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進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

戸田先生のお言葉集

2023年08月02日 07時20分10秒 | 邪教創価学会・邪政治団体公明党・邪顕正会・邪正信会、の邪義を構える異流義共

 創価学会第二代会長戸田城聖先生(1900-1958)は、誠に日蓮正宗の外護に努められた。その御言葉を、何度でも、現今の創価の分からず屋たちの為に、再掲する。以前の、このブログの開始の初年度に、発表した筈である。
 一人でも多くの、創価員が、目を覚ます事を、願うものである。
 これらお言葉が、戸田城聖先生の、信条、真情、最も言いたかった、この世に遺した御言葉集である。 

戒壇の大御本尊を信じない者は謗法
 本門戒壇の大御本尊を信じ奉らない者は、すべて謗法として禁じなければならない(戸田城聖全集五-一五六ページ)

戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐
 僅か小勢百数十人の僧侶が愚僧悪僧邪僧充満の悪世によく耐えるもので、大聖人の「御出世の御本懐」たる弘安二年十月十二日御出現の一閻浮提総与の大御本尊を守護し奉って、七百年間、塵もつけず敵にも渡さず皆々一同代々不惜身命の心掛けで一瞬も身に心に身心一つに御本尊を離れずに今日に至ったのである(中略)かくも法体を守護し、且化儀連綿たる功績こそ称えねばならぬことである(大白蓮華・昭和二六年六月号巻頭言)

 余は二十七年なりとは弘安二年十月十二日の総与の御本尊の出現をさしての御仰せであって、この御言葉によって本仏出世の御本懐は此の御本尊の出現にある。世の不幸を救ふ一大秘法は此の本尊にありと信じなくてはならぬ(大白蓮華・昭和二六年六月号二頁)

 弘安二年十月十二日の本門戒壇の御本尊は究竟中の究竟本懐の中の本懐で真に尊き事と拝さなければなるまい。この御本尊こそこれ三大秘法の随一であり、一閻浮提総与の御本尊である(大白蓮華・昭和二八年二月号三頁)

本門戒壇の大御本尊
 弘安二年十月十二日の御本尊様が、究極中の究極の御本尊様なのです。大御本尊を拝すると、花押の下に「本門戒壇也」と、チャンとおしたためになっている。その次に、願主弥四郎国重とありますが、本門戒壇の願主ですけれども、この御本尊は本門戒壇だ、ということが、キチンとおしたためになっている。争う余地がない。絶対にない(大白蓮華・昭和三四年三月号七頁)

戒壇の大御本尊は大聖人の御当体
 御本仏は、生きていらっしゃるときには、日蓮大聖人、亡くなられては本門戒壇の大御本尊と仰せられ、その仏のお名前と年月はちがいますが、同じくわれわれを化導して下さるのである(日蓮正宗方便品寿量品講義二〇六頁)

 日蓮大聖人はいつも、この娑婆世界に住んでおられる。現在は富士大石寺におわします戒壇の大御本尊として出現されているのだが、多くの邪宗のものたちは、近くにいながら、かわいそうにも日蓮大聖人の御当体とは気がつかないでいるのである(日蓮正宗方便品寿量品講義二一三頁)

 戒壇の大御本尊は広宣流布の根源
 学会は今大聖人の命うけて弘安二年十月十二日に御顕しになられた一閻浮提総与の御本尊を日本に流布せんことを誓う(聖教新聞・昭和二六年一一月一〇日付)

 「明鏡」とは、弘安二年十月十二日に宗祖日蓮大聖人が御建立あそばされた本門戒壇の大御本尊であり、「向かって」とは、われわれがこの御本尊を唯一最尊の大御本尊なりと信じたてまつることである(戸田城聖全集七ー125頁)

 戒壇の大御本尊は根本の御本尊
 御本尊様は一つしかありませんが、無量義経に分身散体の法というのがあります。この分身散体の法というのは、創価学会を除いて日本広しといえども絶対に説いておりません。分身散体の分け方により種々分けられますが、すべて一閻浮提の御本尊に帰一するのです(戸田城聖先生質問会集二一頁)

 われわれの貧乏と苦悩を救わんがために、日蓮大聖人様は大御本尊様を建立し、遺されてある。これは、弘安二年の十月十二日の大御本尊様のただ一幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安二年の十月十二日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです。(戸田城聖全集四ー349頁)

 「大白法」とは何か。それは本門の三大秘法であり、就中三大秘法随一の本門戒壇の大御本尊こそ、一切の教典の帰趣するところであり、あらゆる生活、あらゆる学問の根源である(大白蓮華・昭和二四年八月号二頁)

 大御本尊に向って、御本山のしきたり通りの化儀によって、題目を口唱する、その時こそ、口に心に身に御本尊を受持したことになるのである(大白蓮華・昭和三二年六月号一頁)

 この本尊論がまことに大事なところなんです。これが狂ってくると、一切が狂ってくる。ただ、富士大石寺の文底深秘の大御本尊、これより他にはない。これが根本なのですよ。(大白蓮華・昭和三四年四月号九頁)

