記憶から欠落していて、こんな話だったっけ?と戸惑うほどの、たくさんの性描写(性交だったりマスターベーションだったり手や口だったり)をガブガブと読んでいるうちに、人間を含む生き物の原形は「管」だ、という言葉を思い出した。食べ物を取り入れ、排出する1本の管。(福岡新一氏の著書だったと思うのだけど定かではありません)
食べ物を食べる、という行為はそれが他人の行動であっても、目にすると即座に脳が活性化する、というミラーニューロンの仕組み。こちらは茂木健一郎さんの講演会&著書で知った。それと同様に、性行為に関してもミラーニューロンは関与してるのだろうか?そんなことを考えつつ。
読み手はそこでどうしても反応してしまう、それを狙ってるのだろうか?だったら成功している&村上表現の術中にはまってる、と認めます(『1Q84』ではシチュエーションが通常ではありえないので、ゲーム感覚になってしまうのだ、と思う。脳が想像のセックスだけで満足できるのもある種の可能性かもしれませんが、なんというか社会全体の生命感は欠如していく気がする。もしくは想像の暴走が暴力になったり。・・・ってそれはまた別の話)
「でも彼の場合相手の女の数が増えれば増えるほど、そのひとつひとつの行為の持つ意味はどんどん薄まっていくわけだし、それがすなわちあの男の求めてることだと思うんだ」「それがストイックなの?」直子が訊ねた。「彼にとってはね」(P200)
上記で語られている永沢さんだけでなく、主人公の僕=ワタナベ君もまた永沢さんと組んで、好きな子はもちろん、好きでもなんでもない女の子、行きずりの女の子とも自分が求めるままにセックスしていて、「どうしてもそれが必要だったから(相手にとっても)」という考え方で、いまいち納得しかねる部分があるのだけど(特に最後のレイコさんとのある種の穢れ落しのようなセックスは蛇足に過ぎると思う。まぁ、個人差の範疇かもしれないケド・・・)
それでも、なぜか読後感にとてもストイックでプラトニックな感覚が残る。まさにそのひとつひとつの行為の持つ意味はどんどん薄まっているのかもしれない。あまりにもさらりと語られる性描写が、「想う」だけの時間を限りなくプラトニックに感じさせる。直子との&緑とのセックスを我慢する“僕”が限りなくストイックに印象づけられる。ネガポジのように。
そう、だから私は長い間ずっと『ノルウェイの森』はストイックでプラトニックな小説だと思っていたんだ、と気がついた。そしてその印象は、再読が終った今もその印象のまま更新された。不思議だけど、読後感は夏の陽射しのようにまっすぐで、秋の紅葉のように切なく、雪山のように済みきって、春の風のように優しいのだった。
・・・性描写にまみれてたはずなのに、なんともシャクな話だけど・・・。
で、ワタナベ君のシチュエーションが異なるさまざまな女の子(名前すら与えられず
「女の子たち」と一般名詞にまとめられてしまう子たち含め)とのセックスを読みながら、村上春樹にとってセックスは生殖行為ではないんだな、という印象をより深めた。そしてそれらは登場人物にとってものすごくヘヴィでシリアスに意味があるものと、まったく意味がないものに区別されている、明確に。
後者は、よく言うようなスポーツ感覚に近いのだろうか?それとも肉体的な感覚器官の可能性を試す、というものなのか?まさに「女の子と寝た、とても簡単だった」(P78)としか言いようのない(でも個人としてはそれなりに必然性のある)行為。喫煙や飲酒と同じような手軽な嗜好のような。そして前者は「禊」であったり「お祓い」であったり、なんだかかえって肉欲否定な印象を残す。
でもこれは本当に何でもないことなんだ。どちらでもいいことなんだ。だってこれは体のまじわりにすぎないんだ。我々はお互いの不完全な体を触れあわせることでしか語ることのできないことを語り合ってるだけなんだ。こうすることで僕らはそれぞれの不完全さをわかちあっているんだよ、と。
食欲と性欲(&排泄・・・って欲求なのかな?)は
人間の原形だからプレーン度=100%感が高いのかもしれない。
(あくまで1人の作者の1つの作品への感想としてですが)
まったく別の視点から見ると、
まだ社会に対し自分のポジションを持っていない「学生時代」を「管」として
入ってくるものとでていくもの、
大学闘争や就職(社会との折りあい含め)やなんやかや。
つまり世間的に“大人になる”ということと
その(ネオテニーな)葛藤を描いた青春本。
そしてだからこその100%の恋愛、そういう感想も持ちつつ。
