市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

「アンダーグラウンド」 壁と卵

2009-03-10 | 文化一般
 村上春樹のドキュメント「アンダーグランド」を今年のスタートでろんじていたとき、かれのイスラエル文学賞授賞式で、「壁と卵」のたとえで、個人を殺すイスラエルの「壁」を批判したことは、おそろしいほどの現実感をぼくに与えてくれた。アンダーグラウンドをずーっとよんでいただけに村上春樹の壁と卵に比ゆは、卵がぐしゃリとつぶされるという瞬間までが、想像できるほど、実感され、それゆえに人間の尊厳までを破壊する暴力の存在を想像することができるのであった。

 それだけに、かれの言う個人という卵がぶっつかって破壊される「壁」、その壁がどんな正義をのべようと、私は絶対に「卵」の側に立つ。それが文学であり、壁に組する文学など、およそ文学でも、芸術でもないと断言した。その明晰さはじつに身がふるえるほどの感動を、あたえてくれたのだった。

 明晰さ、ごまかしのなさ、それがイスラエル賞授賞式の受賞スピーチの比類なき特色であろう。そして、じつは、この特色は、前回に引用した明石達夫さんの証言にもあり、他のアンダーグランドの62人の証言者にもいえることである。なぜそういうことが生じるのか。それはどうでもとれるような言い回しなど、言っているひまはないほど、切実な生の現実と絡み合っているからである。それと比べて、世の言説のなんとあいまいさがあることか。


 そこで、ぼくは、再び、大江健三郎の言説に戻ってみよう。新春のインタービュー番組でかれが答えた回答のアナクロニズムに大きな疑問を持ったのだが、どうじにかれは「定義集」というエッセイを朝日新聞に投稿している。「定義集」このタイトル自体が、なんの意味なのか、いかにも意味がありそうで、はたしてあるのかというポジションを取っているのだが、まさに内容もまた意味不明なものである。

 これが文学者のエッセイであると、いえるのか、どうか、どうだろうか。その文体は、まさにアンダーグラウンドとは対象的な晦渋さとあいまいさに満ちている。

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