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64年大久保でのコレラ騒ぎと、19年スペイン風邪による西郷寅太郎(習志野収容所長)の死

2020-05-21 13:39:24 | 歴史

5月20付東京新聞に、こんな記事がありました

64年 五輪直前、コレラで混乱 
    発生地・習志野市大久保地区

◆発端

 「おまえ、大久保に住んでいるのか。当分会社に来るな」。当時、整備士として羽田空港で働いていた三橋正文さん(79)は上司に告げられた。事情がのみ込めないまま帰宅した三橋さんは、新聞を開いて驚いた。「コレラで工員が死ぬ」。六四年八月二十六日の一面の記事。亡くなった男性が泊まっていた旅館が大久保地区にあった。

 国内で十八年ぶりだったコレラ発生に、大久保地区は一変した。各所にロープが張られて移動が規制され、商店街は封鎖された。旅館から五百メートルほど離れた場所で畳店を営んでいた久保木太一さん(84)は、ヘリコプターのスピーカーが「外に出ないでください」と繰り返していたのを覚えている。「仕事も全部ストップ。突然大騒ぎになった」と振り返る。

◆経路不明

 亡くなった工員の感染経路が分からないまま、すぐに同宿者も保菌していることが判明した。ヘリコプターが大久保地区に消毒薬をまき、市民は緊急の予防接種に列を作った。

 当時、大学四年生だった磯部富砂子さん(77)も公園のテントで予防接種を受けた一人。「順番が来るまで三十分以上は待った。その間もヘリが飛んで消毒薬の白い粉がぱーっと降っていた」。畳店の久保木さんは「保健所の人が家に来て『尻を出せ』と。服をまくってみせた」と検便の場面が記憶に残っている。

 目に見えない敵との闘いは、今回の新型コロナウイルスと同じだった。厳戒を求める世間と住民の間の温度差もあった。規制線を無視して温泉に出掛け、でたらめな住所を受付で書いて湯につかった人もいたという。新型コロナの緊急事態宣言が続く今も、行き場を求める人たちで混み合う場所がある。三橋さんらは、その光景をニュースで見て「当時と同じだ」と感じている。

◆1カ月半

 十月十日に開幕する五輪を一カ月半後に控えた大会組織委員会は大慌てだった。「大変なことが持ち上がった。このさい一千万都民全部に予防注射が必要だ」。五輪組織委員会の幹部はコレラ患者の発生直後、新聞の取材に危機感をあらわにした。

 組織委の事務局が入る岸記念体育会館(東京都渋谷区)の廊下には「予防接種すませてください」との紙が張られた。選手村や各競技場関係者約一万二千人を対象にしたコレラの予防接種を前倒しで実施することにし、五輪で来日した外国人の選手、観客を隔離するための病院もすぐに決めた。

◆終息へ

 厚生省(当時)は、八月二十五日に保菌者が確認されてから一週間で、習志野市を中心に一万一千人の検便と首都圏での二十六万人の予防注射を実施。「防疫活動は完全に終わり、流行の危険もない」として、五輪の開会式まで一カ月余りとなった九月一日に終結宣言を発表した。

 感染経路が分からないままの幕引きだったが、確認された保菌者は亡くなった工員と同宿者の二人だけだった。

 六四年の東京五輪は、戦後の日本の復興を世界に示す意味も持っていた。その年に起きたコレラ騒動について、習志野市の郷土史に詳しい山岸良二さん(69)=同市文化財審議会長=は「世界にこんなことが知れ渡ったら大変だと、封じ込めに躍起になったのだろう」と、当時の国の動きを分析する。

感染パニック、64年五輪でも 開幕直前、千葉で「コレラ騒動」:中日新聞Web

貴重な習志野の歴史ですね。また、新型コロナウイルスの問題でニュースに取上げられるようになった「スペイン風邪」に関する記述が、「ドイツ兵士の見たニッポン」(2001年丸善刊、習志野市教育委員会編)という本の中に出てきます。

スペイン風邪の流行
 ドイツ兵が習志野に収容されていた期間で最大の事件は、「スペイン風邪」と呼ばれたインフルエンザが蔓延し、ドイツ兵と収容所長西郷寅太郎大佐が犠牲となったことであろう。故郷を再び見ることなく習志野で亡くなったドイツ兵三十名の内、実に二五名が、大正七年から八年にかけてのわずか数か月の間に、このスペイン風邪で仆れたのであった。
(中略)
 このような中で、スペイン風邪がいつ習志野に到着したのかは定かではないが、一二月には影響が現れたらしく、まず犠牲になったのは、西郷所長であった。
 大正八年(一九一九)一月一日、朝から高熱を出していた西郷所長は、医師が止めるのも聞かず、ドイツ兵に年頭の挨拶を述べるために、宿舎(千葉市長作町諏訪神社の藤代氏方)から乗馬で収容所に向った。前年一一月に、ドイツは遂に降伏して第一次世界大戦は終結していた。敗戦の衝撃の中で新年を迎えたドイツ兵を何としても励まし、戦争が終結した以上、この新年が彼らの帰国の年となるであろうことを伝えてやろうとしたのである。後にフォーゲルフェンガーは、西郷所長の死亡はこの日の午後四時であったと、敬意を込めて語っている。
 

こちらも習志野市の貴重な歴史ですね。
ちなみに西郷寅太郎は西郷隆盛の嫡男です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E5%AF%85%E5%A4%AA%E9%83%8E

ついでに、スペイン風邪は、最初の発生はアメリカとも中国とも言われていますが、当時、第一次世界大戦のさなか、自国の兵隊がスペイン風邪でバタバタ倒れて戦力が落ちている、という事実は軍事機密で、交戦国はひた隠しにしていたため、当時中立国だったスペインでの感染状況だけが表に出て来た。そのため「スペイン風邪」と名付けられたそうです。スペインもいい迷惑ですね。
 オリンピックに影響しないよう感染者数を少なく見せようとしたため初期対応が遅れ、新型コロナウイルスの蔓延を許してしまった今の日本、第一次大戦時、機密保持のためスペイン風邪の蔓延を許してしまった歴史を教訓にすべきでしたね。

(追記)
船橋市では4月1日からドライブスルーPCR検査を行い、
鎌ヶ谷市でも連休明けからワンボックス車を使ったPCR検査を行っていますが、
習志野市でも5月21日PCR検査センターを設置(ドライブスルー、週3日、1日概ね10人に実施、医師によりPCR検査が必要と判断された人に実施し、混乱を避けるため場所は非公開)したそうです。https://www.city.narashino.lg.jp/shinkorona/koronaoshirase/narashino-city_pcrcenter.html

 

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2020-05-22 12:12:21
大久保のコレラ騒動は知っています。
まだ子どもでしたので、それが1964年のオリンピックの年だったことを、この東京新聞記事で初めて認識しました。
夏休みが一日延びた!と喜んだことと、八幡様だったとかに、予防注射に行かされたこはぼんやりと覚えています。
記事の写真の中に、ひょっとしたら私が、もしかしたら知っている顔が写っているかも、と探してみましたが、見当たりませんでした。残念。
大久保は騎兵連隊の町なので、馬小屋があったから破傷風になる人が多い.気をつけるようにと学校で言われたことはなぜか、鮮明に頭に残っています。
コロナ騒動は56年前のことだったんですね。
町の歴史を、足元から知ることの大切さを改めて考えました。
コロナウイルスのことは、何十年か経ったあと、どう語られていくのでしょうか。
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