住みたい習志野

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日本の「左側通行」は「何となく」決まった?外国の「右側通行」は「聖書」の教え?

2021-09-09 18:11:27 | 雑学

(「くるまのニュース」から抜粋)

日本はなぜ「左側通行」を採用? 政治家の「なんとなく」が理由だった? 世界で多数派の「右側通行」にも理由が存在

左側通行を決めた人がいた!その理由には予想もしなかった事実が

 日本の交通ルールでは、道路交通法第17条4項に「クルマは中央から左側を通行しなければならない」と定められており、基本的に車両などは左側を通行するよう決められています。
 
 しかし、世界では右側通行を採用する国が多いなか、なぜ日本は左側通行と決められているのでしょうか。

 今から120年以上前の、1900年に道路取締規則が制定され、「松井茂」という人物が左側通行するように決めたといわれています。

 この松井茂氏は、日清戦争直後から内務省に入閣し、警察と消防行政の基礎を築いた人物として国立国会図書館の人事興信録7版に記載されています。

 松井茂氏は左側通行とした理由について警察協会雑誌に、「特別な理由や研究に基づいたものではなく、武士が左側を通っていたという説や、馬車が行き交うときに左側に避けていたことなどを踏まえ、なんとなく左側通行が良いと考えた」と述べています。

 それでは、なぜ1900年に道路取締規制が制定されたのでしょうか。

 当時の明治、大正、昭和初期の交通手段が、バスやタクシー、路面電車といった交通手段のほか、個人の移動手段として馬や馬車から自転車、バイク、自動車へ大きく転換が進んだことが大きな理由と考えられています。

 しかし、新たな交通手段が増えてきたとはいえ、地域により交通の発展状況がまちまちであったことから、当初は都道府県ごとに検討・設定していました。

 そして、馬車、人力車、自転車の各規則が制定され、1900年に人も馬なども原則左側通行するよう警視庁が制定するに至ったと記載されています。

 ここで今と違うのは、人も左側通行であったことです。

 現代のように人は右側通行、クルマは左側通行と決まったことについては、道路交通政策について記述された、「道路交通政策史概観」に記載されています。

 それによれば、戦後の1947年にGHQ(占領軍最高司令部)のもと、旧省令が廃止され新憲法が制定されたとあります。

 そして、新憲法が制定されると道路交通取締法が1949年に改正され、人は右、クルマは左と対面通行が導入されたようです。

 ただ、当時GHQは、馬の右側通行を強く主張していましたが、日本側としては、道路や乗り物の整備に天文学的な費用と、長期的な時間がかかることを上げて反論し、GHQの要請を退けたようです。

 そして現在もクルマは左側通行、人は右側通行という、対面通行の交通法規が続いています。

 歴史的資料を見ると、左側をクルマが走ることを決めたのは、特別な理由がないということでしたが、それ以前に道路を往来する人や馬などは左側を走っていたことが大きな理由だったと考えられるでしょう。

海外で右側通行の理由はキリストの教えが関係?

 国内ではクルマは左側通行ですが、一方で海外の多くは右側通行をとっています。

 実はこの右側通行にいたる理由は、古代ローマの馬車競走までさかのぼるといわれています。

 世界的に右利きの人が多くいますが、古代ローマでも右利きが一般的でした。

 そのため、古代ローマでは右手でムチをふるい、左手で手綱を引いて馬車競争をしていたことが、イタリアのフォリーニョ博物館に展示してある彫刻にも刻まれており、また競技している様子も反時計回りで競走がおこなわれていたことが彫刻に刻まれています。

 この反時計回りが、現在の交通にも受け継がれていると考えられています。

 そして、この反時計回りと時計回りは宗教と深い関係があり、反時計回りはカトリック教徒がおもな宗教で、われわれ日本人の仏教は時計回りといわれています。

 反時計回りの例を上げると、巡礼する場所では、反時計回りのカトリックでは右から入り、左から出てくる順路をとります。

 これが現在にいたる右側通行の始まりといわれており、これはラウンドアバウト(環状交差点)の走行を考えればわかります。

 反時計回りなら、道路の右側から入り、時計回りなら左側から入ります。

(日本では時計回り)

(外国の多くは反時計回り)

 しかし、右側通行にも試練がありました。

 それは18世紀のフランス革命のときに、反カトリック派が左側通行はカトリックの教えなので左側通行に変更しなさいというものでした。

 当然当時の軍隊もそれにならい、左側から攻撃を仕掛ける戦法が取られましたが、ナポレオンが右側からの攻撃をおこない、大きな戦果を上げるとフランス軍は右側からの攻撃に加え、右側通行するようになったといわれています。

