住みたい習志野

市内の情報を中心に掲載します。伝わりにくい情報も提供して行きます。

鷺沼飛行場から飛び立ち、谷津遊園先に舞い降りたパラシュート・ガール(読者情報)

2020-09-25 11:12:36 | 歴史
 

鷺沼飛行場から飛び立ち、谷津遊園先に舞い降りたパラシュート・ガール

9月10日のブログ記事

鷺沼海岸に飛行場があった!日本民間航空の開拓者「伊藤音次郎」(投稿) - 住みたい習志野

について、ブログ読者の方から、以下の情報をお寄せいただきました。

NHK「雲のじゅうたん」、動画を見ることができます

 長谷川先生の伊藤音次郎の記事の中で、鷺沼飛行場で活躍した兵頭精(ひょうどうただし)さんが、NHK「雲のじゅうたん」のヒロインのモデルになった、という記事がありましたが、動画を見ることができます。(下の画面をクリックし、出てきたテレビ画面の右下の矢印をクリックしてご覧ください。)

連続テレビ小説 雲のじゅうたん

大正から昭和にかけて秋田と東京を舞台に、「鳥のように自由に飛びたい」という夢を追いかけ飛行士になった・・・

テレビ60年 特選コレクション | NHKアーカイブス

 

鷺沼の飛行場で活躍した「パラシュート・ガール」宮森美代子さんも習志野ゆかりの人物です

 会津出身の女性、宮森美代子さんは、今でいう女性スカイダイバー。昭和6年3月6日、津田沼町鷺沼の伊藤飛行場から黄色いサルムソン機に乗り、高度500mから飛び降りて谷津遊園先の砂地に着地、見事に成功した。当時19歳、「パラシュート・ガール」「空の女王」と呼ばれ、以後、全国各地で降下ショーを見せた。

http://www.webmodelers.com/201706katoucolumn.html

(宮森さん、足袋(たび)の宣伝ポスターにも使われました)

(「東京朝日新聞」1931.3.7)の記事

午後零時、全ての準備が成った。美代子さんは全ての見物人から期せずして起こる歓呼の声に送られて機上の人となり、奥山飛行士の操縦で機は磯浜を蹴って勇ましく離陸した。見物人はもう夢中になって機の行方を見つめる。機は大きく右に旋回して飛行場の上で高度をとって行く。三百-四百-五百メートル、かくて場の中央の空を通過すると見る内パッと飛び出した黒い一塊り、美代子さんが機から飛び出したのだ!弾丸の如く落ちるよと思ふ瞬間パラシュートはパッと白く大きく開いて、彼女の体をフワリと支えた。この時飛行場は息詰るやうな緊張が一度に破れて「アッ開いた!」と素晴らしい熱狂、観衆は我を忘れて躍り上がって喜び騒ぐ。そのうちパラシュートはフハリフハリと見事に谷津遊園海岸の砂上に降下した。時に午後零時十分、大地に降りた美代子さんは勇敢にも起き上がって歩きだした。ドッと起こる歓呼の聲!この時若きパラシューターの上に「日本一」の栄冠が輝いた。見ていた人はもう寄って集まって胴上げすること十分間も続いた。
 (美代子さんは記者の質問に次のように答えています。)
別にこわいとも思っていませんでした。科学を信頼していましたから。でも始めてですから十分に注意しました。飛降りた瞬間パラシュートが開いたのであとは別に恐怖心もなくフハリフハリと良い気持ちで降りて来ました。

 

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公民館の「文部大臣賞表彰状」が行方不明!元に戻してください!

2020-09-24 00:13:51 | 公共施設統廃合問題

公民館の「文部大臣賞表彰状」、ゴミとして捨てられてしまった? 何故?

大久保公民館(現「中央公民館」)の文科大臣賞表彰状は「ゴミ」として処分されてしまった?

