興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

精神療法における「良い人間関係」のパラドックス

2014-05-21 | プチ精神分析学/精神力動学

 心理療法には、様々なスタイルがあり、その多様な流派による治療の中で、何が一番効果的であるのかを究明するという試みは、臨床研究において、何十年も前から行われていて、今でも続いています。しかし依然として、はっきりとした結果は出てきません(鬱など特定の急性精神疾患の期間限定の治療において、認知行動療法などが特に効果的である、というデータはありますが、全体的な効果については結論が出ていません)。

 「心理療法」そのものが、流派は何であれ、心理療法を受けない場合と比べて、その人の心の問題の改善に効果があるという結論はあります。しかしそれでは全体として、どの治療法が一番いいのか、というと、まだ決定的な結論は出ていない、ということです。

 つまり、心理療法において、具体的に、どういう技術や治療的介入、どういった治療上の要素が特に効果的であるのかは、それぞれの研究の結果がまちまちであるのですが、ひとつだけ、こうした多くの研究の間で、首尾一貫して効果的であることが明らかになっている例外的な要素があります。

 それは、クライアントと治療者との人間関係の質です。

 その治療関係の良し悪しが、その治療の効果と強い相関関係にある、ということが、多くの研究でわかっています(脚注1)

 そして私は常々この「良い治療関係のパラドックス」を面白く思っています。

 まず、この治療関係における「良い人間関係(Good relationship)」とは何かといいますと、そこにはいろいろな要素があります。

 まず、クライアントが、安心して、くつろいで、自分の思っていることを何でも治療者に話せる関係性です。クライアントとしては、精神療法に行くのが楽しみだったりします。少なくとも、治療に行くのが苦痛であったり、その治療者と話したくない、会いたくない、というような状況ではありません。そして、治療者としては、そのクライアントのことを深く理解していて、その人をありのままに、無条件に受け入れていているようでなくてはなりません。また、治療者の方でも、必要なこと、思ったことなどを、きちんとクライアントに伝えられる、良いコミュニケーションのある人間関係です。こういうとき、治療者の方も、そのクライアントと会うのが楽しみであったりします。

 そこには、人間ひとり対ひとりの、相互のリスペクトがあり、互いに取り繕ったり偽るようなことはなく、互いに本当(Authentic)でなくてはなりません。

 ここまで読んで、「そんな人間関係が存在するのか?」、と思う方もおられるでしょうし、メンタルヘルスの治療に従事していて、「そんな関係はどうしたって築けない患者はたくさんいる」、と仰る治療者の方も多いでしょう。しかし私は、今までの自らの臨床経験から、それは可能であると断言できます。

 ただ、これはもちろん、程度問題(カテゴリーではない)であり、また、会ったその瞬間から良い人間関係、などというものではありません。

 まず良い人間関係には、相互理解が必要だからです。ただ、初めから良好な関係で治療が始まり、それがさらに良くなっていくケースもあれば、誰かに言われたからとか、治療に行かないと大変なことになるなどと、外的な圧力により嫌々治療にやってきたりして、出だしはまずい感じであったものの、回を重ねるごとに少しずつ良くなっていく、という場合もあります。

 そして、あらゆる人間関係でもそうであるように、その治療関係には、多かれ少なかれ、浮き沈みもあります。良好であった人間関係が、何らかの理由で悪化したとき、その問題にきちんと向き合って、その治療関係を修復するのも治療者の役目ですし、また、その治療関係に何らかの不穏なものがでてきたときに、いち早くそれに気づいて、それについて効果的に対応するのも、治療者の役目です。

 こういうわけで、良い人間関係が治療効果と強く結びついていることは確かですが、その都度その都度、治療が効果的でないと、その人間関係は良くなくなるわけで、これは同時に、「効果的であること」が、「良い人間関係」と直結しているのです。

 そこで治療者は、「どうしたらこのクライアントとよい人間関係が築けるか」、「どうしたら改善するか」、「どうしたら維持できるか」、常に考えてそのクライアントと交流する必要があります。

 これは、別の言い方をすると、どんなに強力な技術があろうと、クライアントとの良い治療関係なくしては、それこそ何をやっても効果はありませんし、また、よい人間関係があれば、その良い人間関係が維持したり、深まっている限り、極端な話、治療者は倫理的であれば何をしても良いわけです。しかし、実際に何をするかは非常に繊細な問題で、本当によく考えなくてはなりません。というのも、「何がその人にとって一番良いか」は、その瞬間ごとに異なるわけで、治療者としては、その時に最善なものを選ばなくてはなりません。見当外れなことをしていては、治療関係は悪化します。

