習志野はソーセージ発祥の地って本当?
19日テレビ東京放映の「出没!アド街ック天国」で紹介された「習志野ソーセージ」。SNS上では「初めて聞いた」「ここ数年で売り出した代物」「習志野は日本のソーセージ発祥の地とされている(違うとの意見多数あり)」「ドイツ職人に秘伝のレシピを教わったことがきっかけ(らしい)」等々、さまざまな書き込みがされています。
「ドイツ兵士の見たニッポン」の執筆者に問い合わせてみました
そこで、本当に習志野はソーセージ発祥の地なのかどうか、以前「ドイツ兵士の見たニッポン」という本をまとめられたH氏に編集部が問い合わせてみました。
初めて日本人がソーセージを「食べた」のは江戸時代
編集部 最初に、ズバリお聞きします。習志野はソーセージ発祥の地というのは本当なのですか?
H氏 「発祥の地」という言葉の意味あい次第で、答えは変ってきます。もし、習志野で発明された食べ物だとか、日本で最初に製造した場所だとかいう意味で「発祥の地」なのか、と言われればもちろん違います。初めて「食べた」ということであれば、江戸時代、長崎のオランダ商館を訪ねた日本人が食べていますし、咸臨丸の一行もハワイで食べています。横浜では、居留地の中でマルティン・ヘルツというドイツ人が外国人相手に製造・販売していた記録もあります。
「ドイツ兵士の見たニッポン」という本の中で「ソーセージ発祥の地と言われている」とHさんは書いていますが…
編集部 しかし、あなたは「ドイツ兵士の見たニッポン」という本の中で「ソーセージ発祥の地と言われている」と書いていますよね。
(上図の本の56〜57ページに下記の記述があります)
H氏 ソーセージというものが、何の変哲もない日本人の食べ物になったきっかけは、間違いなく習志野で、ドイツ兵から製法を記録したことにあります。ですから「ソーセージ発祥の地」とされるのは当然だろうと思います。
編集部 というと?
ソーセージの製法は「秘伝」の技術だったが、マニュアル化し、だれでも作れるようになった。その画期的な変化が起こったのが習志野
H氏 ソーセージの製法はドイツでも、親方(マイスター)に弟子入りして、永年徒弟修業してやっと教えてもらえる「秘伝」になっていました。日本人が真似して作ろうとしても、形は同じように出来ても食べられたものではなかった。わずかに大木市蔵という人が横浜で、何とか国産ソーセージを作ろうと努力していましたが、それでもなかなかいい物が出来なかった。ところが、習志野で農商務省畜産試験場が、ドイツ兵からこの秘伝を教えてもらったことによって、日本中の肉屋が、別にドイツに行ったわけでも、マイスターに弟子入りしたわけでもないのに、ソーセージが作れるようになった。その画期的な変化が起こったのが習志野だ、と申し上げているのです。
習志野の地にソーセージの製法は伝わったが、自家製ソーセージの販売は長く続かなかった
編集部 しかし、ドイツ兵が帰国した後も習志野の地で、連綿とソーセージが作られていたというわけではないですよね。
H氏 習志野の地に製法が伝わらなかったのかと言えばそうではなく、大久保の紅谷肉店には昔、ソーセージを燻製(くんせい)する大きな箱が残っていたそうです。
しかし、自家製ソーセージを販売し続けることはやめてしまったといいます。
ところでソーセージは、羊や豚の腸、あからさまに言えば糞便が入っていた腸を洗浄して、これを包装材に使うことで、冷蔵庫のない時代に、肉を長期保存しようという当時のハイテクです。腸をきれいに洗浄すること、そして肉にまぜる香辛料の配合。香辛料は食べておいしくなるだけでなく、肉の保存料の役割も担っています。このあたりが秘伝であって、洗浄が不十分な腸に肉を詰めても、かえって腐らせてしまうだけなのです。
当時、板東や久留米など、ドイツ兵を収容した町で、ソーセージを作って彼らの食膳に供したということはあったようです。しかし、ドイツ兵は「これがソーセージ?」と首を傾(かし)げたようです。豚のえさのせいなのか、魚臭くて食べられたものではなかった、と書いている者もいます。当時、久留米収容所にいたアウグスト・ローマイヤというドイツ兵は、解放後も日本に残りソーセージ屋を始めるのですが、彼もこのまずい“ソーセージ”に憤り、「日本人に本物のソーセージを食わせてやろう」と思ったことがそのきっかけだったと言われています。
タコ・ウインナーがお弁当の定番になったのも、ソーセージが全国に広がったのも、元をただせば習志野収容所がきっかけ
ところが、日本人の方は当時ソーセージをもらっても、気味悪がって食べなかった。最近でこそホルモンでもコテッチャンでも食べちゃいますが、「糞袋の中に詰めた肉」などと言えば、当時は気持ち悪いと食べる人はいなかった。それなのに、今や子どものお弁当の定番、玉子焼の隣には必ずタコ・ウインナーが乗っているほど、当り前の食品になったのはなぜかと言えば、これは大量生産が可能になったからですね。それは、習志野で秘伝が公開されたからです。もし、横浜の大木さんの店やローマイヤからのれん分けした弟子の店でしか作られていないようなものであったら、「横浜名物」「銀座みやげ」としてハイカラな物好きだけが口にする物にとどまったに違いない。子どもの弁当に入れようとはしなかったでしょう。これだけ全国に行きわたったのは、やはり習志野収容所がきっかけだったと言っていいのではないでしょうか。
大木市蔵さんのソーセージの方が習志野より4ヶ月先?