■BOOK MARK POINT
〈上〉
日常生活というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろうが、それほどたいした違いはないのだ(p22)
大学は解体なんかしなかった。大学には大量の資本が投下されているし、そんなものが学生が暴れたくらいでえ「はい、そうですか」とおとなしく解体されるわけがないのだ。そして大学をバリケード封鎖した連中も本当に大学を解体したいなんて思っていたわけではなかった。(P87)
この連中の真の敵は国家権力ではなく想像力の欠如だろうと僕は思った。(P106)
「紳士であることって、どういうことなんですか?もし定義があるなら教えてもらえませんか」
「自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」(P103)
「女の子にはね、そういうのがものすごく大切な時があるのよ」(P141)
たぶん何が美しいとかどうすれば幸せになれるかというのは私にとってはとても面倒でいりくんだ命題なので、つい他の基準にすがりついてしまうわけです。たとえば公正であるかとか、正直であるかとか、普遍的であるかとかね。(P156)
●180人分の生理用ナプキンを焼いている煙(P109)
●小林書店(P118~P121)
●料理する緑と食後の会話と水仙(P122~P128)
●『なにもない』という歌(ちなみに今読むと時効警察の名曲「しゃくなげの花」が浮かびます)
●阿美寮までの道行き(P165~P168)
〈下〉
現実の世界では人はみんないろんなものを押し付けあって生きているから(P46)
ねぇ、私にはわかっているのよ。私は庶民だから。革命が起きようが起きまいが、庶民というのはロクでもないところでぼちぼちと生きていくしかないんだってことが。革命が何よ?そんなの役所の名前が変わるだけじゃない。(P60~P61)
口でなんてなんとでも言えるのよ。大事なのはウンコをかたづけるかかたづけないかなのよ。(P72)
「あれは努力じゃなくてただの労働だ」と長沢さんは簡単に言った。「俺の言う努力というのはそういうのじゃない。努力というのはもっと主体的に目的的になされるもののことだ」(P100)
「人が誰かを理解するのはしかるべき時期が来たからであって、その誰かが相手に理解してほしいと望んだからではない」(P113)
それくらい確信を持って誰かを愛するというのはきっと素晴らしいことなんでしょうね(P125)
「僕も時々そう思うよ。まぁ俺でもいいやって」(P148)
「自分に同情するな」と彼は言った。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」(P167)
「大人になったからだよ」と僕は言った(P180)
●僕と緑のお父さんとキウリ(P74~P83)
●春の熊(P152)
●「車輪の下」(P153~P154)
●日本橋高島屋の食堂&屋上(P199~P201)
リアルでは(実は)なかなか実現しないもしくは出会うことのない現実。
それが絶妙なスパイス。「あ、こんなかくし味が!」みたいな感じで。
材料の収穫のタイミングと調理の仕方と味つけの
絶妙なハーモニーが、村上春樹の物語力なのだと思う。
もしくは、普通の風景を切り取りながら、そこにありえない要素を
紛れ込ませる。それが村上春樹の世界力なのだと思う。
&I LOVE IT
一人称小説として「僕」の視点で見せられるせいもあって、直子やレイコさんのような、本人いわく“歪んだ”存在の方がまともに思える。そしてそういう存在を守りたいと思う。ただ本人たちはその歪みに耐えきれない。そして直子は歪みの中で命を断つ。この物語では、4人の人間がそうして社会=歪んだ現実を出ていってしまう。
歪んだ社会を今まで生き残ってきた読者の1人としては、直子は(極めて特殊なシチュエーションではあるが)弱すぎるし、自分を整えることで精一杯な狭量さがしんどくなってくる。そのしんどさを引き受けようとするワタナベ君が無謀にも見える。そうした若さのエゴのさりげない暴走が、きちんと物語としてまとまっているのは凄いと思う。
そして、そういう世界に置かれた緑の配置が絶妙。緑がワタナベ君を好きになるのは、実はその背後に直子の影があるからこそ、で、ワタナベ君が緑を好きになるのもまた直子の重さがあるからこそ、で。100%の恋愛は、あらかじめ引き算がなされているからこそ成立しているのだ、とも思う。