 大久保公民館(現「中央公民館」)は文部科学大臣賞を受賞し、その表彰状は事務室の入り口に他の賞状と一緒に掲げてありました。ところが!それらを、大久保公民館を解体し「プラッツ習志野」に建て替えたときに処分した、と聞きました。粗大ゴミとして処分してしまった、というのです。

 「プラッツ習志野」ができ、大久保公民館が中央公民館と名前を変えたからでしょうか?今までのような市の運営でなく、業者に任せる指定管理になったからでしょうか?
 その賞状はただの紙切れではありません。大久保公民館が半世紀以上市民と共に活動し、地域の文化を高め、その輝かしい歴史と実績を証明する証(あかし)なのです。学校では栄誉なこととして、表彰状やトロフィーを校長室や玄関に掲げてあります。それなのに大久保公民館の表彰状は「処分」されてしまった!ショックです。涙があふれます。

菊田公民館の文部大臣賞表彰状も行方不明! 何処に?

 今年の初夏、コピー機を使わせてもらうため菊田公民館に行きましたら、永井道夫(当時の文部大臣)書の文部大臣表彰状がありませんでした。公民館の職員の方に聞きましたら、「誰がいつ、どこに片づけたかわからない。調べます」と言ってはいましたが、2か月たっても連絡がありません。  
 受賞(昭和50年)当時は、4階にあるホール右側の「文教住宅都市憲章」の額の隣に誇らしげに掲げられていました。その後なぜか公民館の事務室に移され、去年あたりまで見た記憶があるのですが、今はなく、標語らしきプレートと入れ替わっていました。事務室内ですから市民の皆様の目に触れる機会は多くなかったでしょうが…

 菊田公民館は昭和46年設置、本格的な社会教育施設として学習機能が備わった公民館、事業内容(講師陣も含めて)、利用者数、職員数(社会教育主事含む)その他総合判断で高く評価され、昭和50年11月3日に文部大臣賞を受賞したのです。うれしい受賞でした。皆さんと噛みしめました。当時の市長は吉野孝氏で、「1中学校区1公民館」の計画を立案し、その通り実施しました。聞けば吉野市長は以前に社会教育委員をおやりになったことがあった、とか。熱の入れ方はその後の市長の方たちとは違っており、受賞を大変喜んでくださいました。

 習志野市の公民館は7館あり、そのうち2館が大臣賞を受賞。1つの市で2館が受賞する、というのは全国的にもまれなことです。

(行方不明になっている、菊田公民館の文部大臣賞表彰状)

(永井文部大臣から賞状を受け取る中村菊田公民館長(当時))

(受賞時の新聞報道)


ショックです。なぜ菊田公民館も大久保公民館も表彰状がないのでしょう?

 公民館は市民の財産であり誇りです。習志野の公民館は素晴らしい学習活動、芸術文化活動を国、県内外に評価されてきました。常に市民と一体で、どの館も活発で生き生きしていました。参加者も多く、もう1館あっても良いほどでした。

 習志野市の教育発祥の地は津田沼です。津田沼の歴史を見つづけてきた銀杏(いちょう)の木がある公園と菊田公民館、菊田保育所は、共に数えきれないほどの多くの人を育ててきました。国際児童年(1979年)をきっかけに始まった「きくたこどもまつり」も、毎年大にぎわいです。私も学び育てられたうちの一人です。素晴らしい多くの出会いがあり、公民館には感謝しきれません。

(菊田保育所跡地に建設中だった時の菊田公民館)

(きくたこどもまつり)

(公民館「寿学級」の合同運動会)

(公民館の童謡サークル「赤い鳥」の来園に、「白鷺園」のお年寄りたちが大喜び)

(菊田公民館婦人学級手作りの「ひとりひとり」創刊号)



述懐と提案

 「(プラッツ習志野の)公民館棟に中央公民館の事務室を」と5年間折衝(せっしょう)を続けてきました。
 公民館事務室は、普通どこでも公民館の入口の近くにあります。人の出入りも確認でき、利用者の相談にもすぐ対応できるようになっているからです。ところが、「プラッツ習志野」では、公民館事務室が公民館棟になく反対側の図書館棟の奥、利用者の目にふれない所にある「秘密の部屋」に、図書館職員と公民館職員が同居している、という「異様な」構造になっています。その結果、公民館利用者が「館長の顔を見たことがない」というおかしなことになり、

➀公民館利用者が館長や職員の方に相談や手続きをしたい場合、まず図書館棟まで行って⇒カウンターの職員の方に「館長や職員の方と直接お話したい」とお願いし⇒誰も見ることができない奥の公民館事務室(兼図書館事務室)から呼び出してきてもらう、という何重ものハードルを越えなければなりません。ほかの公民館ではあり得ないことです。

