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習志野歴史散歩:騎兵旅団の光と影

2020-08-18 00:00:35 | 歴史

騎兵旅団の光と影

*7月10日の投稿「鷺沼から頼朝が出陣!」について、大久保の騎兵連隊の話を、というコメントをいただいたので、そのお話をしようと思います。今日的ではない内容ですし、軍隊に関するマニアックな話も含まれますが、戦争賛美、軍隊礼賛のつもりは毛頭ありません。その点、ご理解ください。

大久保の八幡公園のところにあった騎兵旅団司令部

 大久保の八幡公園(はちまんこうえん)はかつての騎兵旅団司令部跡。
(上段の写真は現在の八幡公園。中段は市民プラザ大久保。下段はそこに騎兵旅団司令部があった当時の写真)


北側のバス通りに沿って西から陸軍病院(現・済生会習志野病院)、騎兵第13連隊(東邦大学)、第14連隊(日本大学)。三山へ抜ける道を挟んで第15連隊(東邦大附属中・高)、第16連隊(いわゆる“習志野の森”)
「習志野の森」一般開放日(ちいき新聞の記事より) - 住みたい習志野
と4つの連隊が並び、旅団司令部はこれらと顔を合わせるように北を向いて建っていました。

(上の図は、「新版習志野ーその今と昔(習志野市教育委員会)」より転載


「旅団」とか「連隊」って何?


(秋山好古(あきやま よしふる)と、大久保商店街にある顕彰碑)

 ところで、旅団長・秋山好古(あきやま よしふる)は「騎兵の父」と呼ばれているのに、彼が作った騎兵連隊はなぜ13、14…という中途半端な番号なのでしょう。騎兵の父なのですから、当然第1連隊になるのではないでしょうか? いや、そもそも「旅団」とか「連隊」とは何なのでしょうか。

軍事作戦を行うための最低限の単位が「師団」

 陸軍が一つの作戦を行うための最低限の単位は「師団」とされています。師団は歩兵連隊4つ、それに砲兵、工兵、騎兵、輜重(しちょう:今の言葉では、「兵站(へいたん)」)といった部隊から構成されます。これは、ナポレオンの軍隊の編成を、その後、各国が真似たものです。

 このことはオーケストラに例えてみるとわかりやすいと思います。第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスといった弦楽器が並んでいますが、弦楽器だけではオーケストラになりません。そこに金管楽器、木管楽器、打楽器が加わって初めて、多彩な管弦楽曲が演奏できることになります。それと同じように、軍隊が攻撃を行うとき、歩兵が敵陣に突撃するだけでは作戦になりません。まず砲兵が敵陣に砲弾を撃ち込み、歩兵が突入する突破口を開けます。工兵は敵のバリケードを破壊したり、堀に橋を仮設したりします。騎兵は馬で、偵察や伝令に走り回ります。それぞれの部隊がそれぞれの役目を果たし、協力して、やっと一つの作戦ができる。この最低限のワンセットが「師団」です。

陸軍には13の師団(近衛師団と第1〜第12師団)があり、1〜12の各師団に1つずつ騎兵連隊が所属していた。

 日清戦争の後、ロシアとの関係が風雲急を告げてきた頃、日本陸軍にはこの師団が13個ありました。近衛師団と、第1師団から第12師団までの計13個師団です。そして、近衛師団には近衛騎兵連隊、第1師団には騎兵第1連隊、第12師団には騎兵第12連隊と、各師団に1つずつ騎兵連隊が所属していたのです。

その頃の騎兵は伝令や偵察が任務だった

 ところで、蒸気機関やガソリンエンジンが登場するまで、人間が乗ることのできる最も速い乗り物は馬でした。師団司令部から前線に命令を伝えに走ったり、前線の様子を司令部に報告したり、あるいは敵陣の裏側まで偵察しに行ったりするのに、馬はなくてはならないものでした。そのために、各師団に1つづつ、騎兵連隊が置かれていたわけです(もう一つ、重い大砲を乗せた砲車を引っ張ったり、前線へ運ぶ弾薬や食糧の車を引っ張ったりする仕事も馬の役割でしたが、これらは砲兵連隊や輜重兵連隊の仕事です)。

習志野に騎兵第1・第2旅団が創設され, 第13~第16騎兵連隊が置かれた

 これで、秋山好古が習志野に騎兵旅団を作った時にはすでに騎兵第12連隊までが存在していたこと、次の新設部隊は第13連隊になることがわかると思います。なお、日露戦争の末期には第13師団から第16師団までの4個師団が新設されますが、そこに属している騎兵連隊はそれぞれ騎兵第17連隊から騎兵第20連隊と、師団の番号と合わなくなってしまいます。習志野に秋山の、第13から第16まで4個連隊が既に存在するからですね。

この4個連隊は、それまでの連絡用の騎兵と違い、コサック軍団と戦う特殊部隊だった

 このことは何を物語っているかというと、習志野の騎兵は伝令に走ったり、偵察に行ったりするための部隊ではないということです。ロシアとの戦争になった場合、ロシアのコサック騎兵軍団と戦わなければなりません。馬を自由自在に操るコサック騎兵の大軍が、歩兵のように密集して、しかもそれが馬の足のスピードで突撃してくるのです。伝令や偵察を任務とする普通の騎兵では、これを迎え撃つことなどできません。そこで、対コサックのための特殊部隊として習志野の4個連隊が生まれたわけです。

(ロシアのコサック軍団)

師団ー旅団(歩兵連隊2つ分)ー連隊

 次に、「旅団」ですが、先ほど1つの師団の中に歩兵連隊が4つあると言いました。この歩兵連隊を2つで1旅団とします。ですので、1つの師団に歩兵は2個旅団、師団長と連隊長の間に旅団長がいる、ということになります。

