住みたい習志野

市内の情報を中心に掲載します。伝わりにくい情報も提供して行きます。

習志野ドイツ人捕虜収容所にいたユーバー先生

2021-09-06 23:22:44 | 俘虜収容所

8月31日に「ドイツの雑誌に習志野ドイツ人捕虜収容所の記事」という投稿がありました。

ドイツの雑誌に習志野ドイツ人捕虜収容所の記事 - 住みたい習志野

「ドイツ兵士の見たニッポン」の執筆者Hさんが、この習志野ドイツ人捕虜収容所のことに触れた次の手記を紹介してくれました。

ユーバーシャール先生の思い出、ベルリンの壁   岩本 晢

http://grosslehrer.web.fc2.com/06.5.22_ueberschar.htm

(以下はその抜粋です。小見出しはブログ編集部でつけさせていただきました)

ユーバー先生は、第一次世界大戦に兵士として出兵し、捕虜収容所にいた

 我々が一年生の時に日本人のドイツ語の先生にこのユーバー先生の人となりを聞いたら、「第一次世界大戦に兵士として出兵し、捕虜収容所におられ、通訳もしておられた」と言う話を聞いて、「へーっ」と驚愕したが、それ以上は聞かなかった。先生自身の口からは捕虜収容所の話は一度も聞かなかったような記憶である。同先生は旧制・新制甲南高校、甲南大学を中心として大阪医学専門学校、大阪医大(両者は大阪大学医学部の前身である)、大阪大学、神戸大学、京都大学で永年教鞭を執られて、1970年頃に神戸で亡くなられた。初来日以来約60年の滞在であったが、1933年~40年にドイツに帰国され、自分の出身大学 ライプツィヒ大学の日本学講座開設、運営責任者になっておられた。
 同先生は声が大きく、満場をうならせる声の持ち主であり、高等学校の卒業式の茶話会では一席話をされるのが通例であった。1953年春の我々の新制甲南高校の第三回卒業式での同先生の話を私は未だに忘れられない。「卒業おめでとう」という簡単な祝意の後に堅物の同先生の口から「今の日本は一人の天皇、一つの国旗を持っているではないか。しかし僕の祖国は東西に分裂して、事毎にいがみ合っている。慨嘆に堪えない」という話が飛び出した。この話を聞いた数ヶ月後の617日に東ベルリンで暴動が起こり、ソ連軍戦車に投石で抵抗する市民も出てきた。この暴動はこの東ベルリンだけではなく、東独全土に広がり、アデナウアー首相も急遽ボンから西ベリリンに到着し、盛大な葬儀が行われた。現在でも西ベルリンの最も有名な場所、Brandenburger Torの西側は「617日通り」と言う公式の道路名になっており、その側に「ヒロシマ通り」もある。

「メシメシ オイシイデスカ」と声をかけてきたドイツ人
 1959年秋以降に私はベルリン工業大学に日独交換留学生として留学していた。1962年末に故あって私はドイツのMarburg市の有名なElisabetenkircheの前庭でお握りを食べていたら、そこへ初老のドイツ人がやって来て、「メシメシ オイシイデスカ」と言い出した。こんな所で日本語が聞けるのもビックリであり、いろんな話をしていたら、「僕は習志野の捕虜収容所にいた」と言うから、私は「僕の先生も捕虜収容所におられた」と言うと、「その先生の名前は?」と聞くので、「Überschaarと言う方です」と言うと、「憶えている、憶えている。今度帰ったら、僕の話をしてくれ。僕は○○○○という」と言って分かれた。その半年後に神戸で同先生に会って、この話をしたら、感慨深げであった。
 1961813日に東西ベルリンの間に壁ができて、東西交通を遮断し、東西ドイツ国境にも壁、有刺鉄線を張り巡らせるようなことが起こり、余りにも衝撃的事件だったので、私はこの日午後にBrandenburger Torへ行って、その物々しい光景を知って、ただ唖然とした。いつこの壁が落ちるか、一日でも早くに落ちることを願っていたが、一向に落ちる気配はなく、ますます高く、険しくなった。1987年にベルリンに行った時にも壁は厳然としてあり、がっかりしたが、198911月にこの壁が一気に崩壊した。このニュースを聞いた時には思わず涙が出た。これでヨーロッパに平和が来ると思ったら、堪らなく嬉しかった。壁を作ってまで自分達の体制を維持しようとするなどは愚の骨頂である。その後に東欧の社会主義体制の総崩れが起こり、冷戦も終了した。
 
