8月31日に「ドイツの雑誌に習志野ドイツ人捕虜収容所の記事」という投稿がありました。
ドイツの雑誌に習志野ドイツ人捕虜収容所の記事 - 住みたい習志野
「ドイツ兵士の見たニッポン」の執筆者Hさんが、この習志野ドイツ人捕虜収容所のことに触れた次の手記を紹介してくれました。
ユーバーシャール先生の思い出、ベルリンの壁 岩本 晢
http://grosslehrer.web.fc2.com/06.5.22_ueberschar.htm
(以下はその抜粋です。小見出しはブログ編集部でつけさせていただきました)
ユーバー先生は、第一次世界大戦に兵士として出兵し、捕虜収容所にいた
「メシメシ オイシイデスカ」と声をかけてきたドイツ人
「メシメシ」は「もしもし」だったかも知れないのですが、もう一つ「モシェモシェ」だったかも知れず、モシェモシェというのはマールブルクの方言で「やぁ、どうも!」といったことらしい。もしそうだったとしたら相手は、生粋のマールブルク人だったのでしょうね。
(編集部より)
なお、このユーバー先生、習志野市のホームページでも紹介されています。
ヨハンネス・ユーバーシャール博士旧蔵写真
習志野俘虜(ふりょ)収容所に収容されていた捕虜ヨハンネス・ユーバーシャールが所蔵していた白黒写真126点(附、封筒1点)。東京俘虜収容所(浅草本願寺)・習志野俘虜収容所で撮影された写真60数点をはじめ、戦時の青島(ちんたお)周辺と思われる写真、撮影地不明ながら日本で撮られた写真、人物写真などを含んでいます。
平成30年(2018)、ユーバーシャールの教え子であった方から習志野市に寄付されました。
その由来が明確であるとともに、習志野俘虜収容所の写真としてまとまったものであり、捕虜の暮らしぶりや収容所のようすを伝える貴重な資料です。
■ヨハンネス・ユーバーシャール博士
(Dr. phil. Johannes Ueberschaar:1885-1965)
明治44年(1911)、ドイツ語及びラテン語の教師として来日、大阪高等医学校に在職しました。第一次世界大戦の際には志願兵として従軍。降伏(こうふく)の際の日独の交渉では通訳を務め、捕虜となった後は収容所でも通訳として活躍しました。日本通(つう)であることから、収容所内で日本に関するテーマの講座をたびたび開いています。
戦後は大阪高等医学校に復職、以後、京都大学、浪速(なにわ)高校、甲南(こうなん)高校の講師を歴任し、昭和7年(1932)、ライプチヒ大学の日本語学教授に就任、日本文化研究所を設立して初代所長となりました。
昭和12年(1937)、再来日して天理外国語学校、甲南高等学校講師を歴任、第二次世界大戦後は甲南大学教授となり、昭和40年(1965)に神戸で亡くなりました。日本においてドイツ語・ドイツ文学の教育、海外への日本文化の紹介に尽力した人物です。
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