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習志野歴史散歩:習志野市の市域が決まるまでのお話

2020-09-03 02:52:06 | 歴史

習志野市の市域が決まるまでのお話

習志野市役所って、新京成の「習志野」駅にあるの?

 「今、習志野の駅にいるんですが、市役所はどこですか?」言うまでもなく、新京成の習志野駅のことです。市の職員に聞くと、こういう問い合わせは決して少なくないのだとか。また、「習志野市って、自衛隊の交付金が潤沢にもらえるんでしょ」と言うのは、習志野駐屯地が習志野市にあると思っている方。

 今日は、習志野市の市域が決まるまでのお話です。よく「習志野市は、旧津田沼町に千葉市の一部を合せて成立した」と言われるのですが、それで果して正しいのでしょうか。

昭和25(1950)年頃は、こんな感じだった

 いわゆる「戦後の町村合併」は昭和28(1953)年、町村合併促進法が施行されたことに始まりますが、この地図は昭和25(1950)年頃、その戦後の町村合併が始まる直前の様子を示しています。



津田沼町(明治36(1903)年町制)、二宮町(昭和3(1928)年町制)、大和田町(明治24(1891)年町制)、幕張町(明治28(1896)年町制)が描かれています。


明治22(1989)年、5つの村が合併して「千葉郡津田沼村」ができた

 この内、津田沼は明治22年(1889)、谷津村・久々田(くぐた)村・鷺沼村・藤崎村・大久保新田の5つが合併して千葉郡津田沼村となったのが始まりです。津田沼が谷津の「津」、久々田の「田」、鷺沼の「沼」を合成して作った新地名だということはご存知の方も多いことでしょう。そして明治36(1903)年、町制がしかれたことにより、「津田沼村」は「津田沼町」となりました。

 ご覧のように現在の習志野市は、津田沼町と、大和田町の一部そして幕張町の一部だった地域から出来ています。二宮町との境はほぼそのまま、現在も船橋市との境界になっています。経過がややこしいのは大和田町だった部分、つまり東習志野です。東習志野には「愛宕(あたご)」と呼ばれる地域と「安生津(あきつ)」と呼ばれる地域がありました。この内、愛宕はこの地図の後、昭和26(1951)に幕張町大字実籾に編入されたようです。


昭和29(1954)年は”激動の年”、離合集散の末、「習志野市」誕生
(千葉市から安生津、実籾、屋敷台が「津田沼町」に編入され、「習志野町」と改称。「市」になるため、
長作、天戸を一時千葉市から「拝借」し、4週間後に千葉市に返還)

 昭和29(1954)年は“激動の年”となりました。まず1月15日に大和田町は睦村(むつみむら)と合併し、八千代町となります。4月1日、安生津は八千代町から幕張町に編入されます。続いて7月6日、幕張町は千葉市に合併されます。さらに8月1日、千葉市から津田沼町に、安生津の他、大字実籾、屋敷台(大字馬加(まくわり)の内)さらに大字長作(ながさく)、大字天戸(あまど)などが編入され、津田沼町は「習志野町」と改称されました。そしてこの日、即日市制を施行して「習志野市」が成立します。ところが4週間後の8月28日、長作と天戸は習志野市から千葉市に返されます。

数時間だけ存在した「習志野町」

 数時間だけ「習志野町」が存在したことも面白いですね。そして長作と天戸が4週間だけ習志野市だったことも目を引きます。当時、市に昇格させる基準は人口3万人以上とされていました。この基準をクリアするために長作と天戸を貸してもらったわけです。一度クリアしてしまえば、その後3万人を割っても町に戻す必要はないので、4週間後には千葉市に返したというわけですね。「習志野市は、旧津田沼町に千葉市の一部を合せて成立した」というのはしたがって正しいのですが、旧大和田町だった区域も、直接八千代町からではなく千葉市を経由する形で受け取っていることに注意しなければなりません。

なぜ「津田沼町」は「習志野町(市)」を名乗ろうとした?まぼろしの「大習志野市構想」

 ところで、かつて明治天皇が「習志野原」と名付けたあたりは二宮町になります。そこから北に広大な習志野練兵場が広がっていて、旧津田沼町は、大久保の兵営や東習志野の廠舎が練兵場の一番南東の端になっていたに過ぎません。なぜ津田沼町は習志野町、そして習志野市などと名乗ろうとしたのでしょうか。

戦前、昭和10年代に時の津田沼町長が「大習志野市構想」を打ち上げた、という話を〔七年祭りの回〕にお話しました。
習志野歴史散歩:室町時代、30年も続いた関東の内戦と七年祭の起源 - 住みたい習志野


