明治維新以後日本の工業力は長らく2流であった。その工業力が1流である事を見せつけた製品が、三菱の零式艦上戦闘機「零戦」である。正式採用年の1940年皇紀2600年の末尾「0」を取り「零戦:レイセン」であるが、戦時中も英語の影響力のせいで「ゼロセン」と呼ぶ方がいた。戦後は勿論「ゼロセン」が一般的呼称となる。
ともかく1940年から43年まで脅威の強さであった。米軍には「単機でゼロとの空戦禁止」との内規さえできた。それほど欧米人を驚嘆させた工業製品が「零戦」である。
トップガンのエリート・パイロットたちが今でもドッグ・ファイト(空戦)をやりたくないと言うのが「ゼロに乗ったベテランパイロット」と言わしめる。彼らが零戦との空戦など知るよしもないのだが、それ程の「伝説」となっている。
陸軍の「隼」「鍾馗」「飛燕」「疾風」等の戦闘機は零戦のせいで影で薄くなっているが、優秀な航空機であった。特に「疾風」は戦後米国でテストされ、米軍の燃料で時速640km/hとの記録を出した(戦時中日本軍内では600km/hを超えたこは殆どない)。如何に日本が粗末な燃料で戦っていたのか米軍当局者を驚愕させた。
因み当時の航空燃料(ガソリン)のオクタンカは米国の燃料95~98、日本の燃料80~85と言う状況である。日本の燃料では米軍機はエンストを起こす。
2016/01/20(水)零式艦上戦闘機(零戦)が今月27日、海上自衛隊鹿屋航空基地(鹿児島県鹿屋市)の上空を飛ぶ。機体を所有するニュージーランド在住の日本人と、防衛省などの調整が終わったことが20日、わかった。日本の空を零戦が舞うのは、戦後初めてで、関係者は「日本の繁栄を築いた先人の勤勉さと技術革新に、思いをはせるきっかけにしてほしい」と語った。
http://www.sankei.com/west/news/160120/wst1601200101-n1.html
http://www.sankei.com/west/news/160120/wst1601200101-n2.html
http://www.sankei.com/west/news/160120/wst1601200101-n3.html
http://www.sankei.com/west/news/160120/wst1601200101-n4.html
この零戦の恐怖で長らく日本は航空機、特に戦闘機の製造を米国に制限されてきた。これは独国も同様で大戦中のメッサーシュミットやフォッケウルフの活躍に戦後の航空機産業への足枷を付けられた。独国はそれでも現存し飛行できるメッサーシュミットやフォッケウルフを所有している。
日本は飛行できる当時の戦闘機は存在しない。飛べない展示品の零戦は数機ある。靖国神社に展示されている。
戦後長らく日米のために活躍された、故坂井三郎中尉、氏は64機撃墜した生き残った日本の撃墜王であり、氏の著書「大空のサムライ」は世界中でベストセラーとなった。
氏が米国で講演して懇親会の時、「私の父は貴方に撃墜された、貴方に会えて良かった、握手してください」と何度と無く言われたそうだ。祖国の存亡を賭け命がけで戦った者のみが理解できる心情であろう。
戦場を逃げ回っていた中国共産党の人民解放軍や朝鮮民族には、真剣勝負を行ったことのない者には理解できない心情である。
その卑怯者とさえいえる中韓に食い込まれたマスコミの論調など如何ほどの意味があるのか?人類史の中で「平和な時代とは次の戦いまでの休息時間」との考え方が証明されるほど人類史は戦争の歴史である。その中で先進国と言われる国の国民は「スバラシイ」何かを見出してきた。この価値が理解でない者は卑怯者として扱われてきた歴史もある。中国が「日本の軍国主義の復活」とか喚いていることでも解る。
零戦の飛行は日本人が忘れていた何かを呼び起こしてくれるかもしれない。