国立博物館の「小倉コレクション」、かつては習志野市にあった
コロナ禍で外出もままならない中ですが、上野の東京国立博物館東洋館では「朝鮮の王たちの興亡」という展示が行われています(10月18日まで)。
https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=3921
その中でひときわ見学者の目を引くのは、重要文化財に指定されているみごとな宝冠です。
透彫冠帽(すかしぼりかんぼう)といい、韓国慶尚南道(キョンサンナムド)の昌寧(チャンニョン)で出土したものと伝わります。6世紀の三国時代、新羅(しらぎ:シルラ)のものと考えられています。
こちらは粉青鉄絵魚文瓶(ふんせいてつえ ぎょもん の へい)。忠清南道(チュンチョンナムド)の鶏龍山(ケリョンサン)で出土したと伝わる名品です。15~16世紀、李氏朝鮮時代のものです。
ところで、これらの「お宝」と習志野市には、いったい何の関係があるのでしょう? 今日は、こうした朝鮮の宝物がかつて習志野市内に秘蔵されていた、というお話です。
現在、東京国立博物館に所蔵されているこれら朝鮮美術の名品は「小倉コレクション」と呼ばれています。小倉武之助(おぐらたけのすけ:1870~1964)という人物が朝鮮で買い集めたものが、小倉氏の没後、東京国立博物館に寄贈されたのです。全部で1110点、その内訳は考古学資料557点・陶磁器130点・書籍26点・絵画69点など素晴らしいものばかりで、現在その中から重要文化財8点・重要美術品31点が指定されています。
小倉家は成田の素封家で、武之助の父親は衆議院議員、成田鉄道(JR成田線の前身)や成田銀行を設立しています。その子・武之助は明治37年(1904)、朝鮮に渡り、大邱(テグ)で電気事業に進出して成功を収めます。後には朝鮮電力の社長になりました。その一方で朝鮮の美術品の収集を始め、一大コレクションを築いたのでした。
昭和20年(1945)、太平洋戦争が終り日本の朝鮮統治が崩壊すると、混乱の中、小倉氏は10月に日本に引き揚げてきます。コレクションの内、約4000点は大邱に残されたままとなったようですが、名品は小倉氏が日本に持ち帰ったのでした。しばらく習志野開拓地で暮らした後、昭和31年(1956)には習志野市実籾に転居します。この地に収蔵庫を設け、「財団法人小倉コレクション保存会」を設立して会長に就任。昭和39年(1964)、94歳で亡くなるまで、美術品に囲まれて悠々自適の生活を送ったとされています。そして小倉氏の没後、コレクションは保存会から東京国立博物館に寄託され、さらに昭和56年(1981)には所有権も同館に一括寄贈して、保存会は解散しています。
韓国語のサイト(下記)では、小倉氏について、こう述べています。
(上記サイトの日本語訳)
小倉武之助は1904年京釜(キョンブ)鉄道株式会社会計担当に就職して大邱(テグ)に定着した後社債操作で土地を集め、財産を蓄積した。 以後韓国の多くの地域に電気を供給する南鮮電気会社(韓電の前身)社長をはじめとして国会議員、都市銀行頭取、印刷所社長、鉱山会社社長などを兼ねて韓半島の遺物をかき集めた。 そして数千点の文化財を日本に搬出したし、持っていけなかった遺物は大邱に隠したと分かっている。 94才の年齢で小倉が亡くなった後彼の息子は日本に搬出した遺物を東京国立博物館に寄贈する。これが即ち'小倉コレクション'だ。 あまりにも貴重な文化財が多いということでわが政府は1958年4次韓日会談文化財委員会会議で返還を要求することもした、しかし日本政府は小倉コレクションが私有財産という理由で返還を拒否した。
また、こういう動画もあります。
(動画には、韓国語で以下のような解説文がついています)
高宗(コジョン)皇帝の兜(かぶと)と鎧(よろい)、明成(ミョンソン)皇后が使った小盤など朝鮮王室の物品が東京博物館に堂々と展示されました。 日帝時代に渡っていった貴重な私たちの宝物なのに博物館側は返還するつもりがないと明らかにしました。
