とんびの視点

まとはづれなことばかり

諸悪莫作

2011年07月04日 | 雑文
久しぶりに、家中に箒をかけ、雑巾がけをした。僕は周りに引きずられやすい方で、家が汚れていると精神状態もだらーっとしてしまう。反対に家がきれいになっていると、体の動きも良くなるし、頭の回転も(無駄に?)速くなる。

おまけに包丁でケガをした左手親指のバンドエイドも取れた。ちょっとした解放感だ。さらに先週は45kmほどランニングをした。暑さの中、汗がだらだらと流れる。最初は脂っぽい感じだが、だんだんとサラサラとした汗になる。汗と一緒に自分の中の汚れが出ていく感じがする。こうして少しずつ、体が良い感じになっている。(残りは左足の中指だ)

ふと思いつき、1月から6月までのランニング距離を合計してみた。半年で709kmだ。少ない。すごく少ない。最低でも900kmは走るはずだったし、目標は1100kmだった。ガタガタである。原因は明らかだ。目標の距離を月割り、週割り、日割りにし、その数字に自分を合わせて走らなかったからだ。(そしてこの期間、ブログの更新頻度も少ない。明らかにランニングとブログは連動している)

これではレースでタイムが落ちるのも当たり前だ。ケガは副次的な理由に過ぎない。目標に合わせて走らず、自分都合で走っていれば、結局のところ自分を超えることなどできはしない。ちょっと苦しいくらいが人を成長させるのだ。四の五の言わずに走り込み、四の五の言わずに書き続けよう。

道元の『正法眼蔵』の中の『諸悪莫作』というのを読んだ。道元の言葉は僕にとって非常に捉まえにくい。(一般的に難解だと言われている)。ただ、すごいことが書かれている予感はあるので何度も読んでしまう。そのうち「ああ、そう言うことか」と理解できるようになる。でも理解したことをコンパクトに要約してもあまり意味がないような気がする。道元が独特な言い回しをしたのは、そう言わなければならない理由があったからだ。コンパクトに要約した表現でよいなら、道元自身がそうしていただろう。

というわけで、ここで書くのは『諸悪莫作』の解説ではなく、読んで、僕が考えたことだ。

「諸悪すでにつくられずなりゆくところに、修行力たちまちに現成す」という一文がある。「もろもろの悪が作られず出来事がすすむところに、修行力がただちに現れる」とでもなろうか。言葉としてはそれほど難しいものではない。しかしこの言葉遣いからは、私たちとは違う考え方を想像することができる。

「悪を作らないところに修行力がただちに現れる」。修行力を「善」と読み替えれば、「悪を作らなければ善がそのまま現れる」ということになる。悪を作らないというのは単に悪が存在しないだけでなく、善をそのまま出現させることに繋がっているのだ。つまり悪か善しか存在していないことになる。

これは私たちの日常的な捉え方とは違う。私たちの多くは、悪と善とその中間、つまり「善でも悪でもないもの」の3つに分けて出来事を捉えている。(仏教の術語では「善、悪、無記」となる)。そして多くの出来事は善でも悪でもないその中間に収まっているし、中間の出来事が多いほど、平穏な日常を過ごすことができる。強度のある善や悪は、日常を非日常化する力を持つからだ。

善でも悪でもない中間の出来事というのは、2つの点で私たちの心性にマッチしている。(と、いま思いついた)。1つは、客観的に物事を捉えるという考え方と絡みやすいことである。主観的な判断を交えずに、まずそこに何が存在しているのかを客観的に理解することは、私たちが学校教育などを通して叩き込まれてきた方法だ。善悪の判断を交えずに物事を捉えることは良いこととされるのだから、中間的な出来事が多いほど、私たちは正しいとされる物事の捉え方をすることになる。

もう1つは、善でも悪でもない中間の出来事には無関心でいられることだ。善でも悪でもない出来事は、差し当たり自分にそれほどの影響を及ぼすことはない。自分に影響を及ぼさないのだから、それは自分とは関係のない出来事である。つまり中間の出来事が多ければ多いほど、私たちはさまざまなことに無関心でいられる。裏を返せば、自分の好きなやり方でさまざまな出来事と関係を結べるという誤った思い込みを持つことになる。自分のやりたいことをやりたいようにやればいい、という訳だ。

震災以後、善でも悪でもない中間の出来事、自分が無関心でいられる中間の出来事の幅がだいぶ狭くなったことは確かだ。原発は善でも悪でもなかったが、関係ないとは言えなくなった。そして今後、私たちはさまざまな場面で、今まで中間だと思っていた出来事に対する態度表明を迫られることになるだろう。つまり出来事は善、悪、無記の3つの分け方から、善、悪の2つへの分け方に向かうだろう。

しかしここで注意しなければならないのは、あのブッシュ大統領が世界中に迫ったような、善悪二元論に陥ってはならないということだ。ブッシュがやったのは、中間的な存在を認めず、世界を善と悪に二分したことだ。世界には白か黒しかなく灰色は許さないと言うわけだ。(日本はいち早く「自分も白だ」と表明した)。

善と悪しか存在しないという意味では、ブッシュの二元論は道元の「善と悪しか存在しない」という考えと似ているように見える。しかしこれは決定的に違う。道元ならブッシュに「善と悪しか存在しないというお前の言葉は間違いである。正しいのは善と悪しか存在しないということなのだ」と言うだろう。(道元の難解さ、コンパクトな要約が意味を成さないのは、道元のこういう言葉遣いが理由の1つだ)。

ブッシュに代表される(そして多かれ少なかれ私たちが採用している)善悪二元論とは、「白か黒」の世界であり、「白は白」「黒は黒」の世界である。そこには「灰色」は認められず。白と黒は戦いを通して相手を殲滅することが求められる。(だから実際に戦争に向かっていった。積極的に避けようとする姿勢は感じられなかった)。

道元の善悪はそれとは違う。仏教が提示している善とは「悪を善に向かわせている状態」であり、悪とは「自らの悪によって善を機能させている状態」である。つまり、善は善として白いままで存在せず、悪は悪で黒のまま存在できないのだ。善は自らの白さの中に悪の黒さを抱え込み、ひとたび灰色となって、その浄化作用で相手を黒から白へと近づけさせる。その意味では、悪と離れた真っ白な善などに存在価値はないのだ。(現場から離れたところで正論ばかり言っている批評家みたいなものだ)。

だから世界は善と悪の戦いにはならない。一方が他方を殲滅することにはならない。白か黒かの世界ではない。それどころか常に世界は灰色となる。限りなく白に近い灰色から黒に近い灰色まで、常に変化する斑模様の灰色が世界の全体となる。

それは結局のところ、世界には自分とは関係のない中間的な出来事など存在しないということ受け入れ、その上で、出来事に善悪のレッテルを貼るのではなく、出来事と自分がどのような関わりを持つのかを1つ1つ問うことである。自分の力が弱ければ自分は黒くなっていくし、自分の力が強ければ少しは灰色を白っぽくできる。あとは自分の力をつけておくだけである。その力こそ修行力である。だから、悪がなされないところ(黒に呑み込まれないところ)では、修行力(灰色を白に近づける力)がたちまちに現れるのである。