ユーバー先生は国家間の紛争に頭を痛めておられたせいか、Goetheのこの詩をよく授業で教えられた。
  Gottes ist der Orient,         東洋は神の物なり、
  Gottes ist der Okzident,        西洋も神の物なり、
  Nord- und südliches Gelände      北の地も南の地も
  ruht im Frieden seiner Hände.     そのみ手の平和の中に憩うなり。(了)
 
以上が岩本さんの文章ですが、「メシメシ」について、Hさんはこう付け加えています。
 
メシメシ

「メシメシ」は「もしもし」だったかも知れないのですが、もう一つ「モシェモシェ」だったかも知れず、モシェモシェというのはマールブルクの方言で「やぁ、どうも!」といったことらしい。もしそうだったとしたら相手は、生粋のマールブルク人だったのでしょうね。

(編集部より)

なお、このユーバー先生、習志野市のホームページでも紹介されています。

https://www.city.narashino.lg.jp/smph/citysales/kanko/bunkahistory/narashinosinobunkazai/GermanPOW_Historical-Materials.html

ヨハンネス・ユーバーシャール博士旧蔵写真

 習志野俘虜(ふりょ)収容所に収容されていた捕虜ヨハンネス・ユーバーシャールが所蔵していた白黒写真126点(附、封筒1点)。東京俘虜収容所(浅草本願寺)・習志野俘虜収容所で撮影された写真60数点をはじめ、戦時の青島(ちんたお)周辺と思われる写真、撮影地不明ながら日本で撮られた写真、人物写真などを含んでいます。
 平成30年(2018)、ユーバーシャールの教え子であった方から習志野市に寄付されました。

 その由来が明確であるとともに、習志野俘虜収容所の写真としてまとまったものであり、捕虜の暮らしぶりや収容所のようすを伝える貴重な資料です。

■ヨハンネス・ユーバーシャール博士

(Dr. phil. Johannes Ueberschaar:1885-1965)

 明治44年(1911)、ドイツ語及びラテン語の教師として来日、大阪高等医学校に在職しました。第一次世界大戦の際には志願兵として従軍。降伏(こうふく)の際の日独の交渉では通訳を務め、捕虜となった後は収容所でも通訳として活躍しました。日本通(つう)であることから、収容所内で日本に関するテーマの講座をたびたび開いています。
 戦後は大阪高等医学校に復職、以後、京都大学、浪速(なにわ)高校、甲南(こうなん)高校の講師を歴任し、昭和7年(1932)、ライプチヒ大学の日本語学教授に就任、日本文化研究所を設立して初代所長となりました。
 昭和12年(1937)、再来日して天理外国語学校、甲南高等学校講師を歴任、第二次世界大戦後は甲南大学教授となり、昭和40年(1965)に神戸で亡くなりました。日本においてドイツ語・ドイツ文学の教育、海外への日本文化の紹介に尽力した人物です。

 

 

 

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“旧中間階級”は年収127万円減、貧困大国ニッポン

2021-09-06 22:28:10 | 選挙など

ブログ読者の方から週刊ダイヤモンドの記事を紹介していただきました。有難うございます。

(以下、週刊ダイヤモンドの記事から抜粋)

“旧中間階級”は年収127万円減、貧困大国ニッポン

“旧中間階級”は年収127万円減、貧困大国ニッポンの全「階級格差」データを初公開!(ダイヤモンド・オンライン) - Yahoo!ニュース

<「新・階級社会 上級国民と中流貧民」>

 日本社会は、格差社会よりもシビアな「階級社会」へと変貌を遂げていた。一握りの上級国民を除き、誰も上昇することができない理不尽な世界だ。その残酷な実態を明らかにする。