小倉邸跡は現在市の公園になっています
また、小倉邸跡(実籾5丁目16番)は習志野市に寄付され、「小倉公園」になっています。
公園にある看板には、次のように記されています。
「本公園用地は、財団法人小倉コレクション保存会より寄贈されたものです。(中略)小倉コレクション保存会は、小倉武之助氏(1870~1964)が、大正10年頃~昭和19年頃にかけ、収集した貴重な考古学的参考品を展示、保存するために、昭和32年4月に設立され、この地に保存庫が建てられておりました。昭和56年3月、これら考古学的参考品は、東京国立博物館に納められ、土地については習志野市に寄贈されたものです」
韓国で、文化財を返せ、という世論がヒートアップ
こうして小倉コレクションは、東京国立博物館東洋館を飾る名品として知られるようになったのですが、平成に入り日韓関係が複雑化していく中で、これを問題視する声が上ってきました。平成22年(2010)、当時の菅直人内閣が宮内庁書陵部にあった「朝鮮王室儀軌」(王室儀礼の記録)
の韓国への引き渡しを決めたことで、韓国側の主張は一気にヒートアップするのです。平成25年(2013)には韓国の国会が、東京国立博物館が所蔵する朝鮮王の武具などの返還を求める決議案を全会一致で採択します。決議はこうした文化財が「日本の植民地支配期に不法に運び出されたと推定される」と主張しており、小倉コレクション全体の韓国への返還を要求する声も広がり始めました。
日本政府は「文化財返還の問題は、既に完全かつ最終的に解決済み」としているが…
日本政府は、昭和40年(1965)の日韓基本条約に併せて締結された「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」と「文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」により、こうした日韓間における文化財返還の問題は、既に完全かつ最終的に解決済みである、という立場を取っています。また小倉コレクションのように、個人が正式の手続き(代金を出して購入した)によって取得した文化財には返還義務はないとしています。
しかし、いわゆる徴用工問題に見られるように、日韓基本条約で解決済みとされていた範囲自体にいろいろと異論が唱えられるようになってきており、文化財問題も一層難しいものになってしまいました。また、小倉氏が骨董商に代金を支払って購入した物だから正当、とする点については、小倉氏が古墳や遺跡の盗掘をそそのかしたのだ、といった真偽不明な反論まで飛び交うようになっています。実際、小倉氏のところへ持って行けばいい値段で買い上げてくれるからと、朝鮮人骨董商が無理に遺跡の盗掘をしたような事実はあるようなのですが、果してそれが小倉氏の指示なのかどうかはまったくわかっていないのです。
対馬の仏像盗難事件
こうした文化財問題はまた、対馬(つしま)の仏像盗難事件を引き起こします。平成24年(2012)に、長崎県対馬の神社や寺院から、重要文化財の仏像などが韓国人窃盗団によって持ち去られてしまうのですが、これには韓国の裁判所が盗品の日本への返還を拒否するというおまけが付いて、外交問題として膠着してしまいます。対馬ではその後も韓国人による仏像盗難事件が起こっているのですが、その背景には、対馬は元々朝鮮領であるという彼ら独自の主張と共に、日本が持ち去った文化財を返さないならばこちらも実力行使するぞという意図があるようです。
なお、韓国の中央日報は「1030件の小倉コレクション、埋蔵遺物含む盗掘関与を暗示」(2015.07.31 日本語版)という記事で、「国外所在文化財財団」が「小倉コレクション、日本にあるわれわれの文化財」という報告書を発表したことを報じ、「小倉氏は1930年代からすでに収集品を小分けにして日本に移動させていたことが今回の調査で明らかになった。31年に東京につくった私邸にコンクリートづくりの貯蔵庫を構えて数千件を保管した」と述べています。昭和8年(1933)には朝鮮総督府が、重要古美術品を指定して朝鮮半島から日本に移動させることを禁止する法令を出しており、小倉コレクションは既にその前に日本に持ち出されていたのではないか、ということです。
