市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

宮崎市 今日は晴れ

2010-07-05 | 生き方
 
 夕べは 午前一時過ぎからチップが落ち着かず、明け方までに午前1時半、午前3時15分と外へ連れ出したが、排便するでなく、帰ると隣の部屋に行ったり、風呂場に入ったり、廊下から外をうかがい続けたりと、ぼくも寝つかれずに、そのまま朝になった。前日からつづいた嘔吐やら、皮膚炎のかゆみも納まっておらず、さすがに今朝は食欲喪失、ぐったり横たわっていた。10分間ほど(犬の1分は人の6分)、マッサージしてやると、気持ちよさそうに横たわっていた。それからクリニックには出勤が遅れると受付に電話して、そのまま9時前に青木病院へ。皮膚薬、かゆみ止め、嘔吐おさえの注射をしてもらって、ようやく元気そうになり、そのまま出勤した。ほんと、節子はなぜか神経痛が納まらず、これでぼくが歩けなくなったらチップはどうなるんだ、これから容易な問題ではなくなってくる予感がする。
 
 7月2日映画祭(第16回)が始まり、日曜日夜8時からポーランド映画を観た。暗すぎる。あんな北欧の風土、石倉のようなところが住居で石灰質の混じってどろどろとして荒地のひろがる街はずれが、暗さをいっそう募らせる、映画と実際の風物は、ちがうかもしれないが1968年のころのぼくの記憶では、北欧の暗さは底知れぬものを感じてはいた・・それに比べて日本の風土は楽なもんだと、ぼくは思ってしまうのだが、今週九州、宮崎県は、宮崎市街を除いて洪水災禍が、テレビで繰り返し報じられているのに、そう思う。

 今日は月曜、今朝は抜けるような晴れだ。この晴れ感は6月12土曜日以来の雨、曇りの連続のとぎれた隙間であるのかもしれないが、爽快感は気分を引き立ててくれる。蒸し暑さもまだ感じないですむ。

 先週、木曜日の夕方だった、そのときはチップは元気で、夕方早くに散歩に連れ出して、我が家の前に近づいたとき、班員のAさんに出会った。あれ、今日は早いですなと声をかけると、
「やっと、終わりました、口蹄疫」というので、かれの時事の挨拶に共感した。かれは燃えないゴミの運搬を市の仕事でやっているダンプのドライバーだと知っていたので、どうやら感染が納まるようだという、市民に流れてきだした安堵感の挨拶かと思った。ところがそうではなかった。口蹄疫の実際作業のことだった。おもわず、驚愕してしまった。わが12世帯班、80歳以上の世帯主が4世帯(女3人男1人 みなシングル世帯)来年はそこにさらに2世帯がくわわる。この超高齢世帯の班のなかに口蹄疫の仕事に関わった世帯があったとは、想像もできなかった。思えば彼だけは50歳台で、一番若い所帯主であり、4人のこどもがいた。アパート住まいであったが、こどもたちはそれぞれ独立して世帯を別にしていった。

 「殺処分をやりました。いや、処分された牛や豚の運搬です。そう、ほらそこら辺で、処分されるんですよ。」と、かれは前のアパートの角、20メートル先の地点を指差して
話をつづけだした。 「殺処分と肉用に搬出されるとは、まったく違うんですよ。それは苦しみが違う、吼え、泣き叫び、目は血走り、もがきながら死ぬんですからね」
 「まこちそら、そこのアパートの角くらいのところで、処分されるのを見ながらダンプの運転席で待っているんです。処分は電気ショック、注射、ガスなどですが、みんな鼻や口から血を流したり吹き出して死んでいる。それにみんな目を開いている、今でも生き返ってくるのかと思うくらい、はっきり目を開けているんです。それをリフトで救い上げてダンプに積んで運ぶのです。」
 「毎日やったんですか」
 「2ヶ月間、毎日です。やっと終わりました、やっと、」
 かれの真っ黒く日焼けした顔は、元気そうであり、ほっとして、かれに心からご苦労さんでしたねと言うばかりであった。

 ぼくの家からあるいて3分のアパートの2階にかれは奥さんとこども一人で暮らす世帯員だった。わが班内に口蹄疫の実際に関わった仕事をしている人がいたとは、想像を超えた現実であった。そして今朝は晴れであった。そしておもわず、ぼくは書いた。気分は今朝は爽快感があると、これが人間の本質なのか、想像力などあってないようなものに過ぎないと、だが、それだから救われているのかもしれないが、人の実存としてゆるされるのだろうか。

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