➁一方公民館棟には事務室がないので、利用者の出入りも、不審者の出入りも、公民館職員は、離れた図書館棟にいるので全く確認できない、という防犯上の大問題も抱えています。 

 「プラッツ習志野」では当り前のことが当たり前のこととして通らない。このことに深い疑念をもっております。

 8月6日に開かれた出前講座(市の職員に「出前」で公民館などに来てもらい、市民と市の職員が意見交換する制度)での市の担当者の説明は、「公民館事務室と図書館事務室が同じ場所にあることがより良い効果を得る」でした。それは、現場を知らない苦し紛れの回答、机上の空論だと思います。公民館事務室と図書館事務室は同室ではなく、お互い別々が何よりです。動(公民館)と静(図書館)で真逆なのです。

 図書館に間借りしていては、公民館は仕事にならないのです。文化祭の時の公民館にお連れしたいです。公民館事務室はごった返して戦争のようです。今年はコロナで文化祭は中止、来年の芸術文化祭も開催不可能かもしれないので、経験のない人には事務室がどのような状況になるか理解できないでしょうが…
 図書館職員が、同じ事務室の中でバタバタしている公民館職員に「静かにしろ!」と文句を言わないにしても、図書館職員に迷惑をかけるのは明白です。

公民館内に事務室を!

 公民館・市民ホール棟にあるフューチャーセンターの方に公民館事務室を移せばいいと思います。(もともとの計画では、調理室を、このフューチャーセンターの場所に作る予定でしたが、「同じフロアの市民ホールでコンサートを聞いている時に、カレーのにおいがしてくる、なんておかしい」という声が起こり、調理室は3階に移され、その空いたスペースがフューチャーセンターとされました)プラッツ習志野と中央公民館が一緒になればいいと思います。今はお互い別々で、市民にとっても非常にわかりにくい状況です。両者が事業をどう進めるか、現在の重要課題ではないでしょうか?

 サークルの問題も多々あります。声を出していかないと解決しません。
 長年大久保公民館、図書館に勤務した者として深く考えます。

 先ほども述べましたが、図書館棟2階の「誰からも見られない秘密の部屋」に、図書館職員用の机と公民館職員用の机が並んでいます。約20の机が2グループに分けられ、それぞれ公民館用、図書館用として使われています。公民館の館長や職員と話すには、すべて総合受付(図書館受付と公民館受付が同じ場所にある)を通さなければならず、事故や災害が発生した場合、対応の遅れで被害が倍になってしまいます。利用者の要望や相談に直接対応できず、本来の事務室とは言えません。

 繰り返しになりますが、総合受付の後ろの方に扉があり、その奥に事務室があるのです。利用者からは事務室が見えず、事務室からも利用者が見えない。利用者と職員の交流もない。これでは困ります。
 公民館は地域コミュニティーの核です。公民館事務室は常に開放され、絶えず市民と接点を持ち、対話、相談、打ち合わせ、質問、要望に応えなければならない心臓部です。図書館棟にあるのでは仕事にならない。今の中央公民館(旧「大久保公民館」)の在り方は前代未聞、とだれもが言っています。

 文部大臣や文科大臣の表彰状廃棄、行方不明事件も、こうした今の在り方の中から起こるべくして起こった、と言えるのではないでしょうか?
(以上、ブログ読者Nさんからお寄せ頂いたご意見の一部です)



(編集部より)

国の公文書管理の杜撰(ずさん)さが大問題になっていますが、文部大臣賞表彰状を捨ててしまう、などという不祥事は見たことも聞いたこともありません。どう責任をとるつもりなんでしょうか?