編集部 横浜でソーセージの修業をした大木市蔵さんという方は千葉県横芝の出身で、そちらこそソーセージの元祖だ、という声もあるようですね。
(大木市蔵WEB記念館)
http://ham-sausage.com/
H氏 大木さんが横浜に出て、マルティン・ヘルツに付いてソーセージの修業をした。そしてやっと完成して、「第1回神奈川県畜産共進会」に出品したのが大正6年(1917)11月1日だった、というので、現在11月1日を「ソーセージの日」としているそうです。翌大正7年2月、畜産試験場の飯田吉英(いいだよしふさ)技師が習志野で、カール・ヤーンから秘伝を聴き取るのですが、それより4ヶ月ほどこちらの方が先だ、ということになりますね。
大木さんという人はたいへん人格者で弟子の面倒見もよく、現在も続くハム・ソーセージのメーカーの中には大木さんの恩恵に与っている所が非常に多い。我が国食肉加工業の恩人であることは間違いないのですが、しかし、この大正6年のソーセージが完成品だったかどうかというと、そこは疑問が残ります。大木さんは続く大正8年(1919)、第1回畜産工芸博覧会で銀賞を受賞、大正13年(1924)には銀座に日本初のハム・ソーセージ専門店を開くのですが、大正8年の博覧会には批評が残っていまして、「ソーセージは概して、原料肉の截切及び填充法、そのよろしきを得たりといえども、風味色沢(しきたく)に於て欠陥を有するもの多し。」と書いてあります。風味、色つやに欠陥を有するソーセージを、あなたは食べてみたいと思いますか? 要するに、まだまだだったのです。ところが、この博覧会の後、進境著しく、5年後には銀座に進出している。一気に開花したわけですね。
この厳しい批評をした審査員が習志野でドイツ兵から「秘伝」を習った飯田技師だった。
実は、上の批評を書いた審査員が、習志野でドイツ兵カール・ヤーンから秘伝を習った飯田技師なのです。
(飯田吉英)
その飯田技師が習志野の「秘伝」をサジェスチョンして、大木さんのソーセージ作り、一気に花が咲いた?
私の想像に過ぎませんが、この時、飯田技師から大木さんに、「私も習志野でドイツ人から聞いたのだが、ここはこうやってみたら…」というサジェスチョンがあったのではないでしょうか。永らく苦労してきた大木さんだからこそ、一つヒントを聞けば「ああ、なるほど」と、一気に花が咲いたのではないか、と想像してしまうのですが、証拠はありません。しかし、大木さんをもって我が国ソーセージの元祖として尊敬している方々は、飯田技師からサジェスチョンを受けたのではないかというと不愉快に思われるかも知れませんね。
作っているのは山形のメーカーなのに「習志野」ソーセージ?