そこに大学闘争とか、同世代の社会に対する作者の“本音(もしくは評価)”がちりばめられていて、重低音を奏でている。
そういう意味では『ノルウェイの森』は特定年齢にとっては同時代〈青春〉文学であり、別世代にとってはファンタジーだといえるかもしれない(中国の風景画の実写が、その風景を見たことのない人には想像画に見えるように)。
ある種の優しさは、ある種の諦めや無関心から来る場合もある。60年代文学の多くはどこか優しくか弱く、そして歪んでいる。『ノルウェイの森』の「歪み」は、時代のひずみを写し取ったものだと思うが、それは段々ファンタジー(そしてノスタルルジーもしくはフォークロア)になっていくのかもしれない。
食べ物を食べる、という行為はそれが他人の行動であっても、目にすると即座に脳が活性化する、というミラーニューロンの仕組み。こちらは茂木健一郎さんの講演会&著書で知った。それと同様に、性行為に関してもミラーニューロンは関与してるのだろうか?そんなことを考えつつ。
読み手はそこでどうしても反応してしまう、それを狙ってるのだろうか?だったら成功している&村上表現の術中にはまってる、と認めます(『1Q84』ではシチュエーションが通常ではありえないので、ゲーム感覚になってしまうのだ、と思う。脳が想像のセックスだけで満足できるのもある種の可能性かもしれませんが、なんというか社会全体の生命感は欠如していく気がする。もしくは想像の暴走が暴力になったり。・・・ってそれはまた別の話)
「でも彼の場合相手の女の数が増えれば増えるほど、そのひとつひとつの行為の持つ意味はどんどん薄まっていくわけだし、それがすなわちあの男の求めてることだと思うんだ」「それがストイックなの?」直子が訊ねた。「彼にとってはね」(P200)
上記で語られている永沢さんだけでなく、主人公の僕=ワタナベ君もまた永沢さんと組んで、好きな子はもちろん、好きでもなんでもない女の子、行きずりの女の子とも自分が求めるままにセックスしていて、「どうしてもそれが必要だったから(相手にとっても)」という考え方で、いまいち納得しかねる部分があるのだけど(特に最後のレイコさんとのある種の穢れ落しのようなセックスは蛇足に過ぎると思う。まぁ、個人差の範疇かもしれないケド・・・)
それでも、なぜか読後感にとてもストイックでプラトニックな感覚が残る。まさにそのひとつひとつの行為の持つ意味はどんどん薄まっているのかもしれない。あまりにもさらりと語られる性描写が、「想う」だけの時間を限りなくプラトニックに感じさせる。直子との&緑とのセックスを我慢する“僕”が限りなくストイックに印象づけられる。ネガポジのように。
そう、だから私は長い間ずっと『ノルウェイの森』はストイックでプラトニックな小説だと思っていたんだ、と気がついた。そしてその印象は、再読が終った今もその印象のまま更新された。不思議だけど、読後感は夏の陽射しのようにまっすぐで、秋の紅葉のように切なく、雪山のように済みきって、春の風のように優しいのだった。
・・・性描写にまみれてたはずなのに、なんともシャクな話だけど・・・。
で、ワタナベ君のシチュエーションが異なるさまざまな女の子(名前すら与えられず
「女の子たち」と一般名詞にまとめられてしまう子たち含め)とのセックスを読みながら、村上春樹にとってセックスは生殖行為ではないんだな、という印象をより深めた。そしてそれらは登場人物にとってものすごくヘヴィでシリアスに意味があるものと、まったく意味がないものに区別されている、明確に。
後者は、よく言うようなスポーツ感覚に近いのだろうか?それとも肉体的な感覚器官の可能性を試す、というものなのか?まさに「女の子と寝た、とても簡単だった」(P78)としか言いようのない(でも個人としてはそれなりに必然性のある)行為。喫煙や飲酒と同じような手軽な嗜好のような。そして前者は「禊」であったり「お祓い」であったり、なんだかかえって肉欲否定な印象を残す。
でもこれは本当に何でもないことなんだ。どちらでもいいことなんだ。だってこれは体のまじわりにすぎないんだ。我々はお互いの不完全な体を触れあわせることでしか語ることのできないことを語り合ってるだけなんだ。こうすることで僕らはそれぞれの不完全さをわかちあっているんだよ、と。
食欲と性欲(&排泄・・・って欲求なのかな?)は
人間の原形だからプレーン度=100%感が高いのかもしれない。
(あくまで1人の作者の1つの作品への感想としてですが)
まったく別の視点から見ると、
まだ社会に対し自分のポジションを持っていない「学生時代」を「管」として