公文書を軽視 意識低い行政 - Yahoo!ニュース

習志野市の「公共施設再生計画」は多くの問題を抱え、全国から批判の声が上がっています。長澤成次著「公民館はだれのもの」という本でも習志野市が以下のように取り上げられています。

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忘れてはならぬ「負の歴史」関東大震災後の朝鮮人虐殺(9月23日付東京新聞)

2020-09-23 09:21:19 | 報道

(9月23日付東京新聞の記事より)
忘れてはならぬ「負の歴史」
関東大震災直後の朝鮮人虐殺


関東大震災(1923年9月1日)直後に起きた朝鮮人虐殺事件で、犠牲者を弔う追悼式と慰霊祭が6日、船橋市と八千代市で営まれた。大震災の発生日に合わせて毎年行われているが、今年は新型コロナウイルスの影響で式典を簡素化したり。人数を少なくしての開催。参加者たちは「『負の歴史』を忘れてはいけない」と誓った。(保母哲)

船橋で追悼式、八千代で慰霊祭
 船橋市営馬込霊園で営まれた追悼式を主催したのは、在日本朝鮮人総連合会県西部支部などでつくる実行委員会。霊園内には「関東大震災犠牲者同胞慰霊碑」(高さ約4メートル)が建立されている。
 大震災による混乱の中、デマにより県内でも市民や自警団、軍隊が朝鮮人らを殺傷。碑文には「この凶変蛮行で殺されたのは6千3百人余、負傷者は数万人」、さらに「(犠牲者の)怨恨(えんこん)は千秋不滅」などと記されている。
 式典で同支部の呉学成(オ ハクソン)委員長は「日本の歴代政権は、この蛮行の事実と真相、自己責任を明らかにしようとせず、犠牲者への謝罪と補償もない」などと追悼の辞を読み上げた。突然の雨に見舞われたが、弦楽器・ソヘグムの演奏などで犠牲者をしのんだ。
 八千代市高津の観音寺本堂で営まれた慰霊祭を主催したのは、地元などの有志で作る「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」など。同寺境内には、「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」(高さ約2メートル)が建立されている。
 新型コロナのため、今年は慰霊祭の出席は実行委メンバーら主催者関係者とした。約30人は読経などをし、実行委の吉川清代表はこれまでの活動などを振り返りながら、「課題は多いが、多くの人の支援を受けながら今後も活動を進めたい」と述べた。
 事務局の平形千恵子さん(79)は、近年は大学生も朝鮮人虐殺をテーマにしていることなどを挙げながら、「若い人たちに、この活動を引き継いでもらいたい」と話していた。

(編集部より)
関東大震災時のこの事件と経過については、「住みたい習志野」ブログでも取り上げています。合わせてご覧ください。
習志野歴史散歩:騎兵旅団の光と影 - 住みたい習志野

 

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習志野はソーセージ発祥の地って本当?

2020-09-21 14:24:47 | 歴史

習志野はソーセージ発祥の地って本当?

19日テレビ東京放映の「出没!アド街ック天国」で紹介された「習志野ソーセージ」。SNS上では「初めて聞いた」「ここ数年で売り出した代物」「習志野は日本のソーセージ発祥の地とされている(違うとの意見多数あり)」「ドイツ職人に秘伝のレシピを教わったことがきっかけ(らしい)」等々、さまざまな書き込みがされています。

「ドイツ兵士の見たニッポン」の執筆者に問い合わせてみました

 そこで、本当に習志野はソーセージ発祥の地なのかどうか、以前「ドイツ兵士の見たニッポン」という本をまとめられたH氏に編集部が問い合わせてみました。

初めて日本人がソーセージを「食べた」のは江戸時代

編集部 最初に、ズバリお聞きします。習志野はソーセージ発祥の地というのは本当なのですか?

H氏 「発祥の地」という言葉の意味あい次第で、答えは変ってきます。もし、習志野で発明された食べ物だとか、日本で最初に製造した場所だとかいう意味で「発祥の地」なのか、と言われればもちろん違います。初めて「食べた」ということであれば、江戸時代、長崎のオランダ商館を訪ねた日本人が食べていますし、咸臨丸の一行もハワイで食べています。横浜では、居留地の中でマルティン・ヘルツというドイツ人が外国人相手に製造・販売していた記録もあります。

「ドイツ兵士の見たニッポン」という本の中で「ソーセージ発祥の地と言われている」とHさんは書いていますが…

編集部 しかし、あなたは「ドイツ兵士の見たニッポン」という本の中で「ソーセージ発祥の地と言われている」と書いていますよね。

(上図の本の56〜57ページに下記の記述があります)


H氏 ソーセージというものが、何の変哲もない日本人の食べ物になったきっかけは、間違いなく習志野で、ドイツ兵から製法を記録したことにあります。ですから「ソーセージ発祥の地」とされるのは当然だろうと思います。

編集部 というと?