 その後フランスは、多くの地域を植民地に変えていきますが、その時に左側通行していた地域も右側通行を導入するようになったといわれています。

 しかし、ヨーロッパの中で島国の英国はナポレオンからの侵略をまぬがれていたこともあり、左側通行がそのまま残って現在に至っているのではないかとされています。

 一方アメリカはイギリスの植民地時代があったわけですが、独立戦争後にイギリスからの植民地時代の影響を捨て去る気持ちが強かったことに加え、フランスなど右側通行諸国からの移民が多かったため、アメリカは右側通行になったといわれています。

 そして、自動車時代がやってくると、アメリカで生産される左ハンドルの右側通行用の自働車が各国に多く輸出されたことから、かつて左側通行だった地域でも右側通行が導入されるようになったことが、右側通行の地域が多い理由のひとつとされています。

 ただ宗教的に見ると、世界最大のカトリックの教えが大きいことも考えられるといえます。

 それは聖書に次のような箇所があるからです。

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。

 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」

 このなかに出てくる羊は純粋なものとしてとらえられており、山羊は愚かで悪いものの象徴とキリスト教では教えられています。

 このことから、右はプラスイメージ、左はマイナスイメージが強いことが海外では多く見られ、この考えから自分の進む方向も右側優先になっているともいわれています。

※ ※ ※

 子供の頃から歩行者は右側、クルマは左側と多くの人が学校の交通安全教室で教育されている日本ですが、その歴史は一人の政治家のなんとなくという理由だったことに驚きます。

 しかし、日本人の歴史を振り返ると、盆踊りや神社仏閣へのお参りも時計回りで左側通行になっています。

 実は、道路交通法で定める左側通行は、日本人が昔から持っている時計回りの生活が生かされているといえるかもしれません。

 

 

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赤木ファイル原本背表紙に「M事案」「本省指示」などと書かれていた

2021-09-09 16:57:53 | 人権、環境

(朝日新聞デジタルの記事から抜粋)

赤木ファイル原本背表紙に「M事案」「本省指示」

赤木ファイル背表紙に「M事案」「取扱注意」 裁判所が原告側に説明:朝日新聞デジタル

 学校法人森友学園(大阪市)への国有地売却をめぐる財務省の公文書改ざん問題で、改ざんを苦に自死した近畿財務局職員の赤木俊夫さん(当時54)が残した「赤木ファイル」の背表紙に「(取扱注意)『M事案』」などと書かれていたことが8日、分かった。赤木さんの妻・雅子さん(50)が国などを相手に起こした訴訟で原本を確認した大阪地裁が、雅子さん側に対して明らかにしたという。

 雅子さんの代理人によると、地裁はこの日あった非公開の手続きで、A4判の青色のファイルの背表紙に「M事案」「本省指示(調書等)備忘」などの文字が印字されていた、と説明したという。「M事案」の語句は、国が6月に開示したメールの中にもあり、「森友学園についての事案」を指すとみられる。(了)

(編集部より)

何度も国に殺された赤木さん

(一度目:国鉄分割・民営化の犠牲に)

赤木さんはもともと国鉄(今のJR)職員として駅で働いていたそうです。

それが、中曽根首相の「国鉄労働運動をつぶす」ための「国鉄分割・民営化」攻撃により国鉄の職を奪われ、国家公務員になった。

(二度目:文書改ざんをやらされ、自殺)

「私や妻が関係していたら首相も国会議員もやめる」という安倍首相の発言から国家ぐるみの証拠隠しが大規模に行われ、文書改ざん作業をやらされた末、悩みぬいて自殺

(三度目:文書改ざん「再調査せず」と「赤木ファイルの事実抹殺」を宣言した麻生大臣)

文書改ざんの最高責任者である麻生大臣は、赤木ファイルが出たこの期に及んで「文書改ざんについて再調査しない」と、あくまで「逃げ」をきめこむ。

赤木さんが毎日どんなに苦しみ、どんな思いで「赤木ファイル」を残したのか、考えただけでも胸が苦しくなってきます。

赤木さんを三度も「殺した」張本人たち、故中曽根氏、安倍氏、麻生氏の3氏は何の処罰も受けていません。

 

 

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「これは殺人なんです」入管スリランカ女性死亡事件で遺族が涙の訴え

2021-09-09 15:29:25 | 入管

(smartFLASHの記事から抜粋)

名古屋入管・スリランカ人女性死亡事件「これは殺人なんです」死の間際の映像を見た遺族が涙の訴え - Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌]

《部屋にはベッドが一つだけで、その奥にトイレと洗面所がある。ベッドと壁の間はやっと通れるくらいの狭さだ》

 スリランカ女性ウィシュマ・サンダマリさん(当時33歳)は、この「密室」に半年余りも閉じ込められていた。

 オーバーステイ(超過滞在)で、名古屋出入国管理局に収容されていたウィシュマさんは、今年1月中ごろから嘔吐や食欲不振を訴え、「仮放免」を求めたが認められず、3月6日、搬送先の病院で死亡した。