「1030件の小倉コレクション、埋蔵遺物含む盗掘関与を暗示」
また近年では、東京国立博物館にあるものは小倉氏が持ち出したすべてではなく、戦後、小倉氏が売りさばいて、民間に流出している物も多いはずだ。それについても韓国への返還を請求すべきだ、といった主張も見られるようです。
世界中で問題になっている「文化財返還問題」
このように、文化財や美術品の国外流出は「文化財返還問題」と呼ばれ、各国で非常に大きな問題になっています。エジプトがイギリスに、大英博物館が所蔵するロゼッタストーンの返還を求めていることはよく知られています。
また、不当な手段による流出の代表例として、ナチス・ドイツによる美術品略奪は今でもよく話題になります。
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海外に流出した日本の文化財
日本国内にあれば当然「国宝」になるような文化財が海外に流出している例として有名なのは、アメリカのボストン美術館でしょう。日本美術の恩人とも言うべきアーネスト・フェノロサ(1853~1908)は文化財保護制度の必要性を説き、「国宝」という概念を伝えました。その主張は明治30年(1897)に「古社寺保存法」という法律になり、日本の文化財保護制度がやっと緒についたのでした。ところがそのフェノロサ自身は名品「平治物語絵巻」、尾形光琳の「松島図」といった国宝級の美術品を買い集め、海外に流出させているのです。それがボストン美術館の日本コレクションの基礎となっているのですが、本当は日本国内にあってこそ、と思われるような名品が流出してしまった一方で、こうしてボストンで世界の人々の目に触れたことで、日本美術への大きな国際的評価が生まれていったこともまた事実なのです。
ボストン美術館 日本美術の至宝 | インターネットミュージアム
小倉コレクションの問題も、単に日韓間の紛争と考えるのではなく、世界的な「文化財返還問題」の趨勢の中で考え、解決を考えていくべき問題なのでしょう。
命からがら逃避行と美術品持ち出し
人一人の命は、どんな高価な美術品より尊く、重い
ところで、敗戦後、満州や朝鮮からの引き揚げでは多くの人が財産を失い、身一つで命からがら日本を目指して逃避行を強いられました。
竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記
こうした中で、一大コレクションを持ち帰った小倉氏がどういう経緯で習志野に住むようになったのかわかりませんが、美術品よりも一人でも多くの邦人(日本人)を帰国させなければ、という気持ちがあったのかどうか…。美術品に取りつかれていただけだったとしたら、それも悲しいことですね。
「9月上旬の米軍上陸後に小倉の日本への引き上げ作業が始まったと考えられます。小倉が築き上げた巨大な電気事業を考えると、電力の供給確保、現地職員による経営の引き継ぎ、米軍との関係等、残務整理は想像を絶する手間がかかるはずですが、小倉は早々と帰国してしまいました。資産のない日本人と同じ時期に、小倉は国外持ち出しを許された手荷物を携え、帰国を果たしました。この引き上げは、あまりに早く、最初に司令官が逃げ出したようなもので、その高齢を考慮してもスッキリしないものが残ります。」(「千葉のなかの朝鮮」明石書店より)
なお、昨年「小倉コレクション」に関するこんな本が出ています。ご参照ください。
岩波ブックレット「文化財返還問題を考える」
文化財返還問題を考える - 岩波書店
※「習志野歴史散歩」シリーズもこれで20回、一通り習志野の歴史をお話ししてきました。ここで一旦お休みさせていただきます。折を見てまた再開したいと思います。ご期待ください。これまでのご愛読に感謝します。
(ニート太公望)
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