騎兵第1旅団も騎兵第2旅団も八幡公園の所にあった建物に同居しており、事実上「独立軍団」だった

 習志野の騎兵は今述べたように本来特殊な部隊なのですが、騎兵第13・第14連隊、それに近衛騎兵連隊(東京)を加えた3個連隊を騎兵第1旅団(旅団長・秋山好古)として、近衛師団に所属させます。また第15・第16連隊、それに騎兵第1連隊(東京)を加えた3個連隊を騎兵第2旅団(旅団長・閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう))とし、第1師団に所属させます。しかし両旅団の司令部は、八幡公園にあった一つの建物に同居していました。そして、日露戦争の実戦においては「秋山支隊」ということで、所属する各師団とは事実上独立して、言うなれば秋山騎兵「師団」のような形になったわけです。

歩兵連隊は1700名くらい、騎兵連隊は800名以上

 次に、それでは騎兵1個連隊にはどのくらいの兵員と馬がいたのでしょうか。

 まず比較のため、歩兵連隊の編成を見てみましょう。1個連隊は3個大隊から成り、1個大隊は4個中隊から成ります。つまり、1個連隊に中隊は12個ありました。そして1個中隊は、将校5名、下士官10名、兵卒120名というのが標準でした。連隊全体では、本部も含めて1700名ぐらいになりました。なお、各中隊の下はさらに、それぞれ3つの小隊に分れました。

 これに対して、騎兵連隊では大隊を置かず、3個中隊で編成されます。1中隊は160名ほどでした。しかし、騎兵旅団に所属する騎兵連隊、つまり対コサック用の連隊は5個中隊編成とされましたから、習志野の各連隊にはそれぞれ800名以上がいたことになります。そして、各連隊でそれに見合う軍馬が飼育されていました。また、馬の世話をする馬丁(軍属)や糧秣廠(りょうまつしょう、秣(まぐさ)の倉庫。現在の市立習志野高校)に秣を納める農家など、騎兵連隊を支える地域の人々がたくさんいたことも忘れてはいけません。

第一次大戦で戦争が一変、総力戦(飛行機、潜水艦、戦車、毒ガス)の時代へ

 日露戦争から騎兵旅団が習志野に凱旋して10年ほど後、第一次世界大戦が勃発します。そして第一次世界大戦の4年間で、戦争の様相は一変してしまいます。ヨーロッパからもたらされる報告は、飛行機、潜水艦、戦車、毒ガスなど次々と新兵器が登場しており、さらに都市空襲の開始によって無辜の民も戦争に関係ないとは言っていられなくなったことを告げていました。恐ろしい総力戦が始まったのです。

 日本はこの大戦に飛行機を実戦使用することはできましたが、その他の新兵器はまったく準備できていませんでした。しかも、大戦後の世界は軍縮の方向へと向かいます。陸軍では歩兵連隊の3単位制が導入されます。先ほど、歩兵連隊の大隊は4個中隊から成っていると言いましたが、大正11年(1922)からは3個中隊で1大隊として兵員を減らしています。同じように、各師団の騎兵連隊は1連隊が3個中隊だったものを2個中隊とし、習志野の旅団騎兵は1連隊が5個中隊だったものが4個中隊に縮小されました。

このように一方で新兵器が登場し、一方で軍縮が進む中、このままでは日本の国防が立ち行かなくなってしまうとあわてる日本陸軍にとって、特に戦車と毒ガスに対する対応は急務でした。

騎兵戦から戦車戦へ(機甲部隊化)

 塹壕(ざんごう)を簡単に乗り越え、逃げ惑う敵兵を踏みつぶし、大砲を撃ちまくりながら驀進(ばくしん)する戦車は、騎兵の存在を一挙に色あせたものにしてしまいました。日本はあわててフランスから、ルノー社製の戦車を買い込み、福岡県久留米と千葉歩兵学校に訓練隊を作ります(後に日本最初の戦車連隊として、久留米に戦車第1連隊、習志野に戦車第2連隊が置かれます)。そして、騎兵は順次、戦車隊や装甲車の部隊(機甲部隊)に改編していく方針となりました。

毒ガス開発も進む

 もう一つの毒ガス兵器については、世界ではこれを禁止する条約を作ろうという声が高まります。とりわけ日本は、これから後発で研究を始めなければならないのでどうしても不利なこと、また毒ガスで動けなくなっている敵を襲うのは武士にあるまじき卑怯だ、ということで全面禁止を訴えましたが、大正14年(1925)にできたジュネーヴ条約では、毒ガスを国際戦争で使用することを禁じただけで、製造したり防御法を研究することまでは禁止されませんでした。また、敵がそれでもあえて使用した場合には、同害報復、つまりこちらも毒ガスを使用して報復することは合法とされました。そこで日本も、大急ぎで毒ガス戦の準備を始めることになります。

騎兵連隊も戦車連隊に代わり、毒ガス戦訓練のための「陸軍習志野学校」も開設

 こうした時代の波が、習志野の兵営にも及んできました。昭和に入ると、騎兵第1旅団は満洲事変に出征します。「騎兵集団」という名前で活動しましたが、実際には機甲部隊化が進められていました。

騎兵第2旅団だけになった習志野では、第16連隊がいちばん西の第13連隊の跡に移り、第14連隊の跡には昭和9年(1934)、戦車第2連隊が駐屯することになります。そして第16連隊の跡には毒ガス戦の訓練を行う「陸軍習志野学校」が開設されました。また、陸軍病院の南側には騎砲兵連隊(後に騎砲兵第2連隊)が開設されます。騎砲とは、騎兵のスピードを損なわないよう軽量化した大砲のことです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E7%BF%92%E5%BF%97%E9%87%8E%E5%AD%A6%E6%A0%A1

(青線で囲まれた部分が、陸軍習志野学校跡地)