津田沼町と幕張町、犢橋(こてはし)村、大和田町、睦(むつみ)村、豊富(とよとみ)村、二宮町の7つが合併して「習志野市」を作ろうというものでした。太平洋戦争によってこの話は立ち消えてしまいますが、戦後の町村合併の中で再びその構想が蘇ってくるのです。

 今度は津田沼町、二宮町、幕張町の3町で「習志野市」を、という構想の下、まず、津田沼町と二宮町との間で合意が成立します。特に二宮町の中でも、旧三山(みやま)村の地区は津田沼町との合併を強く望んでいたようです。ところが間もなく、二宮町は船橋市(昭和12(1937)年市制)との合併に傾きます。昭和28年(1953)8月1日に、二宮町は船橋市に編入されます。船橋市はひき続き、津田沼町にも合併を申し入れましたが、津田沼町の白鳥町長は、船橋市が財政的に人件費の割合が高いことを批判して、合併を拒否しました。

 二宮町が船橋市に鞍替えした理由がよくわかりませんが、太平洋戦争中に起きた滝台(たきだい)空襲(二宮町役場付近が爆撃された)による国の補償金配分を巡って津田沼町と二宮町の対立などがあった(Wikipedia「習志野」の項の内「由来」)、とされています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E5%BF%97%E9%87%8E

津田沼・幕張・犢橋の3町村で「習志野市」とするはずだったが、「二宮町」が船橋市へ、「犢橋村」は千葉市へ、「幕張町」は千葉市へ行く部分と習志野市へ行く部分に二分割、と次々に習志野市を見限る(?)⇒「大習志野市」構想は消え、「小習志野市」になった

 当時、合併後の町域を市に昇格させるには人口3万人が要件とされていました。そこで、津田沼町は、従前から続いている幕張町との合併交渉に、二宮町がいなくなった代りとして犢橋(こてはし)村を加えることにします(なおそれまでに、大和田町から幕張町に、東習志野の一部の編入があったことは先ほど述べました)。津田沼・幕張・犢橋の3町村で合併協議会が発足し、この年12月の協議会では合併後の新市名を「習志野市」とすることが決定されました。しかしそれが発表されると、犢橋村ではむしろ千葉市(大正10年(1921)市制)との合併を望む声が噴出してしまいます。二宮町が「寄らば大樹の蔭」ということならば、こちらもむしろ県都・千葉市に編入してもらおう。年が改まった翌昭和29年(1953)1月、犢橋村は合併協議から降り、その後、7月1日に千葉市に編入されるのです。

 こうなると、いったんは津田沼町との合併を受け入れていた幕張町でも、むしろ千葉市との合併を望む意見が強くなってきます。5月13日の幕張町議会では、千葉市との合併を議決します。幕張町には5つの旧村(実籾、長作、天戸、武石、馬加)がありましたが、ここに至って幕張町は、津田沼町との合併を望む意見が強い北部と、千葉市との合併を望む意見が強い南部とに分裂してしまいます。津田沼派の筆頭は実籾村、千葉市派の旗頭は武石村でした。津田沼派が県庁前でハンガー・ストライキを行ったとか、夜の路上で“血を見る騒ぎ”があったなどといった話が今に伝わっています。

県庁前でのハンガーストライキ:市役所HPより

 幕張町内の対立は激化し、県や地元選出県議会議員、さらに国会議員まで斡旋に乗り出し、最終的に幕張町を2つに分けることとなります。旧実籾村は全域、旧馬加村は屋敷台とその周辺を津田沼町に合併させ、武石・長作・天戸と旧馬加村の残りの地域は千葉市に合併させるというのです。そして、それだけでは合併後の津田沼町が市に昇格できないため、一時的に長作と天戸を貸してやる。市に昇格する要件を充たしたら、長作と天戸は千葉市に返せ、という「ウルトラC」が発案されたのでした。
(「ウルトラC」とは、「離れ技」のこと。1964年東京オリンピック体操で、難度Cよりもっとすごい技、「ウルトラC」という新語が生まれました。ウルトラマンとは関係ありません(笑))

「東習志野」しか習志野がない!小さくなった「習志野市」は、その後首都圏のベッドタウンに

 こうして8月1日、「東習志野」しか習志野がない「習志野市」(「北習志野」、「西習志野」、「習志野」はすべて船橋市。新京成の「習志野」駅も「北習志野」駅も船橋市)、しかも3万人の要件を最初から欠いている小さな市が誕生することになったのですが、その後、首都圏のベッドタウンとして人口流入が続き、現在では17万人の人口を擁する市になっていることはご存知のとおりです。