入ってくるものとでていくもの、
大学闘争や就職(社会との折りあい含め)やなんやかや。
つまり世間的に“大人になる”ということと
その(ネオテニーな)葛藤を描いた青春本。
そしてだからこその100%の恋愛、そういう感想も持ちつつ。
■BOOK MARK POINT
〈上〉
日常生活というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろうが、それほどたいした違いはないのだ(p22)
大学は解体なんかしなかった。大学には大量の資本が投下されているし、そんなものが学生が暴れたくらいでえ「はい、そうですか」とおとなしく解体されるわけがないのだ。そして大学をバリケード封鎖した連中も本当に大学を解体したいなんて思っていたわけではなかった。(P87)
この連中の真の敵は国家権力ではなく想像力の欠如だろうと僕は思った。(P106)
「紳士であることって、どういうことなんですか?もし定義があるなら教えてもらえませんか」
「自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」(P103)
「女の子にはね、そういうのがものすごく大切な時があるのよ」(P141)
たぶん何が美しいとかどうすれば幸せになれるかというのは私にとってはとても面倒でいりくんだ命題なので、つい他の基準にすがりついてしまうわけです。たとえば公正であるかとか、正直であるかとか、普遍的であるかとかね。(P156)
●180人分の生理用ナプキンを焼いている煙(P109)
●小林書店(P118~P121)
●料理する緑と食後の会話と水仙(P122~P128)
●『なにもない』という歌(ちなみに今読むと時効警察の名曲「しゃくなげの花」が浮かびます)
●阿美寮までの道行き(P165~P168)
〈下〉
現実の世界では人はみんないろんなものを押し付けあって生きているから(P46)
ねぇ、私にはわかっているのよ。私は庶民だから。革命が起きようが起きまいが、庶民というのはロクでもないところでぼちぼちと生きていくしかないんだってことが。革命が何よ?そんなの役所の名前が変わるだけじゃない。(P60~P61)
口でなんてなんとでも言えるのよ。大事なのはウンコをかたづけるかかたづけないかなのよ。(P72)
「あれは努力じゃなくてただの労働だ」と長沢さんは簡単に言った。「俺の言う努力というのはそういうのじゃない。努力というのはもっと主体的に目的的になされるもののことだ」(P100)
「人が誰かを理解するのはしかるべき時期が来たからであって、その誰かが相手に理解してほしいと望んだからではない」(P113)
それくらい確信を持って誰かを愛するというのはきっと素晴らしいことなんでしょうね(P125)
「僕も時々そう思うよ。まぁ俺でもいいやって」(P148)
「自分に同情するな」と彼は言った。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」(P167)
「大人になったからだよ」と僕は言った(P180)
●僕と緑のお父さんとキウリ(P74~P83)
●春の熊(P152)
●「車輪の下」(P153~P154)
●日本橋高島屋の食堂&屋上(P199~P201)
リアルでは(実は)なかなか実現しないもしくは出会うことのない現実。
それが絶妙なスパイス。「あ、こんなかくし味が!」みたいな感じで。
材料の収穫のタイミングと調理の仕方と味つけの
絶妙なハーモニーが、村上春樹の物語力なのだと思う。
もしくは、普通の風景を切り取りながら、そこにありえない要素を
紛れ込ませる。それが村上春樹の世界力なのだと思う。
&I LOVE IT
一人称小説として「僕」の視点で見せられるせいもあって、直子やレイコさんのような、本人いわく“歪んだ”存在の方がまともに思える。そしてそういう存在を守りたいと思う。ただ本人たちはその歪みに耐えきれない。そして直子は歪みの中で命を断つ。この物語では、4人の人間がそうして社会=歪んだ現実を出ていってしまう。
歪んだ社会を今まで生き残ってきた読者の1人としては、直子は(極めて特殊なシチュエーションではあるが)弱すぎるし、自分を整えることで精一杯な狭量さがしんどくなってくる。そのしんどさを引き受けようとするワタナベ君が無謀にも見える。そうした若さのエゴのさりげない暴走が、きちんと物語としてまとまっているのは凄いと思う。