<あなたはどの階級? 1億総転落の「格差世襲」地獄>

 もはや、日本は経済大国ではなく、貧困大国になってしまったのかもしれない。

 今も日本の国内総生産(GDP)は世界3位の座にあり、辛うじて国力としての豊かさを保ってはいる。それでも、働き手個人の豊かさがないがしろにされているという意味において、日本は貧困放置国家へ落ちぶれてしまったも同然である。

 そもそも、日本で格差拡大が始まったのは、1980年ごろのことだ。それから40年。産業別、企業別、男女別のどれをとっても、賃金格差はいまだに解消されるどころか、拡大を続けている。

 日本の格差問題を固定化し、かつ深刻化させたのは、80年代から急速に労働現場に浸透した非正規労働者の存在である。正社員が担っていた仕事の一部を、低賃金の非正規労働者に置き換えていったのだから、格差が拡大していくのは当然のことだ。

 今の日本社会を、「格差社会」などという言葉で表現するのは実態を表していない。格差社会よりもはるかにシビアな「階級社会」へ変貌を遂げていたのだ。

 それは、出自や教育環境、就職時期の経済環境などによって階級が決まる「現代版カースト」ともいえる理不尽な世界だ。

 厄介なことに、階級格差は親から子へ、子から孫へと世代を超えて連鎖し受け継がれていく。世襲されることで、格差は加速度的に広がっていくのだ。

 <全5階級で年収激減の衝撃>

 そして、新型コロナウイルスの感染拡大は、階級格差をさらに広げる「副作用」を引き起こした。結果、日本人の脳裏にかすかに残っていた1億総中流という意識を完全に打ち砕いてしまった。

 階級格差の苛烈さは、あるデータを見れば一目瞭然だ。

 橋本健二・早稲田大学人間科学学術院教授は、データを駆使して日本社会の階級構造を定点観測してきた格差問題のスペシャリストである。

 橋本教授は、日本社会を形成する階級を、職種や雇用形態などにより五つに分類してきた。

 ➀血統や資産を持つ「資本家階級」
 ➁大企業エリートやホワイトカラーなどの「新中間階級」
 ➂自営業者や家族経営従事者などの「旧中間階級」
 ➃単純作業やサービス業・販売業などの「正規労働者」
 ➄非正規労働者の「アンダークラス」

の5階級がそれだ。


 今回のコロナ危機が、それぞれの階級に属する人々にどのような生活・働き方の変化をもたらしたのか。

 コロナによる「打撃度」には、階級によって大きなばらつきがあった。

自営業の「旧中間階級」年収127万減! 旧中間階級は中流から滑り落ちた

 端的にいえることは、コロナ禍は人々に平等に襲い掛かったわけではないということだ。

 二つの階級──、旧中間階級とアンダークラスに集中砲火を浴びせた。

 とりわけ打撃が大きかったのは旧中間階級だ。世帯の平均年収が19年には805万円あったのに、20年には678万円。わずか1年で年収が127万円も激減した。

完全に「中流」から滑り落ちてしまったのだ。

 アンダークラスの惨状も厳しいものがある。もともと低賃金労働が多い階級ではあるのだが、20年の世帯の平均年収は393万円と400万円の大台を切ってしまった。

 橋本教授は「緊急事態宣言などコロナ対策では、さほど説得力のあるエビデンスもないのに、飲食店、とりわけ酒類を提供する飲食店が狙い撃ちされた。その上、十分な補償も行われなかったため、旧中間階級が経営難に陥った」と解説する。