編集部 それにしても、「習志野ソーセージ」というと、習志野の地に連綿と伝わったソーセージだと思われてしまう。ところが製造しているのは山形のメーカーだ、となると、やはりインチキではないか、という声もあるようですが…
H氏 「習志野ソーセージ」として売り出しているのは、青年会議所、商工会議所の皆さんです。私は「習志野ソーセージ」には全くタッチしていませんので、良くわかりません。
ただ、製造が山形のメーカー、ということについては、習志野の工業団地(船橋市習志野4丁目)に工場があるという「ご縁」からみたいですね。私が知るところでは、元々、青年会議所は八千代台にある「ダンケ」
http://www.umai-danke.com/
というソーセージ屋さんに指導をお願いしたそうです。店主の蜂谷さんは大変な研究家で、収容所でカール・ヤーンが実演して見せたいくつかの種類の中から、「習志野ソーセージ」と銘打って復元するのならばヤーンの出身地テューリンゲンのソーセージ「テューリンガー」がいいのではないか、とアドヴァイスをしてくださいました。また、当時ヤーンはまだ年齢的に、マイスターになっていないのではないか。徒弟に過ぎないヤーンが日本人に秘伝を明かしてしまったとなると、ドイツに帰国してもギルドから追放されてしまう。だから教えることを渋ったのではないか、といった専門家ならではの考察もいただいたものです。
それはともかく、そういう蜂谷さんの努力で復元ソーセージが出来上って、青年会議所がこれを量産化するのに山形のメーカーに持ち込んだ、ということです。メーカーの本社は山形だという一点だけをとらえて、「インチキだ」「インチキだ」と騒ぐのもどうかと思いますね。
編集部 ソーセージの製法が習志野に伝わったことや、収容所内でオーケストラ演奏をしていたことなど、習志野市の重要な歴史であるドイツ人捕虜収容所のことについて、むしろ、先祖代々習志野にいる方の方がご存知ないように思います。学校でも習わなかった、と。
H氏 そうですね。もっと多くの皆さん、特に習志野市民の皆さんには、ふるさとの大事な歴史として語り継いでいっていただきたいですね。
編集部 そうすると、習志野がソーセージ発祥の地というのは、〇か×か、と言われれば×であって、考えようによっては〇とも言える、といったところでしょうか。
H氏 まさにそういう、〇か×か、白か黒か、イエスかノーか、テレビのクイズ式の考え方というのが、人の考える力を奪ってきたのだと思いますよ。食文化の歴史には、その前に揺籃(ようらん)の歴史があって、源流となるものもいくつかあって、それがどこかで今日に向けて、エポック・メーキングな出来事、例えば習志野で「秘伝」が伝わり、それが全国に広がっていった、というような。そこが「発祥」ということなのではないかと思います。
習志野収容所から解放後、日本に残ってソーセージ屋を始めたドイツ人もいる
「習志野ソーセージ」は畜産試験場の飯田技師に伝わったことばかり言っていますが、習志野収容所からもローマイヤのように日本に残り、ソーセージ屋を始めた人がいます。カール・ブッチングハウスは習志野収容所を解放されてからも日本に残り、関東大震災後には神戸でソーセージ屋を始めます。平成に入って阪神大震災で廃業してしまうまで、「ブッチングハウスのソーセ-ジ」は三ノ宮で親しまれていました。また、ブッチングハウスに弟子入りして、のれん分けしたというソーセージ屋さんもあります。一軒は神奈川県茅ケ崎、もう一軒は長崎県大村で、ブッチングハウスの伝統はいまだに活きているのです。
http://www.ham-jiro.jp/about.html
http://www.doihamu.com/hajimari/
(「千葉県の習志野収容所にいたカール・ブッチングハウス」の名が動画の中で紹介されています)
(編集部より)
Hさん、貴重なお話、有難うございました。
Hさんがまとめられた「ドイツ兵士の見たニッポン」という本、習志野のドイツ人捕虜収容所のことを知るための必読文献です。皆さんも是非ご一読ください。
(と言っても今は絶版になっていますので、図書館で借りてお読みください。古本だと結構値が張ります(笑)。この本、ドイツ語翻訳版(下図)がドイツで出版されていますが、Hさんのお話では、Hさんに断りなく、勝手に出された本だそうです。)
習志野市のドイツ人捕虜収容所問題やHさんの研究、海外からも注目されています。
Japan commemorates German World War I prisoners of war | DW | 27.01.2020
The Japanese town of Narashino on Monday marked 100 years since the la...
DW.COM
http://tsingtau.info/index.html?lager/nar-veranstaltungen1.htm
http://allinfo.space/2020/02/01/so-lebten-deutsche-kriegsgefangene-in-japan/
https://www.amazon.de/Erlebnisse-deutschen-Gefangenen-Lager-Narashino/dp/3863867424
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