市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

2011年どくんご実行委員会に顔をだす

2011-10-18 | 宮崎市の文化
 夕べ、どくんご実行委員会を、山崎街道のジョイフルに訪れた。先日の勧誘に返事は一通ももどってこなかったということで、委員長を引き受けた山崎以下3名(1名欠席)にぼくがアドバイザーとして参加、4名だけの実行委員会であった。

 チケットが売れない。予想通り、目標の半分くらいだ。これ以上は無理のようである。実行委員長は、さすがに20枚近くを売っていけそうである。無理でも何でも、目標は達成させねばならないと、内心思うのであったが、これは無理強いであってはならない。なんとかなるだろうということにして、久しぶりに会った一夜を、近況報告やら、これからの話やらと、和気藹々の時間が流れだした。

 昨日だったが、街角で滅多に会えなくなった知人とぱったり出会い、いつも病状を言うのが恒常の女性であったが、そのときばかりは、彼女がいつになく健康に見えたので、うれしくなった。どくんごを薦めると、あの芝居は、ね、ね、ファンの集まりでしょ!ちょっと私には不向きなんよねえと、思いがけない返事であった。昔はあんたもそうとうはずれもんだったじゃないかと、瞬間、思ったが、このまえさ、昔の店の仲間が集まってくれたのよ、みんな元気、かれも相変わらず、もてるの、ほんとおもしろい男、ほんともてるんだから。と、話がでだしたので、そんな池のなかの鯉やなまずやが、群れあってわいわいいうのもファン団子だろうがと、あああ、これだな、ぼくが人間を断つことにしたのはなあと、思うのであった。

 それにしても、こちらも5年くらい太平洋一人ぼっちを擬した「ヨット生活」だし、チケット販促の大きな障害を僕自身が引き起こしているのだ。俺のせいか、時代の変化のせいか、どくんご芝居という商品のせいか、どうなんだろう、こんな話も4人で結構楽しめたのだ。

 これまで見てきた「どくんご芝居」のあれこれを話題していくと、共通の話題作としては、1995年宮崎駅西口正面の上演「トカワピー・クエンダワピー」が一番古いものだった。いきなり丸刈り頭の女性二人が男を縄で空中に吊るしていたぶるというサディスティックな開幕に観客は寒気と嫌悪と好奇心で魅了されたのだ。テントの裾を巻き上げると、駅の正面を大声を発して走る怪優「時折旬」のわけのわからぬ演技で、通行人が目をむく始末、テント内は輪をかけて音楽と踊りのアナキーなシーンが、爆発的な笑いとなって湧き上がり、退屈な日常性をぶちやぶっいった。それに当時、宮崎駅も改築中で、その廃墟の雰囲気も良かった。まさにスワヒリ語とかのトカワピー・クエンダワピー(どこから来て、どこへ行く)であった。これは、宮崎市の都市変化への問いかけにも解釈できたのであった。90年代は日本が大きく変化させられる時代でもあった。テント芝居どくんごは、そういう時代状況を本能的に身体全体で表現できる斬新さをテントを通してやることが出来た。もちろんテント芝居は、すでに終わったという時代の流れはあったが、その本質に尚こだわりを保持して、それを納得させられて楽しかった。

 1998年には「ノン・ノットポケット・ゴー・ゴー」という幽霊船の話に引き継がれ、乗船者は「死」を切望しながら死ねないゾンビ有閑貴族を囲むゾンビたちの航海の話であった。これは嵐の夜と翌晩の二日、専売工場跡地での上演であったが、舞台は船上のように揺れるという仕掛けであった。死ぬことのほうが生きることより希望であるという逆方向の生命感に開眼させられるのであった。これが1998年であった。90年代はうしなわれた10年でもあり日本は、経済大国から脱落していった。どくんごは時代、時代の空気をたしかに担ってきたと、ぼくは思う。そんな話を交わした夜だった。

 僕自身の追憶にはしかしそれ以前が重い・1985年、宮崎市一ツ瀬病院構内での「パブリックな怪物」これはある精神病院を破壊せんとした患者の物語であったが、その一ツ瀬病院というのは、なんと芝居ではなく現実の精神病院であり、観客のおおくがその患者であった。かれらの哄笑と共感の拍手が今も耳に残っている。そして、1990年には、同じ構内デ「サクラガサイタ」が上演された。これは最大の登場人物であったし、仕掛けも大掛かりであった。皮肉にも、この年から「サクラ」とでもいうべき日本の経済が没落の徒についたのである。そしてこれは今ももっとリアルにつづいている。

 こういう話をぼくは、昔を思い出しながらしたのだが、どくんごは、仲間だけのファンの集まりではないのを、言いたかったのだ。話が終わってトカワピー・クエンダワピーのころの観客名簿があったので、開いてみせると、そのびっしりと4ページのA4の用紙に並んだ名前・住所の一覧を見て三木ちゃんは涙をうかべながら、感無類のようであった。時代はどうなるんだろうか。この名簿のような観客の復活はありうるのだろうか。

 そこはもうかんがえないことにして、とにかくチケット目標達成だけはやりたいと思って、会場を後にした。
 

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