 また、旧中間階級には、装飾品や衣服、家具など不要不急のものを扱う自営業者も多く、やはり経営難に陥っているケースが多い。

 そして、これらの飲食店や小売店には、非正規労働者が多く働いている。だからこそ、この二つの階級が打撃を受けたのだ。

 一方で、コロナ禍が新中間階級と資本家階級へ与えた負のインパクトは世帯の平均年収が下がったとはいえ、比較的軽微だった。

 そのため、資本家階級・新中間階級と、旧中間階級・アンダークラスとの「階級格差」はますます広がっていくことになる。(了)

 

 

 

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9月11日(土)「危機の時代を生きる指針:ルードルフ・シュタイナーの思想」のお知らせ

2021-09-06 14:10:35 | 催しなど

9月〜10月上旬のイベントについて、8月30日に以下のお知らせを行いました。

9月〜10月上旬のイベントのお知らせ - 住みたい習志野

9月16日(木)午前10時〜「絵本でテツガク対話『100万回生きたねこ』」

9月18日(土)午後2時~「いわれなく殺された人びと」  

9月20日(月・休)午前11時〜 千葉2区市民連合 街頭宣伝行動

9月23日(木・祝)午後2時〜 「棘(とげ)2」上映会

9月25日(土)習志野シニアクラブ <公開対話>「誰もが歩きやすい街づくり」

10月2日(土)午前11時〜 千葉2区市民連合 街頭宣伝行動

10月10日(日)習志野シニアクラブ <DVD観賞>V.リーのメロドラマの傑作「哀愁」

これに追加で、以下のイベントをお知らせします。

 
まくはり政治工房 第75回政経懇談会

危機の時代を生きる指針:ルードルフ・シュタイナーの思想
日時:9月11日(土)14時~16時

場所:すぽっと幕張(千葉市花見川区幕張町5-408-54)
 
参加費:500円(すぽっとメンバーは400円)
 
 いつ終息するか分からない新型コロナウイルスの感染拡大、世界各地で大惨事を引き起こしている深刻な気候危機、世界規模での格差の拡大、環境破壊…
 混迷と危機の時代をどう生きていくのか、それを考える際に一つの指針を与えてくれるのが、ルードルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner 1861〜1925)の思想です。
 日本では「神秘思想家」「シュタイナー教育の創始者」としての側面ばかりが強調されていますが、彼の思想領域は極めて広大です。第1次世界大戦前後の混迷した社会に対して積極的にコミットもしました。
 限られた時間でシュタイナーの思想の全体を捉えることはとてもできません。ここでは、今話題の斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』を切り口として、また日本の偉大な経済学者宇沢弘文先生も援用しながら、シュタイナーの思想への接近を行います。

講師:吉沢弘志 氏(ヨーロッパ精神史専攻 普遍アントロポゾフィー協会会員)
 16歳の頃から、反戦・平和、人権、環境等の市民運動に関わり続ける。現在市民ネットワーク千葉県政策調査室長
 

お問い合わせ・お申込み:樋口 higuchi.hiroyasu.dpj@gmail.com
 
 
 
 

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関東大震災で犠牲の朝鮮人を慰霊。成田市、船橋・八千代でも

2021-09-06 13:38:43 | 歴史

(朝日新聞の記事から抜粋)

関東大震災で犠牲の朝鮮人を慰霊

 

関東大震災で犠牲の朝鮮人を慰霊 きっかけは墓地に埋もれていた碑文:朝日新聞デジタル

 約10万5千人の死者・行方不明者が出た1923年9月1日の関東大震災で、混乱の中虐殺されるなどした朝鮮人を追悼する会が4日、千葉県成田市で...

朝日新聞デジタル

 

船橋・八千代でも式典

1923(大正12)年の関東大震災で、いわれない疑いをかけられて自警団などに殺された朝鮮人を追悼する式典が5日、船橋市や八千代市で開かれた。

「虐殺の悲劇」継承が課題

調査続ける元教諭らの団体

 1978年に発足した「千葉県における関東大震災と朝鮮人虐殺追悼・調査実行委員会」。

 調査によると、震災後、捕虜収容所だった場所では、朝鮮人らをデマによる虐殺から「保護」する名目で、軍が施設を解説。しかし9、収容所を管理していた軍が複数の自警団に一部の朝鮮人を引き渡した。引き渡された後に、虐殺された人もいるとされる。