 満洲事変(昭和6年)に続き、昭和12(1937)年には日華事変(日中戦争)が勃発します。それも長期化し、さらに日米戦争の危機がささやかれるようになる中、騎兵の機甲兵への転換が仕上がったことにかんがみ、昭和16年(1941)、騎兵第2旅団は解隊となります。配下の騎兵第15、第16連隊、騎砲兵連隊も解隊され、最後に騎兵第73連隊という部隊が編成されます。騎兵と謳っていますが実際には機甲部隊で、年末に満洲に向けて習志野を発ちました。空家になった第15連隊跡には隣の陸軍習志野学校が拡張されています。

 また、満州で「騎兵集団」となっていた騎兵第1旅団は、太平洋戦争に入った昭和17年(1942)10月に解隊され、各部隊は内蒙古で編成された戦車第3師団の中に改編されていきます。騎兵第13、第14連隊は昭和18年に軍旗奉還を行い、完全に解隊されました。

習志野から騎兵は消え、戦車連隊と陸軍習志野学校に。旅団司令部は将校クラブに

こうして習志野の兵営から騎兵の姿は消え、戦車第2連隊と陸軍習志野学校が肩を並べていたわけです。騎兵第16連隊(当初第13連隊)の跡には東部軍自動車隊が入ったようです。また騎砲兵連隊の跡はどうなっていたのか、はっきりしませんが、次々と習志野で編成されては戦地に送られる戦車部隊などの宿営に使われたものと思われます。旅団司令部だった建物は、将校クラブである「偕行社」になっていました。

関東大震災の混乱の中、騎兵連隊が出動し、朝鮮人を虐殺。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマが流され、日本人の「自警団」も朝鮮人に襲いかかった

 習志野の騎兵というと「日露戦争の栄光」だけで終ってしまうのが通例なのですが、もう一つ、書き落とすわけにはいかないことがあります。それは大正12年(1923)の関東大震災の折の出動です。

 この年9月1日午前11時58分、南関東を巨大地震が襲いました。地盤が弱い横浜は壊滅し、東京市内ではあちこちで大火災が発生していました。折悪しく政府は、加藤友三郎首相が8月24日に病死したばかりで、この事態に即応することが出来ませんでした。摂政宮裕仁(ひろひと)親王(後の昭和天皇)は、外務大臣内田康哉(こうさい)を首相臨時代理とし、内務大臣水野錬太郎(みずのれんたろう)と警視総監赤池濃(あかいけあつし)を震災対策に当らせました。

※水野錬太郎も赤池濃も内務官僚。米騒動の時、水野は内務大臣でした。朝鮮全土に広がった「三・一万歳事件」のあと朝鮮総督府に二人とも送り込まれた(水野は総督府政務総監、赤池は総督府内務局長、警務局長を務めた)という経歴から、二人とも民衆の運動を恐怖し、過剰に弾圧した、とも言われています。
(米騒動)

(三・一独立運動)


 しかし事態は悪化する一方で、翌2日、新たに海軍大将山本権兵衛(やまもとごんべえ、公称では、ごんのひょうえ)に組閣を命じます。ところが、これに一歩先んじて被災地に戒厳令が施行されてしまいます。戒厳というのは国内の一部に軍政を布くことで、通常の行政権は停止され戒厳司令官の命令下に入るのです。この時、被災地には「朝鮮人が井戸に毒を投じている」「朝鮮人テロリストが爆弾を投げている」といった噂がたちまち広がり、怒った市民が自警団を組織しては朝鮮人に襲いかかるという事件が頻発していたのです。大正8年(1919)には朝鮮で、三・一事件(朝鮮独立を求めるデモが半島全土で争乱となった)があったばかりなので、こうした噂がパニックの中で、かなりの真実味を持って受け止められたことは間違いありません。

 なぜ新内閣の発足を待たずに軍政が開始されたのかは、一つの謎とされています。戒厳令は、単なる大災害では発動されるものではありません。東京では過去に1回(明治38年の日比谷焼打ち事件)、この後1回(昭和11年の二・二六事件)、そしてこの関東大震災と計3回、戒厳令が施行されたことがありますが、日比谷の焼打ちにしても二・二六事件にしても、内乱に近い状態、鎮圧すべき「敵」がいる状況での軍隊出動でした。関東大震災では朝鮮人暴動を対象と見込んだようですが、結果としてこれはデマだったのに、それとわかっても戒厳令は撤回されませんでした。そこで現在では、自然発生的なデマなどではなく、逆に、戒厳令ありきの政府が後付けで、朝鮮人の暴動などという虚偽情報を意図的に流したのではないか、と疑う歴史家すらいます。しかしまた、朝鮮の独立運動家の中には当時、爆弾闘争などのテロリズムを否定しない一派がいたことも事実であり、戒厳令が出された経緯については今後も議論が続くことでしょう。
※関東大震災の時、治安警察法で逮捕され、大逆罪にされた朝鮮人無政府主義者「朴烈(ぼくれつ、パクヨル)」を主人公にした映画が日本でも上映されました。

「金子文子と朴烈」(原題「박열 パク ヨル」)

 こうした中、習志野の各騎兵連隊にも被災地への出動が命令されます。2日夜には、騎兵第15連隊の兵隊が南行徳村下江戸川橋際で朝鮮人3名を射殺、翌3日夕方には浦安村役場前で朝鮮人3名を射殺、4日夕方には下江戸川橋北詰で朝鮮人7名射殺といった記録が見られます。騎兵第15連隊は、その後、横浜に派遣され東神奈川でも朝鮮人殺害を行ったとされています。また東京では、小松川や四ツ木橋で習志野から来た騎兵連隊による虐殺があったと伝えられています。

(千葉県や東京での朝鮮人虐殺事件の聞き書きをまとめた本「いわれなく殺された人びと」)

