とんびの視点

まとはづれなことばかり

日の出に合わせて走る

2022年01月04日 | 走ること
一昨年の夏くらいから早朝ランニングをするようになった。土手で朝日を見ては、今日も人々が幸せに過ごせますように、と心の中で祈ったり、たまには太陽に手を合わせたりする。コロナが原因だ。太陽が毎日きちんと昇ってくることに、なんというか、力強さとありがたさを感じた。

夏などは5時ごろにランニングをしても、昇りくる太陽を見ることができる。ところが秋が深まり、冬になると、こちらが日の出に合わせないといけない。今などは7時近くにならないと、太陽は姿を現さない。(夜明け前の東の空が少し明るくなる時間帯もとても美しいのだけど。)

勝手な思い込みで、私は冬至の日の「日の出」が最も遅い時間で、その翌日から少しずつはやい時間に太陽が昇るのだと思っていた。冬至というのは1年で最も日中がみじかい日だからだ。(去年は12月22日が冬至だったと思う。)ところがちがった。日の出が最もおそいのはもっと後だった。あさっての1月6日だ。午前6時51分の日の出で、冬至よりも4分以上もおそい。(冬至をすぎると日没の時間がおそくなるのだ。)

なんでそんなことを気にしていたかというと、朝の土手が寒いからだ。(今年はとくに寒い)。冬の太陽が昇る前の土手はほんとうに寒い。ランニングの疲れよりも、寒さで体力を削られるほうがキツイ。(そのせいで、昼間に異様な眠さに襲われることになる)。少しでも早く太陽が昇ってくれると、暖かくていいな。冬至を過ぎれば少しずつ楽になるのだ、と期待していた。

しかし冷静に考えれば、寒さの本番はこれからだ。太陽が少しばかり早く昇るようになっても、まだ1ヶ月以上は寒さとが続くだろう。冬の土手が寒いのは自然なこと。寒い明け方を楽しむことにしよう。

ちなみに、今年のランニングの目標は1500km。去年と同じだ。(去年は1505kmでギリギリ達成)。月に125km平均なので走り続けていれば問題なく達成できるだろう。去年はちょっとトラブルがあった。9月10日にモデルナワクチンの2回目接種をした。なんとその翌日、足が腫れ、痛みが続いた。1ヶ月以上走れない日が続いた。そのままランニングが出来なくなることを一時は覚悟した。(普通に歩けて、車の運転ができればいいか、と思った。オミクロンがどうなるかわからないが、3回目のワクチンはできれば受けたくない。)

とくに問題がなければ、今年も目標の1500kmは達成できるだろう。でも距離だけでなく、できれば日の出に合わせて今年も走りたいものだ。太陽の昇る場所の変化、光の強さ、熱の暖かさ、土手の緑、川面の色の違い、そういうすべてが繋がりながら、変化しつつ、それらが大きなサイクルで繰り返される。そして自分もそんなサイクルに含まれていることに気付く。

うまく実感できると、みんなが幸せでよい一日を過ごせることをねがう気持ちが自然と湧いてきて、心の中で祈ったり、太陽に手を合わせたりすることもある。

みなさん、しあわせで、よい一年でありますように。

ランニングを再開する

2021年11月07日 | 走ること
11月に入り毎朝5kmのランニング(というよりはジョギング)を再開した。9月10日にモデルナワクチンの2回目を接種後、足首から下が腫れたり、痛みが出たり、内出血したり、とても大変だった。半月近くまともに歩けなかった。さらに半月ほどは痛みを感じながら、脚を引きずって歩いていた。何とか普通に歩けるようになったのが10月半ば。そこから散歩したり、20分程度の軽いジョギングを始めた。そしてやっと、今月から毎朝5キロのランニングを再開した。しかしまだちょっとした痛みは残っている。

今年は年間のランニング目標を1500kmにしていた。1ヶ月当たり125km。それほど大した距離ではない。走れない時期が続いても、埋め合わせが出来る目標だ。実際、ワクチン前には月150kmペースで走っていたので、だいぶ距離を稼いでいた。しかしワクチン後、走れない日々が続き、気持ちも落ち込み、目標は意識から遠ざかっていた。

走っていない時期が続くと、気分が落ち込み、メンタル的にやられてしまう傾向がある。最低でも週に4日、30分以上、出来れば1時間くらい走らないとダメだ。それが出来ると、心身ともにリセットされて、多少はまともな人間になれる。