習志野市誕生の新聞記事:「一応五部落を合併して」というあたりに、当時のドタバタぶりが、うかがえます。(「新版 習志野ーその今と昔」より)


習志野市誕生当時の市役所(旧津田沼町役場):市役所HPより

「習志野」という市名は、騎兵旅団のおかげで全国的に知名度があるだろうから、ということで選ばれたようですが、昭和37年(1962)、習志野高校が甲子園に初出場した際には、実況アナウンサーが間違えて「シュウシノ」と言ったという話も残っています。また、それならば「津田沼市」でよかったのではないか、といった声を耳にすることもあるのですが、「習志野市」という名称には、大習志野市構想という野望の名残りが秘められているわけです。
(第44回全国高等学校野球選手権大会)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC44%E5%9B%9E%E5%85%A8%E5%9B%BD%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E9%87%8E%E7%90%83%E9%81%B8%E6%89%8B%E6%A8%A9%E5%A4%A7%E4%BC%9A

「平成の大合併」の波は結局習志野まで及ばなかった

 戦後の町村合併では全国至る所で陣取りゲーム、“国盗り物語”が展開されたのですが、それも収まり、時代が平成に入って行政改革が叫ばれる中、小泉内閣の登場によって再び大合併ブームがやってきます。

「千葉県市町村合併推進構想」(平成18年12月、千葉県)は、東葛飾・葛南地域(市川、船橋、松戸、野田、習志野、柏、流山、八千代、我孫子、鎌ヶ谷、浦安)について、「組合せは示さないものの、地域の状況等から、更に充実した行政権能等を有する政令指定都市への移行が期待される」地域と指摘しました。これは、東京と横浜の間に政令指定都市として川崎市があるように、東京と千葉の間に「京葉市」といった大きな政令指定都市が出来ることを志向したのではないかと思われます。なお船橋市は、既に平成15年(2003)、中核市(地方自治法第252条の22第1項。政令指定都市と並ぶ大都市制度の一つ)に移行していました。

 一方、千葉市は平成4年(1992)、全国で12番目の政令指定都市に移行していましたが、平成15年(2003)には、四街道市を千葉市に編入する発議が出され、合併協議会が設置されるに至ります。ところが、四街道市では賛否が拮抗して、協議は進まなくなってしまいました。そんな中で一時、千葉市上層部から「四街道がだめなら、習志野市と…」といった発言が出たということで、緊張が走ったこともありました。結局、千葉市と四街道市の合併は、四街道市の住民投票で反対が賛成を上回り、合併協議会を解散して白紙となったのでした。

習志野市にとっては特に変化も起らないまま、平成22年(2010)3月末、市町村合併特例新法が期限切れとなり「平成の大合併」は終ったのでした。

「大習志野構想」が実現していたら、習志野市は千葉市に次ぐ、県内2位の大都市になっていた?

今回は、習志野市の市域が決まるまでのお話をしました。

広報「習志野」平成16年8月1日号の「新ならしの散策 No.72」

https://www.city.narashino.lg.jp/smph/citysales/shizen/walk/sansaku/h16/sansaku072.html

は、昭和10年代の大習志野市構想について、「もしこの構想が実現していたら、習志野市はどのくらいの規模の市になっているでしょうか、人口はおよそ65万人で、これは船橋市(55万人)を越え千葉市に次いで県内で2位、面積はおよそ144キロ平方メートルで、これは鴨川市に次いで県内で6位(いずれも平成16年4月現在)となります。まさに千葉市や船橋市と肩を並べるほどの習志野市が誕生していたことになります。」と述べています。

戦前から市制を布いていた千葉市や船橋市に対し、このように最初から、対抗意識をむき出しにした大習志野市構想だったわけです。しかし、町・村で苦労して新しい市を立ち上げるよりも、既に栄えている千葉市や船橋市と一緒になった方がいい。「寄らば大樹の蔭だ」とばかりに、それぞれ切り崩されていき、提唱者の津田沼町だけが取り残されたと評することも出来るでしょう。

「大習志野市」構想は、「七年祭」の結びつきを現代に復活させようとした構想だった?つまり旧「馬加領」再興の夢が「習志野市」を生んだ?

七年祭りの回でもお話しましたが、大習志野市構想は七年祭りの行われる区域と不思議に重なるものがあります。一時は千葉氏宗家を倒したものの、結局一代で滅びてしまった馬加康胤。その馬加氏に由来する七年祭りの伝統的な結び付きを、現代に復活させようとした構想だったのではないか。言うなれば、馬加領再興の夢が結果として現在の習志野市を生んだのだ、と言えば大袈裟にすぎるでしょうか。(ニート太公望)

 

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