(大震災時の朝鮮人虐殺をあつかった珍しいモノクロ映画「大虐殺」。天知茂さんが無政府主義者の青年を好演しました。)

 隣の騎兵第16連隊で見習士官であったプロレタリア作家の越中谷利一(えっちゅうやりいち)は、「僕がいた習志野騎兵連隊が出動したのは、9月2日の時刻にして正午少し前頃であったろうか。とにかく恐ろしく急であった。人馬の戦時武装を整えて営門に整列するまでに所要時間僅かに30分しか与えられなかった。二日分の糧食及び馬糧、予備蹄鉄まで携行、実弾は60発。将校は自宅から取り寄せた真刀で指揮号令したのであるから、さながら戦争気分…」と書き記しています(越中谷利一「関東大震災の思い出」)。つまり、各騎兵連隊に被災地への出動が命じられた、と言っても、それは罹災者の救援や被災施設の復旧のためではなく、戒厳令の対象と目される朝鮮人暴徒の鎮圧のために、軍事行動として出動したのだということがよくわかるのです。

朝鮮人ばかりでなく、社会主義者、無政府主義者も虐殺された

①甘粕事件

 事態は朝鮮人だけではなく、まるで大震災が起こるのを事前に予知していたかのように、社会主義者の弾圧や中国人への加害にまで広がります。有名な甘粕事件(甘粕憲兵大尉がアナキストの大杉栄、伊藤野枝(のえ)らを殺害)をはじめ、罹災者(りさいしゃ)の救援などそっちのけで、どさくさまぎれに反体制活動家の殺害を始めるのです。

 ②亀戸事件と大島町事件

 その一つに、亀戸事件があります。
 当時まだ、東京府南葛飾郡亀戸町だった亀戸の警察署が、以前から労働争議で目をつけていた川合義虎(かわいよしとら)、平澤計七(ひらさわけいしち)ら10名の社会主義者をこの機に逮捕、留置していたところ、9月3日から4日にかけて、この地に出動してきた騎兵第13連隊が留置場内及び荒川放水路で刺殺してしまった、という事件です。
 平澤の友人だった小説家、菊池寛は「あんなに落ち着いている思慮ある人が、ああした天災のとき、乱暴を働いたとは何(ど)うしても思われない。もっとも、人は不当に拘引すれば誰だって多少の抵抗はするだろう。それを理由にして殺すとすれば、あの場合誰だって殺しうる」(「文芸当座手帳」)と、怒りを隠さなかった。

 また、亀戸の南、大島町でも事件が起こります。大島町事件といわれるものは、3日の午後3時ころ、大島八丁目で群衆と警官4、50名が 「約200人の鮮人団を連れてきて」その「始末」を協議していたところ、ここに行き合せた騎兵第14連隊の三浦孝三少尉以下11名がこの「鮮人団」を全員殺害してしまった、というものですが、ここで「鮮人(朝鮮人)」とされたのは、実は中国人(当時の言い方では支那人)ではなかったかと推測されています。ただでさえ震災で酸鼻(さんび)を極めている下町に、こうして血なまぐさい殺害事件が広がっていきました。

 このあたりから、軍や警察も、朝鮮人暴動の話はどうやらデマではないかと気づき始めます。しかし情報を信じ込んでしまった自警団の怒りは収まらず、朝鮮独立運動とは関係ない朝鮮人、さらに朝鮮人ではないかと疑われた日本人まで殺害されるようになってしまいます。埼玉県の本庄では4日、警察署が多数の朝鮮人労働者らを保護したところ、警察署を取り囲んだ群衆約4千人が暴徒化して襲いかかり警察署に放火、署内にいた朝鮮人86名が逃げられず焼死した他、応戦した警察官も多くが重傷を負う、という事件まで発生してしまいます。

習志野捕虜収容所跡に朝鮮人、中国人を収容するよう軍が命令
 こうした中で戒厳司令部(司令官・福田雅太郎大将)は、被災地にいる朝鮮人・中国人を、ひとまず保護収容することにします。収容先には習志野の、東新廠舎(3年前までドイツ捕虜が収容されていた)を使うことにしたようです。9月4日午前10時、第1師団長は騎兵第2旅団に

1.東京付近の朝鮮人は、習志野俘虜収容所に収容することに定めらる。

2.各隊はその警備地域附近の鮮人を適時収集し、国府台兵営に逓送す。

3.貴官は習志野衛戌(えいじゅ)地域残留部隊を以て、国府台にて鮮人を受領し、之を護送して廠舎に収容し、之が取締りに任ずべし。

4.鮮人の給養主食日糧米麦2合以内、賄料日額15銭以内とし、軍人に準じて取り扱うべし。

という命令を出しました。


 ③王希天事件

 保護した朝鮮人・中国人を習志野に送る列が続きましたが、その中で今度は、王希天事件が起こります。中国人留学生の王希天(おう きてん、ワンシーティエン)はキリスト教徒で、中国人労働者が多かった大島町で彼らの生活を援助する社会活動をしていましたが、朝鮮人・中国人を習志野へ護送する任務を行っていた野戦重砲兵第1連隊(国府台)の依頼を受け、亀戸駅前に置かれた「支鮮人受領所」で護送業務に協力していました。ところがその後、亀戸警察署に拘束され、野戦重砲兵第1連隊の垣内八洲夫中尉に斬殺されてしまったという事件です。

王希天

習志野収容所で「保護」したはずの朝鮮人が八千代の村々に「払い下げ」られて、殺害された、という研究者

 この王希天事件には騎兵は関わっていないようですが、不可解な殺害はさらに習志野でも続きます。保護収容されたはずの収容所から、何人かが引きずり出されては殺害されているのです。

