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総武線“ナゾの終着駅”「津田沼」には何がある?
(文春オンラインの記事から抜粋)
総武線“ナゾの終着駅”「津田沼」には何がある?(文春オンライン) - Yahoo!ニュース
災害大国・ニッポン。ここ数年、日本中のあちこちが大きな災害に見舞われている。で、そのたびによく言われるのが、「地名で災害のリスクがわかる」...
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災害大国・ニッポン。ここ数年、日本中のあちこちが大きな災害に見舞われている。で、そのたびによく言われるのが、「地名で災害のリスクがわかる」的な論だ。
曰く、池・沼・津といった水にまつわる文字が入った地名は危ないのだとか。本当のところ、地名は歴史の限り何度も人為的に変更されてきているので、それだけで災害リスクを判断するのは安直に過ぎる。が、まあそういう見方があるというのも事実である。
そうしたケースでよく挙げられるのが、千葉県にある津田沼だ。津・田・沼という水に関係する文字の3連発。危ねえと思われるのも無理はないといえば無理はない。字面のままに捉えたら、海の際にある沼地で田んぼだらけ、ということになってしまう。
が、実際には津田沼という地名は、明治時代に津田沼村が発足する際に従前の谷津・久々田・鷺沼の3村から1文字ずつ頂いた合成地名なのだ。だからまったく津・田・沼に由来がないとはいえないものの、3連発だから3倍危ないなどという単純な話ではない。“津田沼”という地名だけで「あそこは危ねえ」などと判断するのではなく、よくよく地域の実情を見なければならないのである。
日中は2本に1本が「津田沼」終着
そしてこの津田沼、ナゾの終着駅という顔も持つ。中央・総武線各駅停車、つまり都心を東西に走る黄色い電車は、千葉方面に向かうときに日中は2本に1本が津田沼駅を終着としているのだ。
おかげで、都心部だけで黄色い電車を利用している人は「津田沼ってなんだろう、まあいいや」となるし、千葉方面まで帰宅しようとする人は千葉のはるか手前で終着となってしまう津田沼行きの電車にストレスを感じるというあんばいである。
「津田沼」がいまの姿になる前、そこには何があった?
津田沼の名が誕生して津田沼村が発足したのは1889年のことだ。1895年には津田沼駅が開業し、1903年に津田沼町に昇格している。
その頃の津田沼の中心はいまのJR津田沼駅の駅前ではなく、津田沼駅南東にある京成津田沼駅付近。古くは久々田と言われていた地域にあたり、東京湾に向かって集落が広がっていたようだ。
その頃の海岸線はいまの国道14号、千葉街道あたり。東京湾沿いの漁村であり、海際では塩田も開かれていた。京成津田沼駅が開業したのは1921年と比較的後になってからのことだが、古くからの市街地に面した駅としての開業だったというわけだ。
小さな村に“陸軍”がやってきた
では、現在のJR津田沼駅はどういう役割をもって開業したのか。答えは、“陸軍”にある。 津田沼駅よりも北側、いわゆる習志野と呼ばれる一帯は広大な陸軍の演習場になっていた。江戸時代には幕府直轄の放牧地で、明治のはじめに近衛兵の演習が行われたのが軍都・習志野の始まりだ。この折に習志野と名付けられたという。つまり、陸軍演習場の玄関口という役割を期待されて津田沼駅は開業したことになる。 それでも日露戦争前後までは津田沼駅周辺は半農半漁の小さな村に過ぎなかったが、陸軍演習場の近くという立地から日露戦争後に大きく変貌してゆく。1907年、津田沼駅周辺に陸軍鉄道連隊がやってきたのだ。
鉄道連隊はその名の通り、鉄道の建設や運転を任務とする部隊である。大量輸送を実現する鉄道は戦地における物資や兵隊の輸送にうってつけであり、損傷した既存線路の修理から臨時に鉄道を建設して輸送路を確保するなどといった役割が期待されていた。その連隊が、津田沼駅を取り囲むように設けられたのだ。鉄道連隊はのちに2個連隊に増設され、1918年以降津田沼に置かれていたのは鉄道第二連隊である。
ともあれ鉄道連隊の存在は津田沼のシンボルのようになった。津田沼駅周辺には兵隊さん相手の商売を見込んだ商店が開かれて、まさに軍都・津田沼の様相を呈した。戦地での鉄道建設を担う鉄道連隊だから、平時も訓練として鉄道建設をせねばならぬ。その演習線として建設されたのが津田沼駅徒歩5分の新津田沼駅で乗り換えられる新京成線だ。
津田沼―松戸を結ぶ新京成線はどうしてあんなにカーブが多いのか?
新京成線は京成津田沼駅からやたらめったらに急カーブを繰り返して習志野をゆき、最後は松戸までを結んでいる路線だ。鉄道連隊の演習線として建設され、戦後になって民間に払い下げられて再整備、新京成線として開業した。
津田沼から松戸まで、新京成線に乗ると40分もかかるのだが、直線距離で行けばもっと早いはず。いまでは一帯がまるごと市街地になっているが、陸軍演習場だった戦前はもとより戦後直後も野っ原だったはずだ。だから直線的に結ぶこともできた。
それをあえてカーブを繰り返して時間をかけて津田沼と松戸を結んだのは、鉄道連隊の演習線としてあらゆる条件下を想定して建設されたからだと伝えられている(新津田沼駅から京成津田沼駅までも大きなカーブを繰り返しているが、これは戦後建設されたものである)。
戦後、軍事施設は…
戦後、これらの軍事施設はほとんどが姿を消すことになる。津田沼駅前の鉄道連隊ももちろん消滅。その跡地の北側には千葉工業高校、南側には千葉工業大学が置かれた。千葉工業高校は1967年に移転して跡地を新京成の線路が貫く形となって、いまはその北端にイオンモールが建っている。
南側の千葉工業大学はいまも健在。鉄道第二連隊の正門は千葉工業大学の通用門として残っており、津田沼の歴史を物語る貴重な文化財になっている。また、鉄道第二連隊が使用していた蒸気機関車は千葉工業高校跡の小さな公園の中に展示されている。
あまり目立つところではないが、こうして“鉄道連隊の町”だった津田沼の歴史が伝えられているのだ。
その後の津田沼は、東京からもそれなりに近いということもあってか急速に商業都市として発展していく。津田沼駅が“終着駅”にもなっている理由は駅のすぐ西側に車両基地があるからだが、こちらも戦前の1935年の開設。広い敷地を要する軍事施設や車両基地が駅の周りに集まっていたということからも、いにしえの津田沼がまったくいまとは違う原野だったことがうかがえる。
かつて塩田も広がっていた海側は埋め立てが進み、すっかり住宅地として様変わりしている。ラムサール条約にも登録されている谷津の干潟は京成電鉄による谷津遊園としての開発を経て、いまでは地元の人たちの憩いの場になった。
半農半漁、塩田もあった古き津田沼と、近代以降の軍都としての津田沼を経て、商業都市へと移り変わった。そうした津田沼の歩みは、たくさんの人が絶えず行き交う津田沼駅のペデストリアンデッキに結実しているといっていい。
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