ソーセージの製法は「秘伝」の技術だったが、マニュアル化し、だれでも作れるようになった。その画期的な変化が起こったのが習志野

H氏 ソーセージの製法はドイツでも、親方(マイスター)に弟子入りして、永年徒弟修業してやっと教えてもらえる「秘伝」になっていました。日本人が真似して作ろうとしても、形は同じように出来ても食べられたものではなかった。わずかに大木市蔵という人が横浜で、何とか国産ソーセージを作ろうと努力していましたが、それでもなかなかいい物が出来なかった。ところが、習志野で農商務省畜産試験場が、ドイツ兵からこの秘伝を教えてもらったことによって、日本中の肉屋が、別にドイツに行ったわけでも、マイスターに弟子入りしたわけでもないのに、ソーセージが作れるようになった。その画期的な変化が起こったのが習志野だ、と申し上げているのです。

習志野の地にソーセージの製法は伝わったが、自家製ソーセージの販売は長く続かなかった

編集部 しかし、ドイツ兵が帰国した後も習志野の地で、連綿とソーセージが作られていたというわけではないですよね。

H氏 習志野の地に製法が伝わらなかったのかと言えばそうではなく、大久保の紅谷肉店には昔、ソーセージを燻製(くんせい)する大きな箱が残っていたそうです。

しかし、自家製ソーセージを販売し続けることはやめてしまったといいます。

ところでソーセージは、羊や豚の腸、あからさまに言えば糞便が入っていた腸を洗浄して、これを包装材に使うことで、冷蔵庫のない時代に、肉を長期保存しようという当時のハイテクです。腸をきれいに洗浄すること、そして肉にまぜる香辛料の配合。香辛料は食べておいしくなるだけでなく、肉の保存料の役割も担っています。このあたりが秘伝であって、洗浄が不十分な腸に肉を詰めても、かえって腐らせてしまうだけなのです。

当時、板東や久留米など、ドイツ兵を収容した町で、ソーセージを作って彼らの食膳に供したということはあったようです。しかし、ドイツ兵は「これがソーセージ?」と首を傾(かし)げたようです。豚のえさのせいなのか、魚臭くて食べられたものではなかった、と書いている者もいます。当時、久留米収容所にいたアウグスト・ローマイヤというドイツ兵は、解放後も日本に残りソーセージ屋を始めるのですが、彼もこのまずい“ソーセージ”に憤り、「日本人に本物のソーセージを食わせてやろう」と思ったことがそのきっかけだったと言われています。

タコ・ウインナーがお弁当の定番になったのも、ソーセージが全国に広がったのも、元をただせば習志野収容所がきっかけ

ところが、日本人の方は当時ソーセージをもらっても、気味悪がって食べなかった。最近でこそホルモンでもコテッチャンでも食べちゃいますが、「糞袋の中に詰めた肉」などと言えば、当時は気持ち悪いと食べる人はいなかった。それなのに、今や子どものお弁当の定番、玉子焼の隣には必ずタコ・ウインナーが乗っているほど、当り前の食品になったのはなぜかと言えば、これは大量生産が可能になったからですね。それは、習志野で秘伝が公開されたからです。もし、横浜の大木さんの店やローマイヤからのれん分けした弟子の店でしか作られていないようなものであったら、「横浜名物」「銀座みやげ」としてハイカラな物好きだけが口にする物にとどまったに違いない。子どもの弁当に入れようとはしなかったでしょう。これだけ全国に行きわたったのは、やはり習志野収容所がきっかけだったと言っていいのではないでしょうか。

大木市蔵さんのソーセージの方が習志野より4ヶ月先?

編集部 横浜でソーセージの修業をした大木市蔵さんという方は千葉県横芝の出身で、そちらこそソーセージの元祖だ、という声もあるようですね。

(大木市蔵WEB記念館)
http://ham-sausage.com/

H氏 大木さんが横浜に出て、マルティン・ヘルツに付いてソーセージの修業をした。そしてやっと完成して、「第1回神奈川県畜産共進会」に出品したのが大正6年(1917)11月1日だった、というので、現在11月1日を「ソーセージの日」としているそうです。翌大正7年2月、畜産試験場の飯田吉英(いいだよしふさ)技師が習志野で、カール・ヤーンから秘伝を聴き取るのですが、それより4ヶ月ほどこちらの方が先だ、ということになりますね。