 8月12日、入管は部屋の天井に設置した監視カメラの映像を、ウィシュマさんの亡くなる最後の13日間ぶんを2時間に編集して遺族にだけ開示。

 今回、映像を見た妹のワヨミさんと従妹のマンジャリさんが、苦しみを抱えつつも日本の人々に事件を知ってほしいという思いから、本誌の求めに応じてウィシュマさんの “死の間際” をイラストに起こし、真実を語ってくれた。《 》の部分は、2人が入管で映像を見ながら記したメモである。

《2月23日19:37~19:39。ベッドに横たわるウィシュマ。そばには女性職員。ウィシュマが「病院に連れて行って」と頼み、職員が「私たちがずっと見とるからね」と答えると、彼女は「ご飯も食べられないし歩けない」と訴える。

 ウィシュマは「セーライン(点滴)」と4回繰り返したが、職員は「わからない」と答える。ウィシュマは「OS1(経口補水液)みたいなやつ」と言いながら点滴のジェスチャーをする。職員は「医師なしでは与えられない」と拒んだ》

《2月26日5:14~5:36。ウィシュマは起き上がろうとしてベッドから床に転げ落ちた。助けを求めると「すぐには行けないから、一人で起きてベッドで待っていなさい」という職員の声。ウィシュマは「一人じゃ無理」と言い、「担当さーん」と、23回も呼び続けた。

 約10分後に2人の職員が部屋に入ってきて、床に倒れたウィシュマを無理やり引っ張る。ウィシュマは「痛い、痛い」と叫んだ。職員は「起き上がれないなら、朝まで床で頑張ってね」と言い残し、一人の職員はウィシュマを跨いで部屋を出て行った

《3月1日21:32~21:37。一人の職員がコーヒー飲料を渡す。ウィシュマが「コーヒーなら飲める」と言ったからだ。ウィシュマの鼻からコーヒー飲料が出ているのに気づいた職員が「鼻から牛乳だ」と叫んだ。2人ともおかしそうに笑っていた

 ウィシュマさんが死亡したのは、この3日後だった。8月10日、出入国在留管理庁が公開した最終報告書は、「ウィシュマさんの死因特定は困難」と結論づけた。しかし、遺族の代理人である指宿昭一弁護士は強く反論する。

「報告書は、今回の事件の原因を入管の体制や職員の意識の問題にすり替えていますが、明らかな犯罪。死ぬ可能性を知りながら放置したのなら、“未必の故意” の殺人です

 ワヨミさんは入管職員にこう聞いた。「私たちがアメリカ人なら同じことをしましたか?」。職員は無言だった。

ウィシュマさんだけではない。入管で20人もの外国人が不審死していた - 住みたい習志野

 

 

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習志野原今昔物語 10 硫黄島で戦死、2人の軍人 「騎兵の華」注目の的 「バロン西」五輪馬術で金

2021-09-09 15:13:13 | 歴史

(毎日新聞「習志野原今昔物語 10」からの抜粋です)


硫黄島で戦死、2人の軍人 「騎兵の華」注目の的 「バロン西」五輪馬術で金

 太平洋戦争の激戦地・硫黄島の戦いを日本側の視点で描いたハリウッド映画「硫黄島からの手紙」が2006年、公開された。同島守備隊の司令官として防衛の指揮を執った栗林忠道中将を渡辺健さんが演じた。伊原剛志さんが演じた西竹一戦車連隊長は、ロサンゼルスオリンピック(1932年)の馬術金メダリストで、男爵であったことから「バロン(男爵)西」とも呼ばれた。ともに硫黄島で戦死した2人は習志野騎兵旅団に所属経験があり、習志野原と縁の深い人物だ。

 西は1927年に習志野原の陸軍騎兵学校を卒業。同校の教官も務め、32年に第二騎兵旅団(第16連隊)に所属する。

 騎兵旅団在職中は、現在の船橋市東船橋の市立宮本中学校に近い高台にある別荘寄宿していた。一緒に暮らしていたのが、4月に亡くなった俳優、田村正和さんの父で「阪妻」の愛称で知られる阪東妻三郎だ。阪妻は自身のプロダクションの撮影所を遊園地「谷津遊園」(習志野市谷津、1982年閉園)に創設していた。
 
 2人とも長身で、西は「習志野騎兵の華」とも称され、注目の的だったろう。
 
 西は金メダルを獲得した。
 
 一方、栗林は17年に陸軍騎兵学校に入校した。騎兵旅団の鎮守社となる「誉田八幡神社」(同市大久保)の境内にある「皇紀二千六百年記念」石碑に揮毫(きごう)している。
 
 硫黄島では戦争末期の45年2月、米軍が総攻撃をかけた。
 
 激戦の上、同年3月に栗林と西は戦死する。(了)
 
 
 
 
 
(編集部より)
バロン西、阪妻撮影所、栗原中将などについては、「住みたい習志野」の記事もあります。合わせてご参照ください。

(バロン西)

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(阪妻の撮影所)

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(栗原中将)

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