毎日が、始めの一歩!

日々の積み重ねが、大事な歴史……

小説「新・人間革命」に学ぶ 第27巻 

2021年03月09日 | 妙法

小説「新・人間革命」に学ぶ 第27巻 名場面編2021年3月9日

  • 連載〈世界広布の大道〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第27巻の「名場面編」。心揺さぶる小説の名場面を紹介する。挿絵は内田健一郎。
 

陰で働く人への恩を忘れず

 〈1978年(昭和53年)4月の開校に向け、東京創価小学校の工事が急ピッチで進められていた。山本伸一は工事関係者に感謝を伝えたいと、建設現場を訪ねた〉

 伸一は、作業服に身を包んだ鈴木所長に語りかけた。
 「私は、教育を自身の最後の事業と決めて取り組んできました。東京創価小学校は、未来の社会を担う人材を育む場所です。
 この学校から、二十一世紀の平和の指導者がたくさん育っていきます。世界にも羽ばたいていきます。校舎は、その成長の舞台です。(中略)
 着工が遅かったために、大変にご迷惑をおかけすることになると思いますが、どうか、ご尽力ください。
 無事故での竣工を、くれぐれもお願いいたします」

 彼は、自分の思いを率直に語り、握手を交わした。鈴木所長の表情が引き締まった。
 東京創価小学校を建設する意義に、深く感銘してくれたようであった。(中略)

 “工事は、なんとしても間に合わせる!”
 その鈴木の一念と気迫に打たれ、現場の作業員も懸命に努力してくれた。工事は、ハイペースで進んだ。(中略)

 山本伸一は、四月九日、東京創価小学校の入学式終了後、(中略)正門を入って、すぐ右側に植えられた一本の桜の前に立った。
 小学校の校舎建設の責任者を務めた所長の鈴木元雄を顕彰する桜である。
 伸一は、桜を見ながら、児童たちに語っていった。
 「この桜は、小学校の校舎を建ててくださった人たちへの、感謝の思いを込めて植えたものです。(中略)
 作業は、たくさんの人が、雨の日も、強い北風の日も、雪の日も続けてくださった。(中略)
 みんなの周りには、みんなのために、陰で、いろいろな苦労をして働いてくれている人が、たくさんいるんです。

 学校を建ててくださった方もそうです。
 お父さんやお母さんもそうです。
 これからお世話になる学校の先生や職員の方たち、また、通学で利用することになる電車の運転手さんや駅員さんもそうです。
 みんなのために、朝早くから夜遅くまで頑張ってくださっている。
 その方々のご恩を忘れない人になってください」

 (「若芽」の章、42~45ページ)
 

師弟の誇りの歌を高らかに

 〈同年4月、山本伸一は中部指導へ。中部の代表との懇談後、婦人が伸一のところへ来て、訴えた〉

 県の文化合唱祭を開催する三重の婦人部長・平畑康江である。
 「あのう、文化合唱祭で、婦人部愛唱歌の『今日も元気で』を、どうして歌っては、いけないのでしょうか。
 私たち婦人部員の思いがこもった、みんなが、いちばん好きな学会歌なんです。どうか、歌わせてください!」(中略)

 「今日も元気で」は、婦人部の愛唱歌として皆に親しまれてきた歌である。
 歌詞には、日々、喜びに燃えて広宣流布に走る婦人部員の、一途な心意気が表現され、曲も明るく軽快なリズムであった。
  
 〽あかるい朝の 陽をあびて
  今日も元気に スクラムくんで
  闘うわれらの 心意気
  うれしい時も かなしい時も
  かわす言葉は
  先生 先生 われらの先生
 (中略)

 この文化合唱祭には、中部布教区の僧侶らも招待していた。
 当時、学会員が会長の山本伸一に全幅の信頼を寄せ、師と仰ぐことに対して、批判の矛先を向ける僧たちもいたのである。
 そこで、そうした僧を刺激してはまずいと考えてか、この歌は歌わない方向に決まったようであった。
 しかし、婦人部は納得できなかった。
 “なぜ、いけないのだ! 師匠を求める私たちの思いがこもった歌を、どうして歌うことが許されないのか!”(中略)

 ただ“歌が一曲、歌えなくなった”という問題ではなかった。
 自分たちの誇りが、いや、生き方そのものが、否定された思いがしてならなかったのである。(中略)

 “どうして、師匠を敬愛する心を隠さなければならないのか! どこかおかしい”

 結局、婦人たちの主張が実り、「今日も元気で」は、三重文化合唱祭で歌われることになったのである。(中略)