 これらのことは、目撃者の日記などにより明らかになったという。当時のことを話したがらない地元の人たちに、何年もかけて働きかけ、日記を裏付ける証言を得た。1998年には、遺体を埋めたとされる場所を掘り起こし、6体の遺骨を発見し、供養した。

 事務局で、元歴史教諭の平形千恵子さんは、「虐殺をなかったことにしたり、忘れ去られ、無視されたりしないように、伝えていくことが課題だ」と語る。

 

なお、この記事の中にも出てきた平形千恵子さんのお話しの会があります。

9月18日(土)午後2時~4時

主催:みんなで안(アン)녕(ニョン)

コリアを知ろうvol.   

「いわれなく殺された人びと」      

  関東大震災から98年になります。

「いわれなく殺された人びと~関東大震災と朝鮮人~」(青木書店)は、1983年9月1日に初版が発行されました。

著者は千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会です。

その著者が定期的に発行している会報「いしぶみ」は67号になりました。

船橋市在住の平形千惠子さんは元高校教員で、実行委員としてこれまで調査にたずさわって来られました。

今回は平形さんをお招きし、“いわれなく殺された人びと”とは誰なのか。

またなぜ、殺されなければならなかったのか。誰がなぜ殺したのか。

そこから見える日本社会、日本人についてお話を伺います。

 「いわれなく殺された人びと」の声を聴きましょう

お話:平形千恵子さん

日時:2021年9月18日(土)午後2時~4時

     会場:すぽっと幕張 

(千葉市花見川区幕張町5-408-54アイランド幕張)

      会費:300円

    (千葉市花見川区幕張町5-408-54)

参加お申込み・お問い合わせ:080-3210-2818(樋口)


「住みたい習志野」の9月2日の記事もご覧ください。

関東大震災のデジタルアーカイブと朝鮮人虐殺犠牲者の追悼式 - 住みたい習志野

 

 

 

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脱線事故からパラ初勝利への道 岡崎愛子が描く「なりたい自分」

2021-09-06 09:24:00 | オリンピック

(毎日新聞の記事から抜粋)

脱線事故からパラ初勝利への道 岡崎愛子が描く「なりたい自分」

脱線事故からパラ初勝利への道 岡崎愛子が描く「なりたい自分」 | 毎日新聞

 東京パラリンピック第9日は1日、アーチェリーの女子個人(車いすW1)が東京・夢の島公園アーチェリー場で行われ、初出場の岡崎愛子(35)=日...

毎日新聞

 

 東京パラリンピック第9日は1日、アーチェリーの女子個人(車いすW1)が東京・夢の島公園アーチェリー場で行われ、初出場の岡崎愛子(35)=日本身体障害者アーチェリー連盟=は準々決勝で敗退した。

 大崩れせずに最後の矢を放った岡崎だったが、相手が悪かった。後に大会新記録をマークして金メダルを獲得する陳敏儀(中国)に3点届かなかった。強敵と互角に渡り合った末の5位入賞に「ずっとイメージしてきた、なりたかった自分の姿に近い」とほほえんだ。

 岡崎は19歳の時、兵庫県尼崎市で発生したJR福知山線脱線事故に巻き込まれた。事故の負傷者で最長となる377日の入院生活を経て退院したが、首から下にまひが残り、握力もほぼ失った。

 事故から16年の月日が流れた。これまで多くを語らなかったが、「事故をなかったことにしたいわけじゃない。一つ一つの積み重ねがあってここまで来られた。この経験を伝えていきたい」。これからも「なりたい自分」の姿を描いてゆく。

JR福知山線脱線事故から16年

(「少しでも私鉄より短い時間で走らせろ」という会社(JR西日本)の強引な指導方針のせいで運転手と乗客合わせて107名の命が犠牲になった福知山線脱線事故(尼崎事故)から今年で16年。下の動画は昨年のものです。)

 

 

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