さくら市ミュージアムで「スバル360」の展示をしているので出かけた。
幸い撮影は自由とのことなのでデジカメに記録した。
スバル360は昭和33(1958)年から昭和45(1970)年までの12年間に生産された大衆車である。
てんとう虫の愛称で呼ばれた
まん丸いライト
サイドミラー
蓋を開けて外気を室内へ入れる
スペアタイヤはフロントのトランクへ収納
左フロントにぶつけた痕
物にぶつけてボデイがくぼむと裏から拳で叩いて直した
初期のワイパーは中央に1本、 後期は左右に2本
給油口 ガソリンタンクはエンジンの真上
エンジンは後ろ すのこ状の穴から熱を逃がす
リアサイドから外気をエンジンルームへ送る
ドアのチョウツガイは外側
タイヤの陰にブレーキホースが見える
天井を囲むゴム製の帯に貼り付けた金属の帯はカーラジオのアンテナ
私は昭和40(1965)年にスバル360の中古車を譲り受けた。1960年初めのクルマであったと思う。
その後、新車を購入したのでスバル360は2台乗った。
馬力は小さいが悪天候でも風雨にさらされることなく通勤できたので重宝したものである。あの頃はマイカーブームの始まりであった。
展示されているクルマはスバルの後期のものと思われる。私が最初に乗った中古車とは違いがある。
例えば後期の窓はドアのハンドルで上下に開閉するが、初期のものは戸棚のガラス戸のように2枚のガラスを左右にスライドさせたものであった。
また初期のワイパーは中央に一つだけであった。
初期のものには燃料計がなく、給油口にオイルゲージのような棒を差し込んで燃料の残量を調べながら走行した。途中で燃料が切れたことがあったが、予備コックを開いてガソリンスタンドまでたどり着いたことがあった。後期のクルマに乗り換えたときは燃料計があったので便利さを感じたものである。
初期のクルマの燃料はガソリン25:オイル1の混合燃料を入れた。後期のものはガソリンはガソリンタンクへ、オイルはエンジンルームの別タンクに入れ、自動的にガソリンとオイルが混合出来るようになっていた。
走行中にデストリビューターの接点が焼けて調子が悪くなることがあり、接点をやすりで磨いたり、また、プラグが煤で汚れて調子が悪くなると、路上でプラグを取り外して煤を取り除いて整備しながら乗ったものである。デストリビューターやプラグの電極の隙間を調整するゲージが標準工具として供えられていたのだから、今の感覚では考えられない。
エンジンは空冷2気筒でオートバイのエンジンと似ていた。簡単なので素人でも分かるような構造であった。
映画“三丁目の夕日”で活躍する“ダイハツミゼット”も展示されている。
現在も活用しているオート三輪とのことである。
(この催しは11月9日まで行なわれている)
リンク:昭和37年型スバル360セダンのカタログ紹介
http://www.asahi-net.or.jp/~rf7k-inue/izen/no-3/subaru/subaru.html#su-siyo
私が入社した時会社に大きい車とスバルが一台ありました。
まん丸お目目の可愛い車。懐かしいです。
当時はほとんどが未舗装道路なのに長距離運転を楽しむ。
しかし、今は宇都宮まで運転困難で電車利用です。
まだそれほど車社会ではないけれど、共働き一家の大事な足でした。
とても印象的な車です。
健ちゃんは「あ・家のスバルだ」と散歩でスバルに会ってもそういっていました」健ちゃんは今は45歳くらいかな?
いま北海道で暮らしています。
思い出がよみがえりました。
懐かしいでしょう。
スバルを購入した理由は女房のお産に備えたのが
大きな理由でした。
生まれそうなので小さなクルマに大きなおなかを乗せて
病院へ行き、その夜、無事出産。
詳しい型は知りませんが、父が早く亡くなったので、
我が家では初めての愛車でした。
もう、母は亡くなってしまいましたが、車の乗っている母は
カッコよかったです。
お母さんはカッコよかったですね。
スバルのころは自動車教習所が大変込みました。
予約を取るのが大変でした。
教習生は男性が多い時代です。
お母様はずいぶん苦労されたと思います。
ミゼットは、大村昆がCMでやたらとミゼットを連発してました。
江戸東京博物館にも、展示してました。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/8fb55a046b494c61a4bf43ea4720923f
鈴本には、はじめて入りました。
スバルにミゼットどちらも良く乗ったものです、ミゼットは東京の職場に有りました
良く先輩に手が足りないからお前ちょっとミゼットで行って来いと言われ乗ったものです
スバルは私は持って居ませんでしたが、身内に居ましたので時々借りてはのりました
ワイパーまでは覚えて居ませんがプラグは良く外して掃除したことは覚えて居ます
ワイパーもスバルではありませんが手動の物もありましたね
イヤーお疲れ様でした、わざわざ撮りに行って頂き見せて頂き感謝です
本当に懐かしく拝見しましたありがとうございました