「そもそも半分というのがだめなんだよな」。相方と台所で洗い物をしていたら、こんな言葉が頭に浮かんだ。「そもそも半分というのがだめなんだよ」と口に出してみる。手元ではぬるいお湯がコップの洗剤を洗い流す。「何が?」、当然である。いくら相方とは言え、これだけの言葉で理解できるはずもない。「半分」の何がダメなのか。その言葉に至った妄想を巻き戻してみる。
突発性難聴になったことは前にも書いた。その後、悪くもならず良くもならず、という感じだ。つまり以前よりは聴力が落ちたが、日常生活に不自由を感じるほどでもない程度だ。一応、通院もしているし、医者もこのまま様子を見ながらと言っているので、僕としては極めて平穏な日々を送っている。
驚いたことに、周りの人がすごく心配してくれる。ありがたいことだ。人に何かを期待することは一切しないが、何かあったにときに心をこちらに向けてくれる人がいる。そのことを知るのはとても嬉しい。嬉しい反面、相手に心配をかけさせては悪いと思い、自分がぜんぜん不安ではないことを伝える。
医者に通っているし、日常生活もそれほど不自由ではない。確かに以前と比較したら聴力は落ちている。でもそれを嘆いても仕方がない。以前はあった聴力が、いまはない。あった時は、あるのが現状。なくなった今は、ないのが現状。何ごとも現状を受け入れることからしか始まらない。というようなことを話したり、話さなかったりする。
こういう話しをするとたいてい、ポジティブですね、という反応が返ってくる。確かにそうかもしれない。内田樹が神戸で震災にあった時のことを書いたものをだいぶ前に読んだ。震災後に人々は2種類にわかれた。失ったもののリストを作り上げる人間と、残っているもののリストを作り上げる人間。そして残ったものリストを作り上げた人間のほうが明らかに再建に向けて前向きであったと。(by不確かな記憶)
そのとおりだろうと思う。僕も残っているリストを作り出すだろう。でもそれは、失ったものが大切ではなかった、ということではない。自分がなぜそれを失うことになったのか、もし失わなければどのような世界が待っていたのか、失ってしまったからにはそれなしでどう生きていくか、そういうことにきちんと思いは巡らせる。
失ったものをきちんと考えることと、失ったことを嘆くことは別のことだ。きちんと考えることで、失ったものを葬り、それなしでも大丈夫でいられるようになる。嘆くことは、その喪失を受け入れられないことだ。いつまでたっても、それなしではやっていけない。手厚く葬ってやらないから、化けて出てきたりする。
ある時ある場所でたまたま自分が所有していた。すべてがそんなものである。昨日あったものが今日なくなることは不思議なことではない。今日あるものが明日も絶対になくならないとは誰も言えない。これが最後かもしれない。そう思うとさまざまな出来事が大事に見えてくる。その一方で、何かを失っても、以前と比較して現在を喪失と捉えるのでなく、新たな現状としなければならない。過去と現在を比較して、「ある」とか「ない」とかを言ってはだめなのだ。
ということを考えていたら、巷でよく使われる話しを思い出した。「コップに半分だけ水が入っている。これをまだ半分〈ある〉と捉えるのか、もう半分しか〈ない〉と捉えるのか。あなたはどっちだ」というヤツである。僕もこの質問を受けたことがあるし、人々がやり合っているのを見たこともある。正直に言うと、何をやっているのかピンと来なかった。何かが間違っている気がしていた。
そんなことを妄想しながら洗い物をしていた。そして、ふと気づいた。「そもそも半分というのがだめなんだよ」と。「半分」という言い方をしたときに、コップの水は「一杯」との比較によって捉えられている。「半分ない」という欠落状態である。その「半分ない水」を「ある」と捉えるのか「ない」と捉えるのかという問いになっている。
気持ちは分かるが、問い方が間違っている。きちんと問いたいなら、半分ほど水の入ったコップを目の前に置いて「どうだ?」と尋ねるべきである。何も説明しない。ただ「どうだ?」と尋ねるべきなのだ。きっと何を尋ねられているのかわからなくて、いろいろ考え出すだろう。そのときに情報が足りないから考えられないとその欠落を言うのか、その状況でも何とか考えようと現状を受け入れるのか、その違いが見えてくるはずである。洗い物をしながらの妄想である。
