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鷺沼海岸に飛行場があった!日本民間航空の開拓者「伊藤音次郎」(投稿)

2020-09-10 00:52:41 | 歴史

習志野市立第二中学校の卒業生でもあり、元教員で市内在住の郷土史家、長谷川 隆さんの投稿です
(平成27年(2015)習志野市民カレッジでの講座内容です)

鷺沼海岸に飛行場があった!

ー日本民間航空の開拓者ー

 伊藤音次郎

 日本で輸入飛行機が初飛行(明治43年)した数年後、自ら飛行機を製作し、大空を自由にはばたいた若き人々がいました。日本の民間航空を開拓したその人こそ、鷺沼海岸の飛行場を中心に活躍した「伊藤 音次郎(いとうおとじろう)氏」なのです。伊藤音次郎氏のご家族より、明治末〜昭和初期の貴重な記録写真や遺品をお借りし、平成24年7月に展覧会・講演会を開催いたしました。今回のお話や資料は、その際の記録をまとめたものです。習志野市の小学校社会科副読本「わたしたちの習志野市」で子どもたちが学んでいる郷土の飛行家の足跡を辿(たど)ってみませんか。

音次郎、飛行家になる決心をする
 大阪で生まれ、10代の頃丁稚奉公(でっちぼうこう)をしていた音次郎は、活動写真(映画)でライト兄弟の飛行の様子を見、飛行家になる決心をします。そして、明治44年(1911)民間飛行機の日本初飛行を成し遂げた奈良原三次(ならはら さんじ)の助手となります。その後、奈良原式の鳳(おおとり)号で飛行練習や巡回飛行を重ね、操縦技術や整備・機体製作などを学びます。(下図が鳳号)

独立、伊藤飛行機研究所を設立 帝都訪問飛行に成功

 大正4年(1915)、稲毛に「伊藤飛行機研究所」を設立し独立します。そして、名機と言われる「恵美号」を製作します。翌5年に、当時としては大冒険であった稲毛~東京往復55分の帝都(東京)訪問飛行に成功、一躍脚光を浴びます。

7ヶ月間の全国巡回飛行 夜間飛行に成功

 大正5年(1916)には、飛行機製作の資金調達のため栃木から別府まで7ヶ月間の長期にわたり有料巡回飛行を敢行し、全国に飛行機熱を広めます。翌年には初の夜間飛行にも成功し、飛行家としての名声はさらに高まっていきます。この年、恵美2号と恵美3号水上機を設計・製作します。(音次郎は大阪市恵美須町出身で飛行機にその名を冠した)
 これらの機で大阪への謝恩旅行を実施、郷土の人々への感謝の意を表します。しかし.この飛行会が終了した直後、台風による高潮で稲毛の研究所は壊滅します。

津田沼の鷺沼海岸に研究所を再建

 常に前向きな音次郎は、大正7年(1918)鷺沼海岸に研究所を再建し、新たなスタートを切ります。曲芸専用機鶴羽(つるはね)2号を始め、高性能の飛行機を製作します。また、4年前に弟子入りした山縣豊太郎(やまがた とよたろう)を教官として、多数の練習生たちに飛行訓練を実施します。これらの練習生の中からは、後に日本の航空界を担う人材や、アジア各国の航空指導者が多数生まれていきます。
(伊藤飛行場があった場所)

(習志野市の袖ヶ浦第2号児童遊園に設置された、「旧伊藤飛行機研究所 滑走路跡」のパネル)

 

天才山縣豊太郎の活躍と墜死

 一番弟子の山縣の飛行技術は傑出していました。東京の飛行大会で2回宙返りを成功させたり、東京〜大阪間往復の長距離飛行大会で新記録を樹立したり、天才と称されていました。しかし、大正9年(1920)3回宙返りの練習中に翼が折れて鷺沼の畑に墜落、22年の生涯を閉じました。

同じ頃、女性飛行士第1号となった兵頭 精(ひょうどう ただし)も練習を重ねていました。

兵頭精さんは、NHK朝ドラ「雲のじゅうたん」のモデルになった一人だそうです。

新しい事業への挑戦

【広告・宣伝事業】
飛行機を使った宣伝事業は珍しさもあり人気を博し、新聞でも報道されました。宣伝ビラ散布やネオン点灯は近年まで続けられていました。

【航空写真事業】
飛行機から見た鳥瞰(ちょうかん)写真は、人々の好奇心に訴えると共に、記録写真としても貴重でした。大正10年研究所に空中写真部を設立し、積極的に撮影・全国販売しました。平成24年、その写真が90年ぶりに再発見され新聞や週刊誌で脚光を浴びました。

日本軽飛行機倶楽部とグライダー製作

 軍用機生産が軍部と結んだ大企業に独占されるようになると、中小企業である研究所経営は苦しくなりました。そこで小馬力の軽飛行機やグライダー製作中心に替え、ここでも優秀機を次々と作り出しました。

引退 農場主として新たな道へ⇒奇しくも再び航空界へ

 昭和20年(1945)終戦を迎え、航空界を引退すると、県より成田の竹林の払い下げを受け、研究所の仲間たちと共に入植します。順調に農場経営をしていた昭和41年(1966)、農場が新東京国際空港滑走路予定地の中央部分となり、翌年空港公団への契約第1号として農場を譲渡しました。昭和43年(1968)には、埋め立てにより誕生した習志野市袖ヶ浦5丁目に住居を移しました。その地は、かつての鷺沼海岸、伊藤飛行機研究所の滑走路だったのです。

 

 音次郎の人生は、まさに飛行機一色に染められた人生でした。多くの栄光と挫折の中、生涯にわたり飛行機を愛し、飛行機と共にあり、民間航空の発展を願い続けていました。郷土習志野で活躍した「伊藤音次郎」を知り、そして後世に伝えていこうではありませんか。

(編集部より)
追加情報:
 山縣豊太郎ら飛行機事故の犠牲になった人たちを慰霊する「航空神社」は千葉郡津田沼町鷺沼(現習志野市鷺沼)の伊藤飛行機製作所の敷地内に作られました。
 音次郎は、戦後GHQの航空禁止令を受けて航空界から引退し、農業に転身、成田市東峰に入植し、昭和28年(1953)航空神社は鷺沼から東峰の地へ移されました。その際神奈川県二宮神社から勤労の神とされる二宮尊徳を授かり、この神社の祭神としました。
「航空神社」から東峰集落の産土神社(うぶすなじんじゃ:土地を守る神社)に変わったんですね。

(飛行機が轟音を立てて真上をかすめる、現在の「東峰神社」)


 しかし空港問題が起きると音次郎は土地を空港公団に売却し、思い出の地、鷺沼海岸(現袖ヶ浦)に移ります。「伊藤飛行機研究所」設立の地、稲毛での「民間航空発祥之地」記念碑建設に尽力し、1971年に80歳で亡くなります。

「航空神社」に祀られていた8人の御神体は音次郎氏のご遺族の意向で、東峰神社から芝山町の航空科学博物館の野外展示場に遷座(せんざ)しました。

 

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コメント (2)
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