 この問題を研究してきた大竹米子さんは、習志野収容所で殺害されたのは不穏分子と見なされた16名であり、収容所内で殺されたのではなく、高津(たかつ)、大和田新田、萱田(かやだ)の村々(いずれも八千代市内)に「払い下げ」て、村人に殺させたのだと調べ上げています。また、保護収容というのも名目で、最初から反抗的な者をあぶり出し、殺害する目的だったのではないかとも考えておられるようです。

(2016年9月1日付け東京新聞記事)

習志野(大久保の墓地)でもあった、という會澤証言

 こうした殺害は八千代市内だけでなく、習志野市内でも起ったと証言したのは、当時騎兵第16連隊にいた會澤泰氏(あいざわ やすし、後に習志野市議会議員)です。

 関東大震災の時、ちょうど私は連隊本部の書記をしていました。

 軍隊に1本きりない電話に、師団司令部から電話が入って、東京に火災がおきたっていうんですよ。夜の11時ごろでしょうか、週番司令のところへかかってきて、「なるべく最大限の兵力を用意して東京の救援の準備をしてくれ」。すぐに連隊長のところへ伝令が飛ぶ。(中略)

 私は石神井に2週間いて引き上げてきたんですが、そうしたら朝鮮人は、朝鮮人ばかりじゃないですから、日本人も混じっていた。大震災にあった人たちを習志野の東廠舎(しょうしゃ)、西廠舎へ連れてきて、みんな収容したんです。

 ところが朝鮮人がどれで日本人がどれかわからないでしょう。言葉はみんな日本語だしねぇ。顔つきがこう朝鮮人みたいな顔をしてるのはみんな、日本人でもやられちゃったんじゃないですか。救護する目的で連れてきたんですけれども、朝鮮人が暴動起こしそうだちゅんで、朝鮮人をひっぱり出せということで、ひっぱってきたんですねぇ。私の連隊の中でも16人営倉に入れた。それが4個連隊あるんですから。

 おかしいようなのは、みんな連隊にひっぱり出してきては、調査したんです。ねえ、軍隊の中で…そしておかしい様なのを…ほら、よくいうでしょう…。切っちゃったんです。日本人か朝鮮人かわからないのもいたわけですね。切ったところは、大久保の公民館の裏の墓地でした。そこへひっぱっていってそこで切ったんです…。

私は切りません。…30人ぐらいいたでしょうね。ところが、私の連隊ばかりじゃない。他の連隊もみんなやる。いきなりではなく、ある程度調べてね。何しとったんだか、どこにいたんだかを。

われわれ、軍隊におりながら、そんなのが営倉から引っぱりだされると、切られるんだなあと、かわいそうになりましたよ。私は、2回か…切られるところまで行ってみましたけどね。後はもういやになったから行かなかった。一晩に3人ぐらいおこなったんじゃないですか。

営倉の中にいる人たちは、呼ばれたきり、帰って来ない、変だなくらいに思っていたんじゃないですか。

ちょうど、たまたまそのころに、小松川(江戸川区)というあそこの橋で朝鮮人が暴動を起こしたっていう連絡があったんですねえ。それでこっちの収容所へ入れてあるのもみんな調査はじめたわけです。調査をして、おかしいのをひっぱり出した。

小松川なんかあれですよ。向こうから朝鮮と思われるようなのをまとめて追い出し、こっちから機関銃ならべて撃ったんですよ。橋の上で、もうみんな、それが川の中へバタバタ落っこちちゃったわけですねぇ。
(「いわれなく殺された人びと」(青木書店)より)

 この會澤証言によれば、八千代市内で「払い下げ」られて殺害された16名の他に、各騎兵連隊が収容所から連隊の営倉に移し、大久保の村墓地で殺害した者が30人ぐらいあった、ということになりそうです。「石神井に2週間いて引き上げてきた」というのですから、9月も中旬以降の話なのでしょうか。なお、會澤氏は「大久保の公民館の裏」と言っていますが、当時もちろん公民館はなく、大久保村の墓地になっていました。太平洋戦争の後、墓地は改葬されて大久保・薬師寺境内の納骨堂に移され、その跡地に大久保公民館・市民会館や図書館が作られたのです。

また、「関東大震災ト救護警戒活動」という憲兵隊の資料には、「習志野鮮人収容所警戒に就ては、習志野憲兵分隊を以て之に充当せしむるの外、鮮語に通暁せる上等兵3名を私服にて収容所内に派遣し、鮮人の動静知悉に努めしめ、有力な資料を得たり。」とあるそうです。つまり、朝鮮語がわかる憲兵3名を私服で収容所内に紛れ込ませ、會澤証言のいう「おかしいようなもの」をあぶり出していたということがわかっています。

 以上の証言の裏付けになるのか、それとも別の事件を物語るものなのかはわかりませんが、当時、政治学者の吉野作造(民本主義の提唱者)は、朝鮮人の被害状況につき「朝鮮罹災同胞慰問班」から聴き取った大正12年10月末日までの数字として、「千葉県習志野、軍営倉内、虐殺12名」と記録しています。(會澤証言の「30名ぐらい」とは数字が食い違っています)

政府の報告書にも軍隊による朝鮮人や日本人の殺害が記録されている

 また、内閣府中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書」の第3期報告書「1923 関東大震災【第2編】」(平成20年3月)
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/index.html
は、「『兵器使用一覧表』には、軍隊による内地人の殺害として、5日に習志野廠舎収容避難民のうち反抗的態度をとった8名を憲兵分隊に護送中、暴行したため全員を刺殺した件…が記載されている。」と述べています。原資料である「兵器使用一覧表」は東京都公文書館所蔵「関東戒厳司令部詳報」の中にある「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル一覧表」だそうです。

 また、司法省「震災後に於ける刑事事犯及び之に関連する事項調査書」には「軍隊の行為に就て」として、9月5日午後10時頃、大久保村南端、軽便鉄道踏切付近で邦人8名が騎兵第14連隊によって刺殺された旨が記載されています(「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」(みすず書房・1963年))。