そして、そういう世界に置かれた緑の配置が絶妙。緑がワタナベ君を好きになるのは、実はその背後に直子の影があるからこそ、で、ワタナベ君が緑を好きになるのもまた直子の重さがあるからこそ、で。100%の恋愛は、あらかじめ引き算がなされているからこそ成立しているのだ、とも思う。
そこに大学闘争とか、同世代の社会に対する作者の“本音(もしくは評価)”がちりばめられていて、重低音を奏でている。
そういう意味では『ノルウェイの森』は特定年齢にとっては同時代〈青春〉文学であり、別世代にとってはファンタジーだといえるかもしれない(中国の風景画の実写が、その風景を見たことのない人には想像画に見えるように)。
ある種の優しさは、ある種の諦めや無関心から来る場合もある。60年代文学の多くはどこか優しくか弱く、そして歪んでいる。『ノルウェイの森』の「歪み」は、時代のひずみを写し取ったものだと思うが、それは段々ファンタジー(そしてノスタルルジーもしくはフォークロア)になっていくのかもしれない。
“命を生み出す”為の行為ではなく“ゆっくりと磨り減らす”行為のようで、「素敵だ」という言葉は出てくるけど、そこに「喜び」はほとんど見えない。
むしろ村上作品の中では“手を握る・触れる”行為のほうが本来のセックスの役目を果たしている気がします。喜びと安心と体温。
あんまり関係ないけど、僕は短編の『午後の最後の芝生』なんかは、性描写出てこないんだけど、もの凄くヤった後のもわぁっとした感覚を受けました。なぜか。
ただ、それ(=なんともいえない後味)が意図されているのなら(そして意図されているのでしょうね)物語は成功していると思います。
>“命を生み出す”為の行為ではなく“ゆっくりと磨り減らす”行為
あぁ、その表現はすごくしっくりきます。
特に(自分が女だからかもしれないケド)女性の描かれ方がいつもなんだかすごく切ないなぁ、と思います。うーむ、全然楽しそうじゃないよなぁ、と。2人でいるのにどこまでもどこまでも独りみたいな感じ。
おなじ繋がる行為だけど、“手を握る・触れる”のほうが相手に対してより自覚的な感じもします。そしてだからプラトニックな印象が残るのかも。
『午後の最後の芝生』は芝生をきっちりと刈る主人公と芝生感と日だまり感が素敵で大好きな作品ですが、そうなのかー。
一度男性になって(15歳になって)読んでみたい作家です(←マジ!。
村上氏がカフカ賞の受賞式で「僕は自分を咬んだり刺したりするような本だけを読むべきだと思う。本とは僕らの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。この言葉は私の書く本を正確に定義づけています」といっていました。
そういう意味ではノルウェーの森は能天気な私の心を刺したのだろうと思います。
緑の父の病室でのキウイとキュウリの会話ははっきり覚えています。話の筋は忘れても、ああいう細部は覚えているものですね。
私は人とは少しとらえ方が違うのかも知りませんが村上春樹の長編はヒーローものだと思っています。弱くて誰も救えないかも知れない、そして本人も何をしているのかはっきりわかっていない、たたけば壊れる生の人間としての。ワタナベ君のドタバタはもしかしたらそうなのかも知れない。
ノルウェーの森をいつか再読してみようという気になりました。今読んだらだいぶ違うんでしょうね。
ps ササミうまかったですよ。
>「僕は自分を咬んだり刺したりするような本だけを読むべきだと思う。」
おお~、なかなかタフな読者であらねばなりませんね!
タフな作家である春樹氏らしい。
でも確かに、私も毎回しっかり咬まれたり刺されたりしているようです。
本を読むことでなにか自分の世界が変わらなければ、
言い換えれば、誰かの世界を変えなければ、その本の存在意義はないのかも。
(これは『1Q84』のテーマだとも思います)
>村上春樹の長編はヒーローもの
それはとても興味深い視点だと思いますし、強く共感!
『1Q84』は多重構造の救世主の物語だ、と感じているのですが
確かに『ノルウェイの森』もまたヒーローものとしての側面を持ちますね。
読むべき本がたくさんあると、なかなか再読まで手がまわらないでしょうが、
村上春樹の再読はちょっといいかも、です。
苦手意識のあった『海辺のカフカ』を再読したら、全然別の感慨が沸き起こって、涙まで流したりして、我ながら「なんなんだ?@@;;」という感じです。村上春樹、おそるべし。
ps ササミ楽しんでいただけたようでよかったです♪
映画に向けて頑張ってくださいー!!
中盤を超えると読みやすい、と思います。