 リハーサル会場で、「今日も元気で」を合唱できるようになったことが発表されると、大歓声と大拍手が響き渡った。ハンカチで涙を拭う婦人もいた。

 (「正義」の章、177~180ページ)
 

青年に全幅の信頼を寄せて

 〈同年5月、山本伸一は音楽隊の全国総会に出席し、全精魂を込めて激励した〉

 終了後、彼(山本伸一=編集部注)は、観覧席からグラウンドに降りた。
 大歓声が起こった。彼は出演者をはじめ、集った青年たちを励ましていった。(中略)

 そのなかには、方面旗を両手で、終始、支え続けてきたメンバーもいた。また、中等部員の隊員もいた。
 伸一は、グラウンドを回りながら、各方面の音楽隊長と握手を交わし、中等部の隊員を見つけると、歩み寄っては、両手を広げて、抱え込みながら語りかけた。
 「すばらしい演技でした。勉強もしっかり頑張って!」(中略)

 額にも、首筋にも、汗を滲ませながら、何人もの青年たちと握手を交わしていった。
 全力で労をねぎらう彼を見つめるメンバーの目には、涙が光っていた。

 このあと伸一は、創価大学の会議室で、テレビ局や新聞各社の記者と懇談会をもった。記者の一人が質問した。
 「いつ見ても、学会の青年部は躍動しているという印象があります。
 また、その青年たちと山本会長とは、深い信頼で結ばれていることを実感します。
 会長は、どのようにして、青年たちとの信頼関係を培ってこられたんでしょうか」

 伸一は、静かに頷くと、語り始めた。
 「ありのままに、お答えします。
 私は、今日も、“ひたすら諸君の成長を祈り、待っている”と言いました。また、“一切をバトンタッチしたい”とも語りました。青年たちに対する、その私の気持ちに、噓がないということなんです。

 私は、青年たちに、『自分は踏み台である。諸君のためには、どんなことでもします』とも言ってきました。
 事実、青年部を百パーセント信頼し、なんでもする覚悟です。

 また、青年に限らず、皆が喜んでくれるならと、たとえば、去年一年間で、色紙などに一万七百八十四枚の揮毫をしました。
 つまり、私は、本気なんです。
 だから、その言葉が皆の胸に響くんです。だから、心を開き、私を信頼してくれるんです」

 (「激闘」の章、218~220ページ)
 

自転車で求道の走行100キロ

 〈北海道の男子部員、菅山勝司は生活苦のなか、信心に励んでいた。60年(同35年)9月、釧路で男子部の会合が行われるという連絡が届いた〉

 釧路までは列車で三時間ほどである。この時、彼(菅山勝司=編集部注)には、交通費はなかった。
 “来いと言ったって、どうやって行けばいいんだ……”(中略)

 釧路の先輩たちの顔が、次々と浮かんだ。“待っているよ!”“信じているよ!”“立ち上がるんだ!”――そう言っているように思えた。彼は、起き上がった。
 “そうだ! 自転車で行けばいいんだ! 環境に負けていていいわけがない。皆と会い、山本先生のこともお聴きしたい”(中略)

 自転車にまたがると、迷いを振り切るように、思いっきりペダルを踏んだ。
 舗装されていない道が続く。木の根っこにタイヤを取られないよう、ハンドルを強く握り締める。
 辺りには、街灯も人家の明かりもない。分厚い雲に覆われ、月も、星も、見えなかった。(中略)

 彼は、“俺に期待を寄せ、待ってくれている先輩がいるんだ。負けるものか!”と自分に言い聞かせた。(中略)

 やがて夜が白々と明け始めた。朝霧のなかに、釧路の街が見えた。
 “もう少しだ。みんなと会える!”
 彼は安堵した。すると、途端に全身から力が抜け、どっと疲労に襲われた。
 自転車を止め、道端の草むらに横になり、背筋を伸ばした。そのまま眠り込んでしまった。
 太陽のまぶしさで目を覚ました。二、三時間、眠っていたようだ。疲れは取れていた。

 再び、勢いよく自転車のペダルを踏んだ。市街に入ったのは、午前八時ごろであった。一晩がかりの、百キロを大幅に上回る走行であった。
 菅山の顔は、汗と埃にまみれていたが、心は軽やかであった。自らの弱い心を制覇した“求道の王者”の入城であった。

 男子部の会合では、全参加者が、この“別海の勇者”を、大拍手と大歓声で讃えた。彼らは、菅山の姿に、男子部魂を知った。

 (「求道」の章、407~410ページ)