「非常事態下のこと」として責任はあいまいにされた

 殺害などを行った各地の自警団、民間人に対する捜査や裁判は、非常事態下でやむを得なかったものとして不徹底に終りました。また、軍隊による虐殺もその後、責任が問われることはありませんでした。

 習志野に収容された朝鮮人は約3千2百人、中国人は約6百人、計約3千8百人で、その中には誤認された日本人もいたであろうという数字をよく見かけるのですが、3年前まで収容されていたドイツ兵は約1千人でしたから、その施設へ本当に4倍の人数を詰め込んだのかどうかは検討する余地がありそうです。

 習志野市役所刊行の「習志野市史」には、こう書いてあります

 警察や軍隊は虐殺を行う一方で、無差別的な襲撃から朝鮮人・中国人を守るために保護し、4000人近くを習志野の捕虜収容所に送り込んだ。しかし、習志野も安全を保障するところではなかった。収容所の中では憲兵が彼らの言動や思想を調査し、不審な者は営倉に入れられ、300人ほどが行方不明になったといわれる。(習志野市史第1巻より)

 収容所からの解放が始まったのは9月下旬だったようです。解放された数は約3千5百人とされ、その差300人ほどが行方不明(上記の「習志野市史」の記述)で、殺害されたのではないかと疑う説もあるようですが、これはわかりません。鉄条網を破って逃走されたり、日本人とわかって解放したような数値は、記録しなかったことも考えられるからです(軍としても体裁が悪かったでしょうから)。
史実をむやみに隠すことも、史実をやたらに誇張してしまうことも、歴史の真実を見えなくしてしまい、間違いだと言うべきでしょう。

陸軍ニ於テ収容シアル朝鮮人ノ情況

 なお、「陸軍ニ於テ収容シアル朝鮮人ノ情況」という10月12日付の文書(海軍省公文備考、アジア歴史資料センター・レファレンスコードC08050973500)では、「習志野廠舎ノ状況」として、「訪問者ノ感想」という項目を記載しており、鮮人李相恊(在鮮新聞記者)、英人宣教師、朴春琴(日鮮起業株式会社取締役)、崔承萬(基督青年会幹事)及其他多数ノ慰問者アリタルニ、収容者ガ邦人罹災者以上ノ優遇ヲ受ケツツアルヲ見テ感激ノ声ヲ漏スモノ多ク、訪問者ニ対シテハ一般ニ好感ヲ与ヘタルモノト認ム、と書かれています。訪問の日時の記載はなく、これを軍のプロパガンダと見るかどうかはともかくとして、習志野にこのような訪問者があったことは事実なのでしょう。

 ともあれ、習志野騎兵連隊の歴史の中で関東大震災は大きな暗部になったまま、3年後には100年を迎えようとしています。

「軍縮」に反発する将校が先鋭化し、軍縮への反動として軍事教練が始まる

 戒厳司令官だった福田大将が甘粕事件の責任を問われて更迭された後、戒厳司令部の指揮を執った山梨半造大将は、加藤友三郎内閣の陸軍大臣でした。大震災が起こる前年、史上初の軍縮を断行します。世にこれを「山梨軍縮」と言いますが、先に見たように歩兵大隊を4個中隊編制から3個中隊編制にするなど、大幅な軍縮を行いました。しかし皮肉にも、これでは将来の戦争は戦えないと危機感を募らせ、先鋭化していく将校が陸軍部内に増えていきました。軍縮の反動として、中学校では軍事教練が行われるようになりました。そして、騎兵の機甲化もいっそう促進されることとなったのです。

硫黄島に散った栗林大将もバロン西と同じく習志野ゆかりの人

 このように、戦車部隊に改編されていった習志野騎兵の最後の戦いは、昭和20年3月の硫黄島の戦いでした。昭和7年(1932)のロサンゼルス・オリンピックの馬術で金メダルに輝いた、習志野ゆかりの西竹一中尉(バロン西)なども、その後、戦車第26連隊長として硫黄島で戦死したことは以前お話しました。

 今日はもう一人、硫黄島で戦った習志野ゆかりの将軍をご紹介しておきます。栗林忠道(くりばやし ただみち)大将。クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」では、渡辺謙さんが栗林大将を熱演しました。


※ビデオの中で「若造、お前はアメリカ人に会ったことがあるのか?」と言っているのが「バロン西」(演じているのは伊原剛志さん)です。


 栗林忠道(1891~1945)は長野県松代(まつしろ)の人。少年時代から文才に秀で、新聞記者を志した時期もありましたが、陸軍士官学校へ入学。大正3年(1914)に卒業すると、騎兵第15連隊附となって初めて習志野に来ます。大正6年(1917)には陸軍騎兵学校学生として馬術を専修。大正12年(1923)には陸軍大学校を卒業し、騎兵第15連隊の中隊長として再び習志野で勤務しました。

 その後、駐米大使館附武官、駐カナダ大使館附武官を歴任し、陸軍部内ではアメリカをよく知る、国際情勢にも明るい教養人として知られていました。昭和12年(1937)には騎兵大佐に昇進し、陸軍省兵務局馬政課長となります。翌13年、馬政課長として軍歌「愛馬進軍歌」の選定に携わります。国民に軍馬についての啓発を図るため、歌詞を一般から募集しようということになり、馬政課には全国から3万9千通もの応募作品が寄せられたと言います。その中で、四国の電力会社社員だった久保井信夫氏の作品が選ばれます。「国を出てから幾月ぞ、ともに死ぬ気でこの馬と、攻めて進んだ山や河」。北原白秋、西條八十(さいじょう やそ)らそうそうたる審査員が選んだ作品でしたが、首をひねっていた栗林はポケットからおもむろに赤鉛筆を取り出すと「取った手綱に血が通う」と書き加えた、といいます。また、やはり啓発のため、松竹で「暁に祈る」という映画を制作することになった際、栗林はその主題歌の案が気に入らず、作詞者に7回も書き直しさせたという伝説があります。そのせいか、この主題歌は大ヒットとなりました。昭和15年(1940)には陸軍少将に昇進し騎兵第2旅団長、同年12月には騎兵第1旅団長となり、三たび習志野で過ごします。旅団司令部の南側にある誉田八幡神社の参道には、栗林が揮毫(きごう)した「紀元二千六百年記念参道敷石竣工之碑」という石碑が残されています。端正な筆跡に人柄が偲ばれます。

