とんびの視点

まとはづれなことばかり

「ワンチーム」から「ソーシャルディスタンス」

2020年08月02日 | 雑文
8月に入った。やっと梅雨も明けた。本来なら(という言い方にも違和感を持つが)、真夏の太陽の下、オリンピックが開催されていたはずだ。個人的にはオリンピックにはそれほど関心がなかったので、延期が決まってもとくに残念とも思わなかった。それでも、何か空っぽの本棚を見ているような感じになる。本棚にはあまり興味のない本が並ぶはずだった。しかし、それらの本は届かなかった。何か別の本が並ぶのかと思ったが、いつまでたっても本棚は空っぽのまま。そんな感じだ。

先日、昨年のラグビーワールドカップの日本戦を録画で見た。あの頃も、台風の被害で試合が中止になるなど、けっこう大変な状況だった。それでも、人々にはその苦境を乗り越えようという意志と行動があった。ジャパンの選手たちも見事な戦いをし、立派な結果を出した。それは「空っぽ」とはまったく反対の世界だった。1つのボールに人々が密集する。体と体がぶつかり合う。汗と汗が飛び散りあう。大きな声をかけ合う。トライをすれば喜んで抱き合う。「ワンチーム」という言葉を何度も聞いた。

「密を避ける」「ソーシャルディスタンス」「飛沫を避けるためにマスクをする」。コロナに対処するために私たちが行っているのは、距離をとること、避けること、動かないこと。果敢にチャレンジしながら苦境を乗り越えるのではなく、コロナに捕まらないようにびくびくすることだ。試合を見ながら、まだ1年とたたないのに、社会はずいぶん変わってしまったなと感じた。

ワクチンや治療薬が開発されても、社会は以前と同じように戻りはしないだろう。私たちは「人(というウイルス)を避ける」という感覚を無意識のうちに身に付けてしまったと思う。(ここ数十年で、「自己責任」という感覚を身に付けてしまったように。)マスクした人に目の前で咳をされた時、以前と同じような感覚でいられる気がしない。どこかで「避けたい、逃げたい、離れたい」という感覚を持ってしまうと思う。その人からではなく、ウイルスからだ。咳をした瞬間、目の前の人は人でなくウイルスになる。

コロナの厄介なところは、感染していても発症しない時期や人があることだ。原理的には、目の前にいる人は咳をしようがしまいが、ウイルスである可能性がある。人として「親しくなりたい、捉まえたい、近づきたい」と思いつつ、ウイルスとして「避けたい、逃げたい、離れたい」とも思う。こういう、相反する感覚を同時に抱えながら、日々の生活をすることになる。かなりのストレスを感じるに違いない。そして、ちょっとでも気を抜いて感染をすれば、おそらく「自己責任」という言葉と向き合うことになる。耐えられるのかな?

そんなことを考えながら、今日もランニングをした。梅雨明けの土手、午後2時すぎ。夏の太陽は心地よいが、暑い。ゆっくり、ゆっくり走った。熱中症にならないように。結局、7月の走行距離は145km。もう少し距離を稼ぎたかったが、まあ、悪くはない。とりあえず、今年の年間目標を1500kmにした。1ヶ月に125km、12ヶ月で1500kmだ。計算上は7月末で875km走っていることになるが、実際は787km。まあ、今年の前半はほとんど走れなかったので仕方ない。残り5ヶ月で少しずつ取り戻そう。

走る時間が増えれば、走りながら思いを巡らす時間も増える。そうすれば、巡らせた思いを言葉にし、こうして文章に起こすことも出来る。文章にして自分の外側に出すことで、自分の中に新たなスペースが生まれる。そのスペースで新たな思いを巡らす。繰り返しだ。

梅雨も明けて夏が来た。何十年も通い続けていた館山での海水浴はなくなった。福島でのキャンプもなくなった。だからといって、空っぽの本棚のようにしておくことはできない。さて、何を並べようか。
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