市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

自転車ぶらり 均質と多様

2010-08-06 | 自転車
  宮崎市の今年の夏は、8月からようやく夏日がつづくようになったせいか、どうもすっきりしない。本日は金曜日、今日もまた、雲の多いからっとしない日である。暑さはまだ36度以下なのに妙に身体に堪える。だが、もうすでに盛夏の一週間分が消えた。8月1日の日曜日は、午後3時過ぎに自転車でぶらぶらと走り出た。暑いので、坂道はできるだけ避けて、無理をせぬ走りと、向かい風を避けるために北へ向かって貞蔵道路を進んでいった。右側の歩道を走るのだが、左側に並木の陰がつづきだした。その木陰に入るため道を横切るのがめんどうくさくて、どうせ暑いのだからと、そのまま走り、動物園前から10号線にいたる道路と、T字に交わる終点に突き当たった。ここから、海岸へ向かおうか、10号線に向おうかとちょっと迷ったが、すぐに10号線へと、左折した。しばらくすると、住吉駅南の踏み切りに着た。そのとき、踏み切を越えた右側に20年も行ってなかった釜めし専門の店が、昔の店のままあって、驚かされた。思いかげない店、昔のままの店構え、「釜めし専門店」と染め抜いた幟までそっくり残っていた。この店、なぜ今日まで完全に記憶から消えてしまっていたのだろうが、美味しかった思い出がある、でも、一人で行ったのか、家族連れだったか、知人だったか、もう覚えていない。それに、これまでもここは何十回となく走ってきたのに、なぜこの薄茶のこのレストランは目に入らなかったのだろうか。おそらく、なにかで記憶が甦っていたら、そのときににあったのなら、すでに見つけ出していたはすだろう。人は、意識がなければ、目はあっても見ていないのであろう。意外なものとの遭遇、これが自転車ぶらりの面白さの一つでもある。

 踏み切りを越えると、すぐ住吉駅、その正面から道路を横切り、西へ走る県道をみつけて、219号線に入り、そこを西都市へ向かうことにした。そうすれば坂道は無い。しかし10号線は自動車の流れが途切れず、そのまま200メートルほど先の赤信号へと走っていると、すっと車の流れが空いたので、道を横切ることができた。そして家並みのすき間にあった路地に入って、西へ向かって進んでいると、100メートルもしないうちに荒れた畑地に沿うようになり、道路両サイドには一戸建の住宅が並んでいた。それぞれの住宅地は乾いた、藪のような潅木が取り囲み、何本かの丈の高い樹木も混じり、その陰にイギリス風な住宅が見えた。合成樹脂の煉瓦模様が印刷された壁は、イギリス風であり、まるでハウステンボスの家屋であった。そこには殺伐たる孤立感があった。地縁も近隣も関係ない住宅が、ひっそりと建っていた。おそらく近所付き合いもない生活空間ではないのかと、思えるのであった。毎日どうやって暮らし、社会とのつながりを感じうるのだろうかと、胸をしめつけられるような虚ろさをおぼえさせられるのであった。この数個の住宅を抜けると、道路は、コンクリートの直線道となり、陽炎の燃え立つ野に、キロ余も西へ伸びていた。左手はるか2キロくらいのところに丘陵がつならなり、西都市への219号線はその手前の道路だ。10号線も右手の丘の向こ隠れてしまった。このまま、まっすぐ進むとどこへ行くのか、不安もあり興味もあって、ひたすらに走った。ここは飛行場のように平坦ななんにも育ってない畑地が広がっていた。ここは、はじめて走る道路であった。

 終点は、219号線の一里塚バス停の標識があった。一里塚は、以前は道沿いに民家があり、その横の道路は、樹木も家屋もつづいて住吉駅近くの10号線にでる主な県道であったが、通った道は新しく開削された道路だったのだろう。しばらく走ると、自動販売機が並んだ空き地があり、やっとありつけ「淡いオレンジジュース」特売100円という400ccの缶を出した。一気に飲み干せてしまった。汗のひっこみ、満腹感もあり、道路標識を見上げると、西都まで8キロとある、行けぬことはないが、疲労を避けるために引返すことにした。300メートルほどすすんだら、右手の丘陵に上る道路があり、走ったこともない簡素な舗装であった。このゆるい勾配の坂道には、こんどは落ち着いた尾道の坂の町のようにつづているのにおどろかされた。こんな宮崎離れした街路があったのかと、進んでいくと民家は途切れ、そのまま山道と変わって、のろのろと体力を温存しながら上っていった。どうやら下りとなり、すすむと、口諦疫の消毒ポイントがあり、ガードマンが数人、車の消毒に従事していた。まだ、すべてが終わったのではなかったと気付かされ、気を引き締めるのだが、いったいここはどこなのだと、周りをみまわしていると、久峰観音公園という公園の入り口の前に来た。そうか佐土原町にきたのかと知ったわけであった。

 この日は、思いつくままぶらりぶらりと自転車で行ったのだが、この日もまた、初めて遭遇するような風景や情景、場所にぶっつかった。20年以上もこの宮崎市北涯の野はあちこち走り回っているのに、このような未知の場所に迷い込むことができるのだ。あるいは、かって遭遇していても記憶からすっぽり抜け落ちているのかもしれない場所であったとしてもだ。たしかに、街中も野も均質化されのっぺらぼうに変わったのだが、そこを実際に探ってみると、まだまだ多種類の要素を発見できるのである。均質化がいっそう確実になっているのは、ぼくらを取り囲んでいる場所もさることながら、意識のほうがはるかに均質化されているのかもしれない。

 こうかんがえると、さっきの地縁も社会との接触のなさそうな孤立した住宅を思うのだが、かれらが、地縁と社会とどこでつながっているのかということだが、おそらく、それはテレビではないかと思う。テレビからの情報が、碇となって地縁と社会にその家族をつなぎとめているのではないだろうか。つまり、全国均一の情報で迷うことなくつながれていると、それは、ぼくのまわりの住宅街でも同じことである。この均質化から多種多様の情報に出会えるにはどうすればいいのか、これは、おもしろい挑戦になるようだ。




 

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