突発性難聴になったことは前にも書いた。その後、悪くもならず良くもならず、という感じだ。つまり以前よりは聴力が落ちたが、日常生活に不自由を感じるほどでもない程度だ。一応、通院もしているし、医者もこのまま様子を見ながらと言っているので、僕としては極めて平穏な日々を送っている。
驚いたことに、周りの人がすごく心配してくれる。ありがたいことだ。人に何かを期待することは一切しないが、何かあったにときに心をこちらに向けてくれる人がいる。そのことを知るのはとても嬉しい。嬉しい反面、相手に心配をかけさせては悪いと思い、自分がぜんぜん不安ではないことを伝える。
医者に通っているし、日常生活もそれほど不自由ではない。確かに以前と比較したら聴力は落ちている。でもそれを嘆いても仕方がない。以前はあった聴力が、いまはない。あった時は、あるのが現状。なくなった今は、ないのが現状。何ごとも現状を受け入れることからしか始まらない。というようなことを話したり、話さなかったりする。
こういう話しをするとたいてい、ポジティブですね、という反応が返ってくる。確かにそうかもしれない。内田樹が神戸で震災にあった時のことを書いたものをだいぶ前に読んだ。震災後に人々は2種類にわかれた。失ったもののリストを作り上げる人間と、残っているもののリストを作り上げる人間。そして残ったものリストを作り上げた人間のほうが明らかに再建に向けて前向きであったと。(by不確かな記憶)
そのとおりだろうと思う。僕も残っているリストを作り出すだろう。でもそれは、失ったものが大切ではなかった、ということではない。自分がなぜそれを失うことになったのか、もし失わなければどのような世界が待っていたのか、失ってしまったからにはそれなしでどう生きていくか、そういうことにきちんと思いは巡らせる。
失ったものをきちんと考えることと、失ったことを嘆くことは別のことだ。きちんと考えることで、失ったものを葬り、それなしでも大丈夫でいられるようになる。嘆くことは、その喪失を受け入れられないことだ。いつまでたっても、それなしではやっていけない。手厚く葬ってやらないから、化けて出てきたりする。
ある時ある場所でたまたま自分が所有していた。すべてがそんなものである。昨日あったものが今日なくなることは不思議なことではない。今日あるものが明日も絶対になくならないとは誰も言えない。これが最後かもしれない。そう思うとさまざまな出来事が大事に見えてくる。その一方で、何かを失っても、以前と比較して現在を喪失と捉えるのでなく、新たな現状としなければならない。過去と現在を比較して、「ある」とか「ない」とかを言ってはだめなのだ。
ということを考えていたら、巷でよく使われる話しを思い出した。「コップに半分だけ水が入っている。これをまだ半分〈ある〉と捉えるのか、もう半分しか〈ない〉と捉えるのか。あなたはどっちだ」というヤツである。僕もこの質問を受けたことがあるし、人々がやり合っているのを見たこともある。正直に言うと、何をやっているのかピンと来なかった。何かが間違っている気がしていた。
そんなことを妄想しながら洗い物をしていた。そして、ふと気づいた。「そもそも半分というのがだめなんだよ」と。「半分」という言い方をしたときに、コップの水は「一杯」との比較によって捉えられている。「半分ない」という欠落状態である。その「半分ない水」を「ある」と捉えるのか「ない」と捉えるのかという問いになっている。
気持ちは分かるが、問い方が間違っている。きちんと問いたいなら、半分ほど水の入ったコップを目の前に置いて「どうだ?」と尋ねるべきである。何も説明しない。ただ「どうだ?」と尋ねるべきなのだ。きっと何を尋ねられているのかわからなくて、いろいろ考え出すだろう。そのときに情報が足りないから考えられないとその欠落を言うのか、その状況でも何とか考えようと現状を受け入れるのか、その違いが見えてくるはずである。洗い物をしながらの妄想である。