 大聖人の教えの究極は戒壇の大御本尊
 日蓮大聖人の真実のお教えは、独一本門といい、文底秘沈というも、みな一閻浮提総与の三大秘法の大御本尊を根本としたお教えでなくてはならない。この教えは、今日末法においては、富士大石寺にこそあれ、ほかにはないのである(戸田城聖全集三ー83頁)

 日蓮大聖人おおせの、もっとも根本は、弘安二年十月十二日御出現の大御本尊であります(日蓮正宗方便品寿量品講義八六頁)

 大石寺は本門戒壇建立の霊地
 本門戒壇の建立されるべき地を大日蓮華山という(戸田城聖全集七ー69頁)

 創価学会は戒壇の大御本尊を信ずる団体
 日蓮大聖人様から六百余年法灯連綿と正しく続いた宗教が日蓮正宗である。もっとも完全無けつな仏法が正宗なのである。この仏法こそ私達を真に幸福に導いてくれる宗教であることを私達は日夜身をもって体験してゐるのである(中略)
 私達は無智な人々を導びく車屋である。迷ってゐる人があれば車に乗せて大御本尊様の御もとへ案内して行くのが学会の唯一の使命である。宝の山に入って宝をとるかとらないかはその人の信心の結果であって、たゞ宝の山たる大御本尊様へ案内するのが我々学会の尊い使命なのである(大白蓮華・昭和二四年一二月号一頁)

 日蓮正宗の教義を弘めよ
 日蓮大聖人以来の正しい歴史と教義を、世に弘めるべく大いに努力しなければならない(戸田城聖全集六ー404頁)

 戒壇の大御本尊を信じよ
 なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉供養で拝むことのできるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。今後も、できるだけ多くの会員を登山させるよう、計画を立てたいと思っている(戸田城聖全集三ー490頁)

 絶対の幸福をうるためには、一閻浮提総与の大御本尊様を拝む以外に道はない(戸田城聖全集四ー78頁)

 私の願いとするところは、この弘安二年の十月十二日の大御本尊様を信ずるということです。しかし、理論がわかっても、わからなくてもいい。だんだん、そのうちにわかる。絶対だということがわかる。この日蓮正宗の哲学ぐらい、きちんとなっているものはないのです(戸田城聖全集四-350頁)

 世の為人の為に富士大石寺にいます「大御本尊」を一人にでも多く授けたいと努力するのが即ち折伏と言ふのである(大白蓮華・昭和二六年六月号二頁)

 当門に於いて観心とは受持即観心と云って弘安二年十月十二日の一閻浮提総与の大曼荼羅を余行もまじえずひたぶるに信心し奉る事である(大白蓮華・昭和二八年一二月号巻頭言)

 現代に於ては時刻相応の教と云うならば、富士大石寺にいます一閻浮提総与の御本尊を信ずる事である。大聖人の御命たる大曼荼羅を信ずる事でありその大曼荼羅中の極説中の極説たる弘安二年十月十二日御出現の総与の御本尊こそ真の民衆救済の御本体であらせられる(大白蓮華・昭和二九年七月号巻頭言)

 大聖人は実践方法として、弘安二年十月十二日の大御本尊を中心として、これに南無することによって、一切の悪い宿業が消えて、よき宿業が生まれるのであると結論されたのである(大白蓮華・昭和三二年一〇月号一頁)

 大聖人様は三十二の御年に、南無妙法蓮華経と、清澄山でお唱えあそばして、二十七年で、今のお山の大御本尊様を、御建立なさった。それが十月十二日です。その大御本尊様を、われわれは拝んでいるんです。(中略)『余は二十七年なり』とおっしゃって、おしたための御本尊様こそ今の奉安殿の御本尊様であらせられるのですぞ。御立派なものですよ。あの大御本尊様を拝んだら、生命が延びるとまで、いわれているのです。立派な大御本尊です。そりゃ、拝まにゃわからんぜ。拝んでもわからんかも知らん。聞いてもわからんかも知らん。ただ無二の信心で拝すべきです(大白蓮華・昭和三二年一二月号三頁)
 
 御本尊書写の権能は御法主上人にある
 大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ(大白蓮華・昭和三四年七月号九頁)


 この他、創価学会、牧口初代会長、三代池田大作、が、その当時から、学会草創期は、「大御本尊」賛美を、繰り広げていたが、途中で、池田が脱落して、反・大御本尊へと回った。

 三代会長を至上永遠の師匠とする創価。その三代とは、牧口、戸田、池田、の三代を指すのか、第三代会長池田大作個人のみを指すのか、果たして疑問だが…。

 ついには、更にと言うか、第六代会長原田稔は、
「弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません」
と、聖教新聞紙上にて、平成二十六年十一月八日号にて、宣言した。