大木さんという人はたいへん人格者で弟子の面倒見もよく、現在も続くハム・ソーセージのメーカーの中には大木さんの恩恵に与っている所が非常に多い。我が国食肉加工業の恩人であることは間違いないのですが、しかし、この大正6年のソーセージが完成品だったかどうかというと、そこは疑問が残ります。大木さんは続く大正8年(1919)、第1回畜産工芸博覧会で銀賞を受賞、大正13年(1924)には銀座に日本初のハム・ソーセージ専門店を開くのですが、大正8年の博覧会には批評が残っていまして、「ソーセージは概して、原料肉の截切及び填充法、そのよろしきを得たりといえども、風味色沢(しきたく)に於て欠陥を有するもの多し。」と書いてあります。風味、色つやに欠陥を有するソーセージを、あなたは食べてみたいと思いますか? 要するに、まだまだだったのです。ところが、この博覧会の後、進境著しく、5年後には銀座に進出している。一気に開花したわけですね。

この厳しい批評をした審査員が習志野でドイツ兵から「秘伝」を習った飯田技師だった。

実は、上の批評を書いた審査員が、習志野でドイツ兵カール・ヤーンから秘伝を習った飯田技師なのです。
(飯田吉英)


その飯田技師が習志野の「秘伝」をサジェスチョンして、大木さんのソーセージ作り、一気に花が咲いた?

私の想像に過ぎませんが、この時、飯田技師から大木さんに、「私も習志野でドイツ人から聞いたのだが、ここはこうやってみたら…」というサジェスチョンがあったのではないでしょうか。永らく苦労してきた大木さんだからこそ、一つヒントを聞けば「ああ、なるほど」と、一気に花が咲いたのではないか、と想像してしまうのですが、証拠はありません。しかし、大木さんをもって我が国ソーセージの元祖として尊敬している方々は、飯田技師からサジェスチョンを受けたのではないかというと不愉快に思われるかも知れませんね。

作っているのは山形のメーカーなのに「習志野」ソーセージ?

編集部 それにしても、「習志野ソーセージ」というと、習志野の地に連綿と伝わったソーセージだと思われてしまう。ところが製造しているのは山形のメーカーだ、となると、やはりインチキではないか、という声もあるようですが…

H氏 「習志野ソーセージ」として売り出しているのは、青年会議所、商工会議所の皆さんです。私は「習志野ソーセージ」には全くタッチしていませんので、良くわかりません。

 ただ、製造が山形のメーカー、ということについては、習志野の工業団地(船橋市習志野4丁目)に工場があるという「ご縁」からみたいですね。私が知るところでは、元々、青年会議所は八千代台にある「ダンケ」
http://www.umai-danke.com/
というソーセージ屋さんに指導をお願いしたそうです。店主の蜂谷さんは大変な研究家で、収容所でカール・ヤーンが実演して見せたいくつかの種類の中から、「習志野ソーセージ」と銘打って復元するのならばヤーンの出身地テューリンゲンのソーセージ「テューリンガー」がいいのではないか、とアドヴァイスをしてくださいました。また、当時ヤーンはまだ年齢的に、マイスターになっていないのではないか。徒弟に過ぎないヤーンが日本人に秘伝を明かしてしまったとなると、ドイツに帰国してもギルドから追放されてしまう。だから教えることを渋ったのではないか、といった専門家ならではの考察もいただいたものです。

 それはともかく、そういう蜂谷さんの努力で復元ソーセージが出来上って、青年会議所がこれを量産化するのに山形のメーカーに持ち込んだ、ということです。メーカーの本社は山形だという一点だけをとらえて、「インチキだ」「インチキだ」と騒ぐのもどうかと思いますね。

編集部 ソーセージの製法が習志野に伝わったことや、収容所内でオーケストラ演奏をしていたことなど、習志野市の重要な歴史であるドイツ人捕虜収容所のことについて、むしろ、先祖代々習志野にいる方の方がご存知ないように思います。学校でも習わなかった、と。

