正しい食事を考える会

食が乱れている中どういう食事が正しいのかをみんなで考え、それを実践する方法を考える会にしたいと思います。

お米の歴史ー1.稲作伝来

2009-09-29 | Weblog
 米はプラマプトラ川やメコン川、揚子江の上流域、アッサム(インド北端)雲南(中国南部)の丘陵地帯が稲の起源といわれていますが、揚子江下流の河姆渡遺跡から7000年前の米が出土していますので、まだ定説はありません。

  米はどの様なルートで渡来したかは3ルートの説が有りますが、はっきりはしていません。しかし渡来して最初に定着したのは九州北部といわれています。

 その起源は紀元前300年に始まる弥生式時代以前の縄文時代末期と推定されるようになりました。今から2400~2500年前に九州北部に本格的に渡来した稲作は、驚異的なスピードをもって本州を東北に縦断する形で各地に伝播していきました。

 二つの国内伝播ルートによる稲作がそれぞれ北上して青森県に達するのに200年を要しなかったと見られています。

 こんなに早いスピードで本州北端まで伝播したということは重要な意味があります。
①日本列島の風土的条件と稲作との親和性です。稲は元来アジアモンスーン地帯の食物ですが、日本列島はモンスーン圏の東北端に位置しています。日本の壌土も稲作に向いた珪酸質土壌の分布が多いのです。

②もう一つの重要な意味合いは、先住縄文人と稲をもたらした外来人との親和性です。先住民族の縄文人は、縄文時代末期には既に狩猟・採集のかたわら雑穀類の栽培を手がけていたのですが、外来人と稲作文化に対して、むろん一部に葛藤はあったにせよ、大きな受容力を示したのです。

 縄文人は外来人との急激な混血によって、それまでの形質が短期間で大転換し背丈が高くなり、面長な顔立ちの頭骨をもつ弥生人型にかわっています。

 その後の日本人の歴史においても、外来文化に対する受容力の豊かさが示されていますが、その原点を縄文人の渡来してきた稲作文化への対応に見ることが出来るようです。

 テレビの何の番組か忘れましたが、アジアモンスーンはどうして起きるのか、ということで、たまたまヒマラヤ山脈が有ったので、偏西風がヒマラヤの為に南北に分かれその後分かれた風が日本辺りで合うとこれが雨前線となって雨がよく降るようになっているということです。

 緯度的には日本の位置は砂漠が多いところですが、たまたまヒマラヤが有ったので、アジアモンスーン地帯になっているということです。これは神様のお恵みと言えます。お陰で日本は山には木々が満ちあふれ、水に満ち、穀物の王様と言える稲作に恵まれ、海に恵まれ、海産物に恵まれ、四季にがあり季節の変化があり、日本って素晴らしい国と言えます。


 縄文末期には狩猟・採集のかたわら雑穀類の栽培を手がけていたようですが、食は十分では有りませんでした。この縄文人にごはんを食べさせたら何と言うでしょう。
絶対に「うまい!、これは何んだ、どうして作るんだ」というはずです。お米は美味しい穀物で、生産効率もよく、日本人のご先祖さまはお米を主食に選んだのです。

これが「お米の初心」と思います。
現代日本人はこの「お米の初心」を忘れかけていると思います。 

 イマジンしてみて下さい。先住縄文人がお米を食べ、これを主食にしようとした時のことを、それ以来日本人の先祖は如何にお米の生産を上げるかに腐心して行くのです。

 品種改良、土地の開墾、生産方法の研究・・・このように研究して主食になったお米を、現代日本人は廃棄するがのごとき処遇をして、輸入食品である小麦に心を奪われています。

 お陰でお米の消費は減少し、生産調整(田んぼで田植えをしないで放置する)をしても、お米は過剰で、お米の価格は安くなり、お米を生産する農業をする人は少なくなり、日本が必要とする穀物量のおよそ30%しか日本で手当できないという状況になっています。世界の129カ国の120番目くらいと言う状態です。

 食料自給率も40%と世界の笑いものになるほど低いのです。故こんなになってしまったのか、これで良いのか、

 戦争前では、日本で生産するお米では足りませんでした。そのため朝鮮や台湾から移入(日本の外地からの輸送)しなければなりませんでした。

 戦争中、戦後もお米は不足し、腹一杯ごはんを食べることは国民の願いでした。 
そんなお米が今日本では冷たく扱われています。

その原因を研究する必要が有ります。 





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