ワクチン接種後、走れないことでメンタル的にも落ちていた。やる気、元気がなくなる。妙な不安感がつねにつきまとう。「まずいな、走れなければ」と思い、今年のランニング距離を計算した。1201kmだった。残り、2ヶ月で300km走れば一応、目標達成できる。単純計算で1日5km走ればよい。距離としては大したことはない。こういう時は、目標を設定して、ちょっとがんばる方がよい。走れば確実に痛みは出るだろう。でも、とりあえず走ってみることにする。多少の痛みはあっても、メンタル的には調子が良くなる。今の段階ではその方がメリットがあるだろう。

そんなわけで、1週間ほど早朝に5kmほどランニングをしている。日の出の時間が遅くなったので、走り始める時間も少し遅くなる。太陽の昇る場所が変わっていることに気付き、ちょっと驚いたりする。土手の風が冷たく乾いたものになっている。土手の草に水気がなくなり、揺れ方からしなやかさがなくなる。猫たちが少し縮こまっている。そんなひとつひとつを見ていると、自分にとって走ることが必要なのだとあらためて気付く。そういうひとつひとつが、少し自分を元気にする。足がこのまま問題ないとよいと思う。とりあえず、ランニングの再開だ。

オリンピック終わってた

2021年08月11日 | 雑文
オリンピックが終わっていた(という感じだ)。
結局、最初のころ、バレー部の息子たちと男子バレーを2試合ほど見ただけだ。
もともとテレビをほとんど見ない。街にも外国人や国内観戦者もいない。新聞も7月いっぱいでやめた。
オリンピックをやっているという事実は認識しているが、実際の出来事はほとんど知らないままだった。

ステイホームで、さまざまな競技をテレビで見た人のオリンピックと、私のオリンピックはかなり違う。
にもかかわらず、どちらも「それ」を「オリンピック」と同じ言葉で指し示す。
言葉が同じでも、それが指し示す意味は人によりけり。
そんな人たちが「オリンピック」という言葉で「オリンピック」を語る。
いろんな意見が出てくるのも当然だろう。

「オリンピック」への自分の意見は、自分の見ている「オリンピック」についての意見。
「オリンピック」へのあなたの意見は、あなたの見ている「オリンピック」についての意見。
「オリンピック」への賛否や意見を尋ねる前に、確認しなければならないことがある。
「あなたにとってのオリンピックとは何ですか?」と。

異なる意見が出てくるのが当然だろう。
その異なりを親和的にやり取りできるのが、よいコミュニケーションなのだろう。
誰かが「成功」「失敗」を決めて、異なる意見を許さないのは恐いことだ。

大人は和して同ぜず、小人は同じて和せず、って、論語だった気がする。

コロナと資本主義

2021年08月09日 | 時事
斎藤幸平さんの本などで、マルクスについてちょっとだけ学んでいる。
それによると、資本主義とは、社会のあらゆる「モノ」を「商品」に換えていく運動だそうだ。終わることなく「価値(利潤)」の増殖を続けていく運動。

すべてが「商品」に変わっていく社会。誰もが、何かを見たときに「これ売れないかな?」と考える社会。「もっと儲からないかな」と考える社会。それが資本主義社会だそうだ。

冷戦崩壊後、資本主義が世界中を覆った。それ以外のあり方など存在しないかのようだ。実際、多くの人たちが資本主義的な価値観や行動規範を内面化した。(そうしないと、生きていけないような状況が広まった。)

資本主義以外の社会を思い浮かべられないのであれば、社会はそのまま資本主義社会ということになる。疑うことの許されない、信じるべき、唯一の真理。

そんな中、社会や世界のあり方が脅かされたとする。それは自分や家族の生活や命を脅かそうとする。

当然のように、社会や世界を守らなくてはと、私たちは思う。自分や家族の生活や命を守るためにも。必死で、全力で。

ただその社会は、資本主義社会た。あらゆる「モノ」を商品に換えるような運動。その運動を維持する、いやそれ以上に拡大させることが、社会や世界を守ることになる。

コロナ禍と言われてだいぶ経つ。その中で、何人もの人から「コロナ禍を逆手にとってビジネスチャンスにする」という言葉を聞いた。

「コロナ禍」すらも「商品」に換えようとする。それは、あらゆる「モノ」を「商品」に換える資本主義としては当然の行為だ。コロナ禍に負けないというのは、コロナ禍においても資本主義を維持することになる。