H氏 そうですね。もっと多くの皆さん、特に習志野市民の皆さんには、ふるさとの大事な歴史として語り継いでいっていただきたいですね。

編集部 そうすると、習志野がソーセージ発祥の地というのは、〇か×か、と言われれば×であって、考えようによっては〇とも言える、といったところでしょうか。

H氏 まさにそういう、〇か×か、白か黒か、イエスかノーか、テレビのクイズ式の考え方というのが、人の考える力を奪ってきたのだと思いますよ。食文化の歴史には、その前に揺籃(ようらん)の歴史があって、源流となるものもいくつかあって、それがどこかで今日に向けて、エポック・メーキングな出来事、例えば習志野で「秘伝」が伝わり、それが全国に広がっていった、というような。そこが「発祥」ということなのではないかと思います。

習志野収容所から解放後、日本に残ってソーセージ屋を始めたドイツ人もいる

 「習志野ソーセージ」は畜産試験場の飯田技師に伝わったことばかり言っていますが、習志野収容所からもローマイヤのように日本に残り、ソーセージ屋を始めた人がいます。カール・ブッチングハウスは習志野収容所を解放されてからも日本に残り、関東大震災後には神戸でソーセージ屋を始めます。平成に入って阪神大震災で廃業してしまうまで、「ブッチングハウスのソーセ-ジ」は三ノ宮で親しまれていました。また、ブッチングハウスに弟子入りして、のれん分けしたというソーセージ屋さんもあります。一軒は神奈川県茅ケ崎、もう一軒は長崎県大村で、ブッチングハウスの伝統はいまだに活きているのです。

http://www.ham-jiro.jp/about.html

http://www.doihamu.com/hajimari/

(「千葉県の習志野収容所にいたカール・ブッチングハウス」の名が動画の中で紹介されています)


(編集部より)
Hさん、貴重なお話、有難うございました。
Hさんがまとめられた「ドイツ兵士の見たニッポン」という本、習志野のドイツ人捕虜収容所のことを知るための必読文献です。皆さんも是非ご一読ください。
(と言っても今は絶版になっていますので、図書館で借りてお読みください。古本だと結構値が張ります(笑)。この本、ドイツ語翻訳版(下図)がドイツで出版されていますが、Hさんのお話では、Hさんに断りなく、勝手に出された本だそうです。)


習志野市のドイツ人捕虜収容所問題やHさんの研究、海外からも注目されています。

Japan commemorates German World War I prisoners of war | DW | 27.01.2020

The Japanese town of Narashino on Monday marked 100 years since the la...

DW.COM

 

http://tsingtau.info/index.html?lager/nar-veranstaltungen1.htm

http://allinfo.space/2020/02/01/so-lebten-deutsche-kriegsgefangene-in-japan/

https://www.amazon.de/Erlebnisse-deutschen-Gefangenen-Lager-Narashino/dp/3863867424

 

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テレビ東京「出没!アド街ック天国」で習志野名物トップ20が紹介されました

2020-09-20 11:56:57 | 報道

テレビ東京「出没!アド街ック天国」で習志野名物トップ20が紹介されました(9月19日)

 見逃した方、もう一度見たい、という皆さんのために、このブログで過去に投稿された内容も含めて、トップ20をご紹介します。

まずは

20位 習志野だけど習志野市じゃない

「習志野」駅も習志野駐屯地も船橋市、習志野カントリークラブは印西市。なぜこんなにややこしい?詳しく知りたい方は、この投稿をお読みください。

習志野歴史散歩:習志野市の市域が決まるまでのお話 - 住みたい習志野

19位 美味しいお店 増加中

おしゃれで美味しいお店が急増中

18位 天然温泉 湯〜ねる

新習志野駅にできた天然温泉「湯〜ねる」、1日いても950円、マンガ2万冊も読み放題だそうです。

17位 谷津の喫茶店「螢明舎(けいめいしゃ)」

作家の村上春樹さんもここに来たんですね。こういう喫茶店、今はなかなかないです。谷津駅(昔の「谷津遊園」駅)からこのお店を右に見て行った先に「谷津遊園」がありました。(今の「ららぽーと」に昔は「船橋ヘルスセンター」があったので、隣の駅の名前も「船橋競馬場」ではなく、「センター競馬場前」でした。)


16位 奏の杜の「ピーターパン」

できたて3分間が極上の味、メロンパンをお試しあれ

15位 水道水が美味しい?

