される、とかくこの世は住みにくい。」(夏目漱石 草枕 冒頭)


千葉県夷隅郡岬町

2005年10月15日 15時53分22秒 |  岬な日々


お気に入りの椅子がある。

なに、人に貰った使い古しのマッサージチェアなのだけど、これが妙に身体の線にぴったりでこれに身体を包まれているとなんとなく安心感があるのだ。







その椅子に身体を預け、窓越しに秋の装いを始めた百日紅の葉を見ているとこの上もない上質な時間に身をゆだねている気持ちになる。





本とお茶をサイドテーブルに用意すると、もう立ち上がれない。

お腹が空いてきたと思っても椅子から立ち上がるほど重要な問題だろうかって思い返し、この贅沢な気分を壊してまで食事の用意をしようとは思えなくなる。





昨年の暮れには東京へ戻るまでの二日半、殆どをこの椅子の中で過ごし、危うく餓死しそうになっていた。

それほど危うい魅力のある椅子なのだ。





私はなんと幸運なのだろうと思う。

仕事も自分の我がままし放題で許してもらえたし、

人生の最後には自分の好みの家を見つけられ、気に入った椅子に身を置いて、この上もない平穏な気持ちを味わうことができる。







もちろん私が手にすることができるうちだから、中古なんてものじゃなく、太古に近い物件だったし、はたして後何年このような状態を保てるのかは判らない。

もしかしたらあと数年しか持たないかもしれないが、多分このような毎日を送っていれば、その頃には私は完全にぼけているか、訪れる人も無いままに餓死して、白骨化していっているかもしれない。

でもそれはそれで大往生ではないかと秘かに期待しているところもある。

今更、これを改修し、思い通りのデザインに変えて行かなければならないほどには生きていないだろう。



だから、あえて世の中に老骨を晒してまで、これ以上のものを手にする意味もない。





今が満足なら、それでいい。
人の醜さを嫌というほど見てきた私には、ここから立ち上がって人の世に入っていく意味が見当たらない。
世の中の波ができるだけ押し寄せないように、密やかに、密やかに生きていくことが望み。









我がままを言えば、思いやりのある、優しく聡明で、美しい女性が身の回りを世話をしてくれることだろうか。



でも一つの思いを叶えるためには、二つを我慢し、三つのトラブルを抱えるくらいなら、私は今のままの平穏な生活をとる。



世は全て事もなく、

神は空にしろしめす。



なんとなくこの言葉が判ってきたような。