これは、数年前、ある福島県内の日蓮正宗の御僧侶が、御会式だったか、広布推進会でお話された話である。
ある御僧侶がいて、その方はその時たまたま日蓮宗の僧侶と一緒にいて、あるおばあさんを前にして、布教がてら、話をしていた。
日蓮宗の僧侶は、それは高度で難しい理論的な日蓮宗の話、宗教の初歩的な話など、色々繰り出して、ながーい事話をしていた。おばあさんは、うなずいて聞いていたが、途中で日蓮正宗の御僧侶が割り込んで来て、「おばあさん、日蓮正宗は、それよりもちょこっと、少し上の位の宗教なんですよ」と言った。
また、日蓮宗の僧侶が語り出すと、長い話の後、いい頃合いを見て、またまた日蓮正宗の御僧侶が出てきて、「日蓮正宗は、それよりも良い宗教なんです」と言って割り込んで来る。
しかし、そんな事を繰り返している内に、おばあさんは、最後には、日蓮正宗の御僧侶が何とはなしに真実を語っている、という直感を信じて、あなたを信じます、と日蓮正宗に入信を決めたと言う。
この御僧侶のような説法も、十分、折伏になっていたのである。
これを聞いて、折伏とは、正に正攻法、方法などない事が判る。折伏には百人百通り、千人千通りの折伏手法がある。
ある人は自分の成功体験を語る。ある人は失敗から立ち上がった体験を語る。失敗から立ち直れなくても、その途上にいる自分をありのままに語る。
病気から生還した体験、ビジネスパーソン、人に恵まれた、周囲の環境的な話、勉強して努力した挙句、成功、失敗を繰り返し、今は幸せな境遇にいる体験、何でもありだろう。自分なりに編み出したものであり、初めから、型などないのである。難しいが、尊い行為だ。
信心とは折伏なり、の御法主上人猊下様の御説法が身に染みる、二月如月の候である。
以上。よしなに。wainai