会則改変に関する原田会長の説明(聖教新聞・平成二十六年十一月八日付)
 「創価学会は、大聖人の御遺命の世界広宣流布を推進する仏意仏勅の教団であるとの自覚に立ち、その責任において広宣流布のための御本尊を認定します。
 したがって、会則の教義条項にいう『御本尊』とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。世界広布新時代の時を迎えた今、将来のためにこのことを明確にしておきたいと思います。」(前後の文、及び、挨拶部分および前文省略。「大御本尊」部分のみ、要文抜粋。筆者による。) 

(資料:大御本尊への信仰を捨てた創価学会をただすー矛盾のスパイラルにおちいった創価学会ー、編集・日蓮正宗宗務院、発行・KK大日蓮出版、の著作を参考資料とした。作者、私、wainai123753、による。)

※編集後記
 「世界広布新時代」って何?「大謗法の地」とは何処(いずこ)か?邪教・創価学会のある、東京新宿信濃町が、「大謗法の地」というならば、かなりの確率で、判る。しかし、日蓮正宗御宗門、大御本尊の在る土地、総本山富士大石寺を、そう呼ぶとは、不見識、無礼、失礼、不躾極まりない。そうは思わないのかね?池田サン!創価学会の皆さん!
 池田田吾作が、全てを命じたが、その張本人が、どこへ隠れたか、雲隠れ状態じゃあ、責任の詰めよう、取りよう、責任の所在が、ハッキリしないわな。
 この、現在の創価学会の現状、現在の全てを生み出す元凶となった、池田氏が、ハッキリしないと、こちらの、日蓮正宗としても、なんとしょう、如何(いかん)とも出来ずに、ただ時間の浪費となる。
 早く、池田氏は、雲隠れ状態から脱して、早く身元を明かして、ハッキリとした、自身の学会員を指導するなり、何か、言いたい事共を言うなり、何とか方法があると思うのだが、それも、幹部の厚い壁に阻まれて、意見も通らない。
 よって、選挙での、邪政党公明党、も、山口那津男氏が、永遠に党首に君臨する如くに、十何年も前に池田氏に指名されて以来の、マンネリ化をしている。
 最近の、創価学会、公明党も、元気がなくなったと、よーく、聞くし、方々で聞かされる。もう、それら組織自体が、そこにいる人種自体そのものも、時代遅れの感も拭えない。
 今時、創価や公明やって、活動してますなんて、じゃあ、その大元締めの、池田サンは、どうしてるの、と訊かれても、何にも答えられない。幹部の言う通り、お元気にして居ります、じゃあ、ウソをついているようで、実体が判らないだけに、自身も不意に不信感を懐く。
 私は日蓮正宗信徒として思い、問いたい。この後の、池田大作Xデーの日が来たら、それを機に、時間が経つにつれて、今までの建前を外して、池田死去の報を聞いた学会員の中からは、「一応の義理は果たしたのだから」との、大量の脱会者が出て来るのではないのかと。内部崩壊が始まるのではないのかと。そうなり得るのではと思い致している。
 それ程の求心力が、魅力が、今の創価に果たしてあるのかと?内部にいたって、損する事ばかりではないのか?いるだけ損ではないのか?
 戸田先生逝去後の、当時の創価学会と、今現代の池田創価は、理念から、その生い立ち、お金の集め方、信者の取り扱い方まで、真逆になっている。今の扱い方は、信者に対して、最悪ではないのか?とても、一人を大切、大事にする創価、とは言えまい。創価得意の、互助会的制度も、超高齢化、官僚化ビューロクラシーにより、消滅化している。
 果たして、どうなるか。Xデーも、いつになるやら。高みの見物。左うちわで、事の移り変わりを、世の趨勢を、私としても、かつて創価学会員だった、ケジメとして、一つの成り行きのきっかけ、結論、落とし所はどこか、どこがどうなんだと、どうなるんだと、まじまじと、見詰めている。
 分派分裂的行動等も、創価自身、有り得るかも知れぬ。今はどうなるか。海のモノとも、山のモノとも、判らないが。
 そこが日蓮正宗信徒としての、着眼点、注目、耳目を集める、一つのところ、といった所である。(一種の野次馬根性的色彩も、一つの、一人の人間、悪党、巨悪の最期を見たい、という、結果を追い掛けてみたいと言う、願望も手伝う。敵対する謗法の中の大謗法の、悪徳宗教団体の邪教・創価のトップの生死、消滅が味わえる。正宗信徒にとれば、一種の仇討ち、壮大なる、悲劇の終焉、ドラマの最期・終幕、エンターテイメント、お祭り、ともいえる。言っちゃ悪いが。それだけ、見苦しくも、張本人のえばり腐った彼、池田氏本人には、こちら側もあちら側の人間両方共に、巻き込まれ、ぐちゃぐちゃ、ぐだぐだにされて、悲惨な戦いを強いられ、付き合わされた、多くの人を不幸に突き落として巻き込んだ、ただ、その結末の、責任を、彼にはとってもらいたい、絶対に。それだけです。言いたかった事は。皆、誰もが、それらを、金輪際、終わりにしたいと、本来ならば、人の心を持っている人種ならば、必ず、思っている筈ですよ。)。

以上。よしなに。wainai