 やがて太平洋戦争が始まります。陸軍きってのアメリカ通で、アメリカ人の友人も多かった栗林は対米戦争の無謀さを訴えますが、時代の波に飲み込まれてしまいます。そして昭和20年、小笠原方面陸海軍最高指揮官として、その無謀な戦争の結末を担わされることになったのは何とも皮肉な運命でした。硫黄島は地熱の高い火山島で、緑も水も、馬の活躍する場所もありません。戦車も砲塔だけ出して岩陰に埋め、砲台代りに使うありさまでした。

 栗林は、上陸して来る米軍に向ってむやみに勝算のない突撃をすることは禁じ、硫黄島の奥深くに誘い込んで持久戦に持ち込みます。摺鉢山(すりばちやま)に星条旗を立てて占領を宣言した米軍は、その後に本当の死闘が待ち受けていたことを知って慄然(りつぜん)としたと言います。しかし劣勢は覆いようもなく、栗林は大将に昇進した電報を受け取った後、3月26日、米軍が占領した飛行場に突撃して戦死したとされています。満53歳でした。

こうして習志野の騎兵は、明治以来のその歴史を閉じたのです。

映画「暁に祈る」

大衆文化評論家の指田文夫さんがこの映画について
「習志野にあった騎馬部隊で撮影された」「東宝の戦争映画と異なり、全く意気が上がらない」などと述べています。
『暁に祈る』

 ところで、この写真は栗林大将の陸軍省馬政課長時代(大佐)のものですが、詰襟に襟章が、この写真では黒っぽく写っているのがわかりますか。これは兵科色といって、歩兵は緋色、騎兵は萌黄、砲兵は黄色、憲兵は黒…と決まっていました。ですから写真では黒っぽく見えますが、この襟章は萌黄色なのです。そんなことも、「騎兵の町」としては記憶しておいてもいいでしょう。なお、この兵科色を付けるのは兵隊から大佐までで、将官は付けませんでした。また、昭和13年式軍服からは詰襟ではなく折襟になり、肩にあった階級章が襟に移動してきます。そんなマニアックな「有職故実(ゆうそくこじつ)」も、やがてわからなくなってしまうことでしょうね。

 ニュース映画の中の習志野練兵場

 また、習志野練兵場が写っているニュース映画があるので、リンクを貼っておきましょう。

日本ニュース 第45号    昭和16年(1941)4月15日公開
ニュース映像 第45号|NHK 戦争証言アーカイブス

〔賀陽宮殿下台臨習志野軍馬祭〕
無言の戦士、軍馬の労をねぎらわせ給う賀陽(かや)少将宮殿下のありがたい思し召しにより、殿下をはじめ奉り同妃殿下、若宮様、閑院若宮妃殿下おそろいにて台臨の下に、習志野営地習武台では4月13日壮烈な供覧演習を行いました。統裁官田原大佐の指揮刀閃くや、機械化部隊、歩兵部隊を加えた東西両軍の快速部隊は砂塵を上げて突撃戦を展開、実践さながらの攻防ぶりは頼もしき限りでありました。

日本ニュース 第72号 昭和16年(1941)10月21日公開
ニュース映像 第72号|NHK 戦争証言アーカイブス

〔習志野で学徒野外演習<週間話題>〕
秋草深き習志野原頭に、10月14日、都下23大学、7千の学徒を動員して迫砲部隊の第一回、野外連合演習が行われました。臨戦体制下、ペンを銃剣に替えて突き進む意気も鋭く、戦車、飛行機を加えての立体的機械化攻防戦に若き学徒の血は沸き立ち、実戦さながらの壮烈さ、見事な成績でありました。

騎兵旅団で歌われた「ブレドウ旅団の襲撃」

 ところで、騎兵旅団の兵営内で生まれ、騎兵将校の宴席などではさんざん歌われた歌がありました。「ブレドウ旅団の襲撃」という歌です。作詞・山本盛重、作曲・不詳とされていますが、堀内敬三著「定本 日本の軍歌」では、山本が習志野騎兵連隊勤務の折に作ったもの、と記していますから、メロディーもその場で誰かが付けたに違いありません。

 旧制高等学校の寮歌のような、悲憤慷慨(ひふんこうがい)調の歌ですが、いわゆる「物語歌」で、明治3年(1870)の普仏戦争の際、マルス=ラ=トゥールの戦いでアダルベルト・フォン・ブレドウ将軍の指揮するプロイセン騎兵旅団が果敢に突撃し、フランス軍に包囲された味方の危機を救ったという故事を、延々16番まで歌い上げるというものです。

義を見て勇むもののふの
心の内ぞゆかしけれ
屍は野辺に晒すとも
玲瓏の月は清く照り
芳名長く後の世に
聞かずや高く歌わるる
ブレドウ旅団の襲撃を

ああ見よ独の軍団は
数倍の敵を支えつつ
退くに退かれぬ梓弓
命の弦は危うくも
怒濤の内に包まれん
ただ天運に任せつつ
危機一髮のこの苦戦

友軍の急救うべく
頼むは騎兵旅団のみ
さわ言え神にあらぬ身の
矢玉飛交う只中に
いかで望みを果たすべき
進めば死すと知りつつも
友軍の急捨て難し    (以下略)

