立山のおじさん

北アルプス 立山山麓物語

うれ往来・鎌倉街道の秋を行く。2

2021年11月25日 | Weblog

先日の水須からの道探しも確信が持てず、地元の方にお願いして水須山を目指して進む。

現地に集まり4名で水須集落の上から進む。

お願いした方も高齢であり記憶を辿りながら進むと、先日、目印を付けた崖の道は個人の付けた道と言うのでそれを避けて上に進むと浅い道跡はあるので

進む。しかし、その道跡も根元の折れた大木の所で消えていた。

諦めて引き返し、テープの目印迄行き、崖の縁を進むと石仏に着く。地元の方は「これだ。」と案内される。道跡は正解だった。

             石仏の由来を聞く。

ここで美味しい中食を食べてから右側の縁にある道跡の笹薮を皆さんが伐採しながら進む。

突き当りでは、右側に深い溝が出てくるが底には水が染み出ているので気になる。左側には切り取った土の跡があり左側へ進むと小川に突き当たる。

良く見ると対岸の縁に切り込んだ道跡が見えるが、そこまでは崩れているので右側の縁を足場を作りながら進むと対岸の道跡の根元に着く。

少しは崩れていたり、倒木が倒れていたりするが足場を作りながら進む。先には道跡が見えてくる。

この緩い平地に着くと浅い掘り込みが続く。この時期であり木の葉が落ち前方の確認はし易いのと笹も細いので刈りやすい。笹の下はトンネルになっている。

岡田の尾根筋の様な深いや薬研堀でないので助かる。

だが、この付近には何故か道跡が時々本道の横に出てくる。本道横の道跡から知人が笹を刈りながら現れる。不思議な道造りがしてある。地元の人に聞くと「道跡があるので、炭焼きには道迄作ることは無い。」、「道跡があるのでそれを利用していた。」、「雨の時に道が滑るのと歩き難いので作ったものか?」と、思案するが自分には検討が付かない。戦略的なものと思えたのは岡田の尾根筋でも同じ地形のところが数か所あった。ここは多すぎる。

漸く、平地に着き一休みする。視界は前方に富山平野が見える。日本海も薄っすらと見渡せる。服部裕雄さんの記した言葉を思い出す。

「水須からの道に迷い細尾根を登ったので「堀切」、「五俵平」は確認出来なかった。」と言うが、自分達はその「五俵平」に居ると思えた。

瀬川さんの言葉では、昔からこの周辺では炭を焼いていた。との言葉は周囲の雑木から想像出来た。五俵平とは炭の運搬から出た名前と想像をたくましく

する。(炭を背負子に5俵を縛り運搬した)

 名前の由来は、慶応元年(1865)八月十村役 杉本有貞が稗作見分の際に記した日記に示されている。

 ◎水須ー五俵平ー堀切沓懸ー焼杉ー高杉山等へと順に場所を記している。

  地元生まれの瀬川さんは一番水須を良く知る一人である。

今回はここ迄とし、次回の為に、少し偵察に上に向けていく。標高810mあり、水須山へは高低差160mはある。

右側へ進む道跡があるので確認をして置く。途中の道跡にウーロン茶のペットボトルが落ちていた。誰か来ていったのか・・・それとも、春先に尾根筋を

歩いた人が捨てたのがここ迄転がって来たのか・・・と、思案する。次回の為に置いてくる。(写真を写すのを忘れて後悔する)

休憩する池原さん、岩城さん、

      道跡を降りて水須へ向かう皆さん。

薬研堀を過ぎれば崩れのある小川に出る。対岸には水須集落の上の尾根が見える。

水須集落の上に着くと、気にしていた杉の木が道の横にあった。それは服部さん達が登って来て、「集落の上にある杉の所で中食を食べた。」との記載を思い出した。周囲は草も少なく、木の下はカモシカの休憩場所と見え、休には持って来いである。

今回は、地元の瀬川さんの同行を経て「五俵平」迄を確認出来た。五俵平から道跡は右側へ進み再度小川へ進むのか・・。又は、山へ登っていくのか?である。

 次回が楽しみです。若手の皆さんありがとう御在ます。

 皆さんの足手まといにならない様について行き、少しは記録を残せたと思うわが身也。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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