市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

欲望と電子書籍

2010-07-13 | 文化一般
  サッカーも選挙も終わった。ドイツの水族館の蛸が、ドイツチームの勝敗を予言し、かつ優勝戦も予言、すべてを的中させた。ドイツがスペインに負けるという予言どおりになったとき、ドイツのテレビ視聴者は、怒って、蛸をゆでて寿司にせよと、水族館に抗議をしたという。だったら、はじめから予言などに関心を持つべきではないと思うのだが、蛸のパウル君はいかにドイツ大衆の欲望を満たすかと期待されていたのだ。かれはそんな大衆の期待などは無視して、行為しただけであり、その純真さがいい。こんどの選挙運動のあれやこれやと、各候補の演説を聞いていると、そこにあるのは、ただ本人の欲望のみがある、日本が良くなるとか、庶民の生活が安定するとか、経済が強くなるとか、そんなことは、かれにとっては、本当は、どうでもいい予言にすぎず、さしあたり自分が当選するという欲望のみが行動をかりたてているとしか思えない。だから期待すべきではない。ぼくにはさしあたり関係ない。今は現況を自分の力でますは生きていくしかないのである。欲望は予言よりはるかに強しであり、リアルである。

 昨日の電子書籍化の続きに入ろう。まず、宮崎県立図書館の書庫内の本は、90パーセントは、何年に一度しか読まれない。いや、ほとんどの本は何十年も読まれずに保存されているという状態であろう。それは本の貸し出しカードを見てみるとわかる。その本が直近でいつ貸し出されたかをチェックすればいい。そして、何べん貸し出しされているかもわかる。その死蔵に近い蔵書を電子化してしまえば、外部記憶装置の技術的進歩で、おそらく携帯機器に納まってしまう。理論的には1立方センチの記憶素子に2万年分の新聞を保存できるということもいわれている。近い将来、電子書籍化によって、県立図書館の蔵書がポケットの記憶装置に電子化されているということの、メリットというのは、どうかんがえても否定できないわけだ。それは空想でも幻想でもなく、技術的に解決できる。すでにアメリカの議会図書館全蔵書の電子化が進められているのだ。

 それでも本は、本の価値がある。読書は本でしか満たされぬ。あの手触り、匂い、デザイン、そして生活の中にあることの文化と、本の価値が電子化書籍と対比される。だから電子化は無用というのか。そうではなくなりつつある。そこが問題である。電子化も仕方がないというメディアの変化を容認せざるをえない状況になってきたのだ。このためか、電子書籍は、可能なかぎり紙の本に類似した形態・感触をとどめながら実現されている。

 精神科医でかつ思想・文化評論家である斉藤環は、今や、電子書籍化への期待を先日、毎日新聞紙上に発表していた。そのとき、本に対する人の記憶は、情報記憶と触感記憶があると(ちょっと表現は違ったかも)いう。本の記憶でこの触感記憶は忘れがたいので本は今後も残っていくというのだ。そういう記憶に関係してか、電子書籍は、できるだけ本の感触に似せてある。しかし、この紙の書籍と類似した電子書籍は、ほんとうに人の電子書籍への欲望に答えているとは思えないのだ。

 ディスプレイのページを、指でまくりながら読んでいくというのが、本の感触と似ているとは思えない。ページはまくれないのだ。本のようにさっとめくったり、ぱらぱらとめくったり、その感触はありえない。ページをめくって、必要なページにいっしゅんに行けるのは、ディスプレイの表示を指で一枚一枚めくっていては不可能であろう。

 電子化された本は、パソコンのファイルとしてPDFファイル(Portable DocumentForm)の特質を備えているのが、まず必要である。どのページにも傍線が引け、必要箇所の指定コピーができ、これら保存されたコピーのワード検索ができることが、指でページをめくるよりもっと基本である。電子書籍はコンピュータファイルとして、紙とは異質のメディアになったのであり、その特色を最大に発揮するのが、もっとも合理的であるし、利用者の欲望を充足できる。

 1985年ごろ、ぼくはワープロを使い始めたのだが、しばらくすると原稿用紙が画面にでるものがあって、そこに原稿を書くというのがあったが、なんの役にも立つものでなくて忘れられた。はじめはワープロで原稿が書けるものかと思っていたがだんだん慣れてきてやがて、1990年にパソコンのソフト一太郎に移ったころは、もはやワープロ無しには原稿も手紙も年賀状も書けなくなった。つまり感触記憶は完全に消滅してしまい、ワープロが肉体化されていった。電子書籍も人の欲望に沿っていくかがり、完全に馴染んでいってしまうはずである。

 本を電子書籍でしか読まなくなった社会は、近未来に実現するはずである。電子書籍が日常化するのは、数年以内であろうと思う。そのような世界、街から本屋や公民館図書室や、図書館やが影が薄くなり、新聞社も生滅してしまった社会を想像する。それでも人は生きていかねばならない、そんな時代であろうかと思う。それは、情報の過剰で狂ったような世界の出現になるはずだし、情報の制御や利用の方法もまた進歩する社会であろう。孫の時代の文明社会とは、ある意味ではおもしろい世界なのかもしれない。孫に必要なのは情報をどう管理するかであろう。そういう時代は時代で孫の世代はうまく情報を操作していくのであろうと思う。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 不用品処理への展開 電子書... | トップ | 第16回宮崎映画祭 愛の不... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

文化一般」カテゴリの最新記事