午後3.00頃に買い物をするのに車に乗り込むと西の空に見掛けない雲が帯状に繋がっている。
近年、見た事もない雲は、厚く帯状に繋がり、山の尾根筋を眺めるオットセイがいる様に見えた。
こんな雲の形は見たことが無い。 山の尾根筋を眺めている気がする。
雲は、そんな形で上空を過ぎていった。
明日からは天気が変わるのか・・・・大雪にならなければ良いのだが・・・
午後3.00頃に買い物をするのに車に乗り込むと西の空に見掛けない雲が帯状に繋がっている。
近年、見た事もない雲は、厚く帯状に繋がり、山の尾根筋を眺めるオットセイがいる様に見えた。
こんな雲の形は見たことが無い。 山の尾根筋を眺めている気がする。
雲は、そんな形で上空を過ぎていった。
明日からは天気が変わるのか・・・・大雪にならなければ良いのだが・・・
雨と雪で古道探しを諦めて、古地図を探しをネットで調べ、再度本物に触れたいと県立図書館を友人と訪ねたが、本物は見れずネットでしか観れなかった。私物のプリンターでは鮮明にならないので図書館のレザープリンターでは、其れなりの彩度まで確認出来ることが判りホッとする。
赤線では確認出来るが書いてある字が小さいので不明瞭でだが、地名から読めるので判る。また、赤線も時々白い部分がある。多分上に載せられた紙が密着していたので赤線が剥ぐれたと思われる。
この地図には、探していた中滝ー水須へのルートがハッキリ読み取れる。岡田の尾根筋に深く刻まれた薬研堀が地図として記載されたのを知る。多くの古地図を見てきたがどれにも無く消沈していた。
また、別の古地図には点線で中滝ー水須迄確実に記載されているので2枚の地図を合わせると確認が出来た。5年間掛かった道跡への裏付が出来て安堵する。
しかし、戦国時代の人達も通っていたと思われる古道は、山の尾根筋は最短距離で里へ着く道であるが、人々の点在する村の道を地図に記載され、尾根筋の道は書かれていなかった。加賀藩が越中を統治し、奥山見回り役、十村役の人達にもこの道は付いては書かれていないのが不思議である。また、知っていたとも思えるが絵図にも書いていない。越中を支配した岐阜・江馬城主は亀谷銀山、松倉鉱山、長棟鉱山等の要所を知り、佐々成政もこの道はを知っていたと思える。戦国の戦いでは隠れ道として利用したと思える節がある。
岡田の人から「家の言伝え」と聞いていた、有峰の人達が通っていたとの裏付は「言伝え」と、この「古地図」で裏付が出来た事になると私は信じたい。
長年多くの、知人や地元の人達と語り合い、汗を流し、草刈り等をし、ここ迄漕ぎつけた苦労が報われた事に感謝したい。
後は、細部を再検討しながらこのウレ往来、鎌倉街道を記録したいと思います。
水須からはヤット手を付けたばかりでGPSに全行程を残せたら良いと願っています。この古道は、現在廃道となっていますが、深い薬研堀は数百年を経過しても崩れる事もなく残っています。高杉山の巨木を知ると、何処の登山道よりロマンあふれる古道、「ウレ往来・鎌倉街道」として後世に伝えることが出来ると信じています。
若い登山家さん達が集まってデジタルでの記録をして戴ければと願うものです。