なぜなら、資本主義社会こそ唯一の社会だからだ。資本主義を守ることで、世界や社会を維持し、自分や家族の生活や命を守ることが出来る。

そう考えると、コロナ禍での対策の多くが経済対策だったことに納得がいく。資本主義以外の社会が想定されていれば、人命優先ということも考えられるだろう。

しかし、社会とは資本主義しかないのであれば、資本主義が崩壊することは社会が崩壊すること、すなわち人が生きる器そのものが無くなることだ。それは恐怖以外の何ものでもない。

コロナが治って資本主義が崩壊する。コロナが治らなくても資本主義が繁栄する。非現実的な二択だが、そんな二者択一が行われているような気もする。

生産性、という違う角度からの言葉を持ち込めば、生産性のない人はコロナが治らなくても構わない。なぜなら「価値(利潤)」の増殖に役立たないから、ということになる。

世界的な気候変動、富の一極集中、過度な開発による感染症の多発。資本主義をこのまま続けるのは無理だろう。
人は生産性で測られるべきでいない。少しくらい鈍くさくても、まじめに額に汗して働いていれば、笑顔でいられる。そんな社会がよいと思う。

大したことは出来ないけれども、まあ、行けるところまで、行くしかないだろう。
明るく、笑顔で。

真夜中に『〈責任〉の生成〜中動態と当事者研究』を読む

2021年05月07日 | 雑文
昨夜は11時前に眠りについた。ところが12時半過ぎに目が覚めて、眠れなくなった。1時すぎても眠れないので、酒を飲みながら本を読むことにした。國分功一郎氏と熊谷晋一郎氏の対談『〈責任〉の生成〜中動態と当事者研究』だ。すでに2回ほど読み、付箋が山のように着いている。付箋の部分をノートに書き写し、ゆっくりと考える。そして眠気を待つ。眠気が訪れたのは3時すぎ。お酒もけっこう進んだ。5時すぎに起きるのは無理だろう。

7時すぎに目覚める。あまり心地よい目覚めではない。お酒も少し体に残っている。それでも支度をして、5キロほどジョギングをする。土手の力で少しまともになる。簡単に猫の毛を掃除し、シャワーを浴び、自宅で仕事をする。

昼前に義母のケア施設に行く。コロナの影響で面会は一週間に一度、15分ほどだ。この制限は認知症にとっては厳しい。最初から話しがかみ合って弾むことはない。場合によっては、最初から最後までぎこちないやり取りで終わることもある。上手くいけば、言葉だけでなく気持ちのやり取りも出来る時間が10分くらい続く。今日は、ちかごろ始めた「ぬか漬け」を話題にした。私が「浅漬け」は「朝漬け」であり、朝しか食べられないものだと思っていたと言うと、義母は楽しそうな声で、「あっさり」漬けているから「あさづけ」よと答えた。上手く話しが繋がった日だった。

夕方、天気が崩れてきた辺りから、軽い頭痛を感じるようになった。このところ、天候や気圧の変化に体調が引きずられることが多い。あまり頭を使わずにすむ仕事を機械的にこなす。

今日の新聞の一面トップは「31日まで宣言延長へ」だ。東京などの緊急事態宣言のことだ。スポーツ面には「小野初の五輪代表」。そして社会面には「コロナ対応悲痛な叫び 立川の病院、窓に張り紙」とある。写真に写った窓には「医療は限界、五輪はやめて!」の張り紙。社会がバラバラな感じがする。

何でも良いから、文字を書こうとしている。直観的にそうした方が良いと感じている。そしてかなり頑張らないとすぐに止めてしまうことも見えている。こういう時は、内容は二の次だ。手を動かし続けることだ。「考えてはダメだ。脚が止まってしまう。踊るんだ。」『ダンス・ダンス・ダンス』に羊男のそんなセリフがあった。書いているうちに、書くこともいずれ見えてくるだろう。

外は雨が降っているようだ。雨音は聞こえないが、時おり屋根から落ちる雨垂れの音が、空いた窓から聞こえてくる。明日は土曜日だが早起きをしよう。そして少し長めに土手を走ろう。夜中に目が覚めることなく、ぐっすり眠れますように。