市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

不用品処理への展開 電子書籍化へ

2010-07-10 | 文化一般
  どうやら電子書籍化の実現が加速されてきた。予測以上の短時間のうちに電子書籍はわれわれの日常にありふれたものになるのではないか。携帯電話のように。

 一刻も早く、電子書籍の実現を熱望するのは、ぼくの部屋は自宅でも、このギャラリーでも、本の置き場がなくなってきているのだ。数年内にあと、500冊くらい買いたいと思うが、1冊購入のたびに確保不可能感が強まる。つぎにダンボールに押し込んだまま、5年以上も放置している本を、資源ゴミに出せないままでいる。息子たちにその処分をまかせるしかない状態がある。自宅からの蔵書の消滅をどうするかを、図ってしか購入をすすめることができない。そして、ぼくは本をあらゆる場所で読みたい。最近は、喫茶店でレストランでサイクリングの目的地で、電車、航空機、温泉、病院で、ありとあらゆる場所がTPOとしての読書環境となりうるのた。そのときのためにいつも本を数冊携帯しているのだが、文庫本にして3冊くらいが限界である。文庫本でないハードカバー本こそ読みたいものもあるが、この携帯は1冊が限界である。まして雑誌となると、ほとんど不可能に近い。一冊でも携帯不便な大きさ、冊子形式であるからである。

 本は保存、廃棄、管理でじつは、きわめて不便な物品であるのだ。なぜ本を物体として認識できないのであろうか。電子書籍化へのエッセイなどを目にすることが多くなったが、本はゴミであるという、あるいはゴミになるという発想がないのが、不思議なくらいである。

 ゲーテ(1749-1832)は図書館の書庫は「本の墓場である」と言った。今から200年以上も前であるなら本は貴重品そのものであったろうが、そんな時代でも書庫に収められた本はミイラとして認識されている。今、宮崎県立図書館の書庫は、ほぼ満杯50万冊くらいの蔵書が保存されているに違いない。その蔵書の管理がどれほど人と経費がかかるものであるかを、想像してみよう。巨大は収蔵庫の建設費、その償却費、電気代、空調費などがまずいる。じつはそれだけでなく、図書館の蔵書は絶えず増加しているので、有限の空間のなかにどう無限の図書をもっとも合理的に収納するかの問題がたえず発生し、管理の問題となる。おそらく、県立図書館は、電子目録を備えた現在でも、書架の配列は、開架書架も書庫内書架も日進十進分類の4桁の分類番号の順番に並べられていよう。そこで、なにかの要因で、たとえば4204(物理学理論)が急増したとすると、その部分を確保するために、以下の番号の本をすべてずらしてならべねばならないということになる。県立図書館がまだ県庁舎まえに会った(1990年以前)は、毎月一日を休みにして、全館員が書架の並べ替えの作業をやっていたという。とくに1990年にちかづくにつれて満杯になった書庫内図書に移動は急務となり図書の配置換えは、過激を極めていった。実は、本を購入順番に並べれば、増加する分は、末尾になるので少なくとも分類番号で「ずらす」必要はなくなる。本は、コンピュータ目録で探せる。そのための電子目録であるはずだが・・。

 これは図書館の蔵書管理を分かりやすく簡単に書いてみたのだが、その他、逐次刊行物といわれる新聞、雑誌などの管理などもある。これらの蔵書の保存、管理に多大な労力が使われ、その大半は単純労働であるために、その労働が図書館の仕事として認識されるにつれて、図書館の専門性は希薄されていく。今の宮崎県立図書館について、前松方知事は、新聞に自伝を連載して、自慢の文化行政だと自負していたが、それは見かけの建物だけである。現在も貸本屋の状態を脱出できないのは、こうした本の災いが解決されていない現実にも関係がある。図書館司書の専門性というのは、書庫の管理でなく情報/本の収集と提供と、情報の編集/発信である。現実は、巨大倉庫の単純労働と貸本作業だけになっている。そんな場所に移動したくないという本庁、教育委員会の事務職員が、移動させられくるからである。ここで本はゴミでしかないのであるから、ゴミ処理にはその程度のスタッフ配置でよかろうと考えられしまうらしい。

 ぼくは、1968年に英国の公共図書館に調査のため実習勤務したことがあった。その日々、ヨークシャー州ウエストライディング・カウンティライブラリーの本館では、開架室の書架を担当司書がまわって、トーマイ袋みたいなおおきな麻袋に、目の前の開架書架から、本を一冊づつ引く抜いて、その場でばりばりと表紙を破り、本を引き裂き、袋に放り込んでいるのだった。あるとき、かれと並んでその作業をしながら、もったいないとつぶやいたところ、かれは、この書架の場所にどれほどの建設費がかかっているのか、考えてみたまえ、読まれもせぬ本をならべて、書架を殺すよりも本を殺してほうが、ましなのだよと答えれられ、その合理主義の価値観の違いに瞠目させられたことがあった。

 さらに1994年ごろ、東京都の貿易品倉庫を見学してまわっていたとき、体育館の何倍もあるよな倉庫が十棟も並んでいる広大な場所に来た。ぼくはその倉庫を覗きこむと、そこにあったのは、直径が5メートル近くに見えた巨大な紙のロールであった。それが50メートルもある奥へ伸び、横に何十列と置かれていたのだ。ロール紙の巨大倉庫であった。次の倉庫も、次の倉庫も、次も紙ロールが収納されていた。あのときぼくをつつみこんだのは、いいようのない怒りと絶望感であった。これほどの紙のためにどれほどの森林が破壊されたのであろうかという思いだった。そして、これがわが国の新聞紙になっていくのかということ、その趨勢は止め様が無いという絶望感に沈み込んだのだ。帰りの自転車は重苦しく世田谷の五本木まで、快楽気分を喪失してペダルを漕ぎつづけた。紙、紙、紙、その文化がどれほどわれわれを豊かにしたのかと。

 本の電子化は、この紙の消費を押さえこむことが可能なわけである。本という物質による労力を解決してくれるわけである。

 ここで、ぼくは本が残るか、残らないかということには、ほとんど関心がない。ただ電子書籍だけに関心がまずはある。図書館や紙資源について述べたことは、電子書籍が進んだとき、克服できる経済効果についてのべたまでである。そうなって欲しい願望はあるので、それには、電子書籍の実用化を願わざるを得ないわけであう。そのためには電子書籍はどのような特性をもつべきかを、論理的に推定しなければならない。これには、センチメンタルjは視点を排除するということがまずは必要である。

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