総武線より北側の地域では井戸水をくみ上げた美味しい水道水が飲めます

14位 ル・パティシエ ヨコヤマ

谷津で開店。今では大久保にもお店があります。名物「岩シュー」はすぐ売り切れてしまうので、お早めに行ってください。

13位 ハミングロード

昔の鉄道連隊の線路跡がマラソン道路になり、今は「ハミングロード」と呼ばれています。

習志野歴史散歩:鉄道連隊のこと(今のJR津田沼駅周辺) - 住みたい習志野

習志野の地名の由来、画面の左下に「※諸説あり」とありますが、「兵馬の馴らし(ならし)をする野原」「明治天皇が近衛兵の大演習で『見習え、篠原(陸軍少将)を』と言ったから」など諸説があります。

習志野歴史散歩:「習志野」の由来と宮本武蔵 - 住みたい習志野

12位 御朱印ブーム

大原神社のカラフルな「御朱印」

先日亡くなった志村けんさんの「アイーン」ポーズに似ている?菊田神社の「アイーン狛犬」

11位 読売巨人軍発祥の地

ベーブ・ルースが、谷津遊園(現京成バラ園)の所にあった谷津球場で試合をし、そのサインボール(すごいお宝!)で少年たちが道端でキャッチボールをしていたそうです。
習志野歴史散歩:谷津球場、巨人軍発祥の地 - 住みたい習志野

10位 習志野ソーセージ

習志野元俘虜収容所 - 住みたい習志野

64年大久保でのコレラ騒ぎと、19年スペイン風邪による西郷寅太郎(習志野収容所長)の死 - 住みたい習志野

9位 レストランあけぼの

名物の「激辛カレー」、まだの方は一度お試しあれ。ふわとろオムライス、小鉢料理も絶品。

8位 小林刷毛製造所


ここで手作りされる「江戸刷毛(えどはけ)」、絵画修復用などで世界的に有名なんだそうです。習志野で作られた刷毛が世界の美術を支えています。

7位 旧鴇田(ときた)家住宅

千葉県の有形文化財。およそ300年前の建物です。

6位 習志野市立習志野高等学校


掛布さんも習志野高校野球部出身です。お弁当「芝ちゃん」(旧「芝寿司」)の芝田さん、市内中学校の校長先生や習志野高校野球部監督をやった椎名先生も同じ時代を過ごした仲間です。

5位 千葉工業大学

世界が注目、未来ロボット「fuRo」

4位 習志野隕石



7月2日、習志野市に落下した「習志野隕石」、何人ものアマチュア観測家が撮影したおかげで、どこの星から来た石かがわかる、まれにみる貴重な隕石だそうです。

8月19日(水)に「習志野隕石と地球衝突天体」セミナーを実施しました! - 住みたい習志野

習志野隕石「まだ見つかる可能性」(東京新聞)真っ赤な火の玉が落ちてきた(毎日新聞) - 住みたい習志野

習志野隕石の意味(毎日新聞の記事より) - 住みたい習志野

「習志野いん石まんじゅう」市内の和菓子店販売(東京新聞記事) - 住みたい習志野

3位 谷津バラ園



動物園や観覧車、のぞき眼鏡、ここにはかつて「谷津遊園」というワンダーランドがありました。マントヒヒやテナガザルなど、猿の種類がものすごく多かったし、八丈島の「きょん」もいた。コークスクリュー、こわかった〜。
寅さんの撮影も行われ、その昔には映画撮影所もありました。
習志野歴史散歩:谷津遊園の中にお城みたいな映画撮影所があった - 住みたい習志野

習志野歴史散歩:寅さんと谷津遊園の大観覧車 - 住みたい習志野

2位 谷津干潟

この干潟を埋め立ててしまう計画がありましたが、市民の反対で、とうとう埋め立て計画を撤回させ、ラムサール条約登録地にまでなりました。長年にわたる地道なゴミさらい作業など、先人の努力が実を結んでいますね。

そして1位はやっぱり 市立習志野高等学校

春高バレーには13回連続出場。ボクシング部は4人の世界チャンピオンを輩出し、今また期待の新人たちが頑張っています。

何度も全国優勝し、「美爆音」で有名な吹奏楽部。
スカパラ(東京スカパラダイスオーケストラ)とのコラボは感動を生みました。




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