 作詞した山本盛重(やまもともりしげ:1882~1962)は、海軍大将山本権兵衛の甥に当ります。日露戦争さなかの明治37年(1904)に陸軍士官学校を卒業し、習志野の騎兵第15連隊に配属された折にこの詩を書いたと言います。その後、大正8年(1919)に大尉で予備役編入、大正10年からは学習院の馬術教官となります。昭和7年(1932)のロサンゼルス・オリンピックには、西竹一中尉(バロン西)らと共に馬術に出場しました。

替え歌

 このブレドウ旅団のメロディーには替え歌も多く、陸軍士官学校では「嗚呼玉楼の」という詞を付けて愛唱されていたそうです。また、千葉県では佐倉の歩兵第57連隊の隊歌として使われたということです。

(千葉県下全域から徴兵された歩兵第57連隊は、昭和19年(1944)11月、フィリピン、レイテ島リモン峠の戦いで全滅したことを付記しておきます。)

 ともあれ、かつてこんな歌を唸りながら大久保の夜の町を、陸軍マントをひるがえしながら闊歩した騎兵将校の姿があったことも、「騎兵の町」の歴史としては記憶しておきたいですね。

「時代の価値観をこえて保存し、記念すべきもの。それが、文化」(東邦大学の中にある司馬遼太郎文学碑)

 軍郷・習志野の象徴だった騎兵の話の最後に、東邦大学習志野キャンパス内にある司馬遼太郎文学碑のことをご紹介しておきましょう。東邦大学は騎兵第13連隊、後に第16連隊の兵営があった跡地であることはお話しました。

 小説「坂の上の雲」で秋山好古・真之(さねゆき)兄弟と日露戦争を取り上げた作家・司馬遼太郎(1923~1996)は、本名・福田定一(ふくだていいち)。昭和18年(1943)大阪外国語学校から学徒出陣となり、兵庫県青野ヶ原にいた戦車第19連隊に入隊します。その後、満州の四平陸軍戦車学校に入校。卒業後は、牡丹江(ぼたんこう、ムーダンジャン)に展開していた戦車第1連隊(久留米)の第3中隊第5小隊に小隊長として配属され、昭和20年には本土決戦に備えて栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた、という経歴の持ち主です。戦車の前身は騎兵であったことから、秋山好古に注目して生まれたのがあの「坂の上の雲」だということです。

 その司馬氏の自筆を黒御影石に刻んだ文学碑には、「かつて存在せしものは、時代の価値観をこえて保存し、記念すべきものである。それが、文化というものである。 司馬遼太郎」と記されています。
 「郷土資料館など不要」とする習志野市には、ちょっと耳が痛い言葉かも知れません。ちなみに、碑が立っている東邦キャンパスは習志野市ではなく、船橋市三山2丁目だそうです。



えっ?金日成が習志野騎兵連隊にいた?

 また、騎兵連隊にはこんな話もあります。
 北朝鮮の故金日成(キム・イルソン)主席は、抗日ゲリラで活躍したさまざまな英雄たちをモデルにして「金日成神話」を作り上げ自らの神格化を行った、と言われていますが、中でも金日成神話のモデルになった人物として有名なのが、独立運動の英雄、金光瑞(キム・ガンソ)です。独立運動時代には白馬に乗り、金擎天(キム・ギョンチョン)と名乗ったため、この通称の方が有名になり、「擎天 金(ギョンチョン キム)将軍」と呼ばれました。自ら「金日成」とは名乗っていませんが、「白馬にまたがった金光瑞が伝説の金日成将軍だ」と人づてに伝わったそうです。

 

 

 

 

「金光瑞は、旧韓末期に日本陸軍士官学校に留学し、国を失った翌年の1911年、第23期で騎兵科を卒業した。その後、東京騎兵第一連隊に配属されて、日本軍将校の道を歩み始めた。1915年には騎兵中尉に昇進し、1917年1月から9月までは、千葉県習志野の陸軍騎兵実施学校で用兵術と馬術の専門教育を受けた。当時の住所は、千葉県千葉郡二宮村田喜野井77番地、渡辺良平方」(李命英著「金日成主席の隠された経歴」より)

最近、ロシアで将軍の日記が出版されたそうです。
「朝鮮のナポレオン」金ギョン天(キンギョンチョン)将軍の日記、ロシアで出版
独立運動の英雄でしたが、スターリンによって1933年から3年間投獄され、1937年に他の朝鮮人たちと共に中央アジアへ強制移住させられる。1939年に再度逮捕され、独ソ戦(ヒトラーのドイツ軍とソ連軍との戦争)で1945年初めに戦死した、と伝えられています。

彼を紹介した、こんな韓国語の動画もあります。

日本語字幕はついていませんが、この動画には
「金擎天(キム・ギョンチョン)は日本陸軍士官学校出身で3.1運動以後、池青天(チ・チョンチョン)と共に満州に亡命した。 新興武官学校教官として過ごした後満州抗日独立運動の主役として活動した。 以後ロシアに移動して抗日武力闘争を組織して、満州とシベリアを縫って伝説的な英雄になった。 金擎天をはじめとする多くの愛国青年たちが武力抗争を通した独立を勝ち取る意を抱いて命をかけた亡命を選択した。 彼らの目標は短期間のうちに兵士となる人材を育成して、軍事力を強化して日本と対峙して戦うということだった。 新興武官学校はこれら武装闘争の種がまかれたところだ。 1920年青山里(チョンサンリ)戦闘大勝以後1940年光復軍創設まで抗日武装独立戦争は新興武官学校出身が主導した。」という韓国語の解説が書かれています。

「金日成が、習志野の騎兵連隊にいた」、これも習志野の騎兵連隊の歴史の中の、ロマンあふれるエピソード、と言えますね。
(ニート太公望)

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