とんびの視点

まとはづれなことばかり

大寒、マラソン、除染

2013年01月21日 | 雑文

とにかく忙しい。本来なら週末のマラソンに備えて、ゆっくりと体を休めておきたいのだがそうも行かない。去年なら忙しいのを理由にブログを書かなかった。今年は違う。忙しくてもきちんと書くつもりだ。(「きちんと」は余計かもしれないし、どこまで続くか怪しい)。

気がつけば昨日から「大寒」だ。二十四節気では最後にあたる。大寒が終われば次は2月4日の「立春」。暦の上では冬の最後というわけだ。七十二候では25日までは大寒の初候「蕗の薹華さく(ふきのとうはなさく)」にあたる。蕗の薹と言えば春の季語だ。大寒の初候に春を思わせる言葉が入っているあたりがよい。

館山若潮マラソンまで一週間を切った。今月はここまで159km走った。あとはレースで42km走れば、月間目標の200kmを達成できる。そういうわけでレースまではヒザや腰の痛みをケアし、睡眠をたっぷりとって体を休めることにする。あとは当日の体調と天気次第だ。今のところ晴れときどき曇りの予報で気温は低め、あとは風が吹くかどうかだ。

このところ東京新聞では「除染」絡みのニュースが多い。現場の作業員が給与面で騙されていたり、放射線量の管理が杜撰だったりだ。「放射能」ということを抜きすれば、そこで起こっているのは、とくに珍しいことではない。末端の弱者を食い物にして自分の利益を追求するという、想像力の欠如した人間が闊歩しているだけだ。いつの時代にも行なわれていた。

ありがちな話しだからといって、それを認めてしまうわけには行かない。(現状を受け入れること、それを追認することは別のことだ)。一つには想像力が豊かな人たちが(自分以外の人間の痛みを感じられる人たちだ)多い社会の方がよいと僕が思っているからだし、もう一つは、想像力豊かな慎重さが放射能の扱いには必須だからだ。ちょっとくらいゴミの分別をいいかげんにしても構わない、というような感覚の人間は放射能と関わることはできない。

19日の新聞には、「除染を適当にやれ」と言われた作業員の苦悩の声があった。現場の責任者が、「除染のために集めた枯れ葉を川に流せ」と指示したのだ。また年末が近づくと、「工期に間に合わないので、丁寧にやるな」と言われた人もいる。現場の班長も上位の下請け会社から指示されていたそうだ。作業員は「役立ちたいと誇りを持って仕事をしていた。手抜きを指示され、やる気がなくなっていった」と語った。

「福島の復興なくして、日本の復興はない」そうだ。福島でこんなやり方が横行しているとすれば、日本の復興もきっと張りぼてだろう。張りぼての復興はすぐに危機を迎える。危機を理由にまた拙速な対策をする。また張りぼてを作る。そんなサイクル(輪廻だよ)に陥らないように、どこかで踏みとどまらねばならない。原発事故というのは、その重大さゆえ、立ち止まり考え直すための大義名分になりえたのに、ある種の人たちは過去の出来事として忘れ去ろうとしている。

「除染」については、正直、よく分からないところがある。例えば、除染に莫大なお金を使うよりも、被災者の補償に資金を回した方がよいのではないか、ということ。チェルノブイリでは除染はそれほど有効ではなかった、ということ。一説には、除染そのものが巨大な利権になっているらしい。「利権」という言葉がうさんくさければ「ビジネス」と言ってもよい。ビジネスであれば、何よりも利益の追求が第一だ。被災者の心情や除染の有効性も金もうけという天秤で量られることになる。

しかし、除染の効果がなかったときどうするのだろう、と気になっていた。さすがにビジネスとしても問題があるのではないか。すると、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言 脱原発論』に答えらしきものが載っていた。(本の出版からも、雑誌掲載ともタイムラグがあるので状況が変わっている可能性もある)

政府は「平成25年8月末(発表時から2年後?)に被曝線量を半減する」と決定したらしい。(これが目標に当たるのだろう)。当時、地面を汚染している放射性物質のほとんどはセシウム134とセシウム137。この2種から出ている線量の比率は、7対3、134が7割、137が3割だ。そしてセシウム134は半減期が2年、セシウム137は半減期が30年。

つまり、除染をしなくてもセシウム134は2年で半分になる。放射性物質全体だと6割程度まで減少する。1割程度の未達であれば、「努力したが及ばなかった」と言える。国民は気にかけないだろうと思っているのだろう。2030年の原発比率をどうするか国民に意見を聞いておきながら、30年代末と言い換え、それすらもなし崩しにしてしまうような人たちなのだ。(結果的にそういう人たちを政権与党に選んだ国民)。除染の1割程度、何とでもなると思っているのだろう。

繰り返すが、「福島の復興なくして、日本の復興はない」というときの、福島の復興というのはこういうことなのだろうか。やれやれ、である。そういう形で頭を使うことは可能だ。でもそれは想像力とはまったく違うものだ。原発について考えることを止められないのは、一つにはまだそれが終わっていないからだ。もう一つには原発というフィルターを通して社会を見ていくと、いままで曖昧にされていたものがはっきりと見えてくるからである。