 このように書いていると、治療者はほとんど不可能なことをしているように思われるかもしれませんが、そんなことはありません。

 なぜなら、治療者も失敗するからです。

 もちろん、治療者の能力が高ければ高いほど、失敗の頻度も少なくなるし、また、致命的な失敗をする可能性も低くなりますが、それでもどんな治療者でも失敗します。そして、この失敗は、ある程度の長さの治療関係のなかでは、どうにも避けようのないものです。

 というのも、ある程度の長さの精神療法において、失敗は起こるようにできているからです。これは専門的には、共感の失敗(Empathic failure)と呼ばれるもので、実はこれは、治療関係を含めた、すべての本当に良い人間関係において起こらなければならないことだからです(これについてのより詳しい話は、自己心理学や、間主観性についての記事で後ほど触れてみたいと思います)。

 ここにもうひとつ、精神療法におけるパラドックスが存在します。

 「どうせ失敗が遅かれ早かれ起こるのなら、失敗してもいいや」とか、「治療者の失敗が患者にとって必要だ」、などという姿勢の治療者は、クライアントと良い人間関係を築くことなど望むべくもないことで、つまり治療者は、「共感の失敗」をしないように常に全力を尽くしてクライアントと向き合いながら、本当にやむを得ず失敗する、ということです。

 前者の治療者の失敗は、治療関係を破壊する、クライアントにとって、トラウマティックな失敗であるのに対し(こういうことが起きたとき、クライアント・患者さんは、傷ついたり、治療者に嫌気がさして、治療に戻ってこなくなります)後者の治療者の失敗は、修復可能な失敗であり、つまり、クライアントにとって決定的にトラウマティックでない失敗である場合が多いです。

 治療者も人間ですので、どうしても、いつも100%クライアントの気持ちやニーズが理解できるわけではなく、また、良い治療関係において、クライアントのほうでも理想化という防衛機制が働いているため、こうしたなかで、クライアントの高い期待と、治療者の言動に、ブレがでることは、どうしてもあるのです。

 そこで、クライアントは、「この人は完璧ではないけれど、いつも私のことを本当に考えてくれていて、いつも良い意図がある」という風に、治療者の「不完全性」と、「良い存在」の両方を、心から理解することになります。これを可能にするのは、基盤になった良い人間関係であり、こういう治療者のような存在を、ウィニコットは、"Good enough mother"と呼びました(脚注2)。

 このときにクライアントは、今まで理想化していた治療者の欠点や不完全性を感じてそこにある種の失望や悲しみを経験するわけですが、それでも首尾一貫して自分にとって良い存在であり続ける治療者を、ひとりの人間として、その「適度な」失望感と共に受け入れていくなかで、より健全で成熟した自己を構築していきます(このプロセスを、自己心理学のコーハットはTransmuting internalization[変容性内在化]と呼びました)。

 日本の諺、「雨降って地固まる」にも通じるものがありますが、こうした、治療関係の間に必然的に起きたEmpathic failure、共感の失敗を、クライアントと治療者が一緒に向かい合って取り組んで、ともに乗り越えることで、さらに強い絆と信頼関係ができていきます。

 ここまで読んでお分かりのように、クライアントと治療者が「良い人間関係」を築き、維持したり、深めたりするというプロセスのなかで、ふたりの間には本当にいろいろなやり取りがあり、また、そこには治療者の相当な臨床能力や知識や経験が要求されるもので、どうやら、良い人間関係が精神療法の良い結果をもたらすということは、同時に、クライアントと良い人間関係を築き、維持し、深めていけるのは有能な治療者で、有能な治療者は効果的な治療ができる、という説明も成り立ちそうです。

__________________

脚注1)これは相関関係であり、因果関係ではないので、ここには当然、「治療関係の質」と、「治療の結果」を結び付ける、第三の変数となるいろいろな要素が存在しているわけですが、いずれにしても、「良い治療関係」が、「治療による良い結果」の指標になっていることは確かで、これは、心理療法の世界にいると、経験的にもとてもしっくりいくもので、実際、クライアントと治療者の良い人間関係が治療効果、良い結果に結びついているのは明らかだと思います。

(脚注2)この"Good enough mother"にはいくつかの邦訳語があり、「程よい母親」という訳語をしばしば目にします。良い訳ではあると思いますが、私としては、「(完璧ではなくて)十分に良い母親」という感覚です。「十分に良い母親」とはあまり締まりのない響きで、何か他に良い言い回しがないかなと思っています。いずれにしても、Good enough motherは、完璧ではないけど(完璧な母親など存在しません)健全な心の子供が育つのに大切な良い性質を、十分に満たしている母親、と言えそうです。



 



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4 コメント

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Unknown (アンノウン)
2014-06-07 06:41:25
私と主治医の関係が、正にこれです。紆余曲折ありましたが、なんだか“お母さん“みたいだなと思う時があります。(男性医師ですが。)大袈裟に言うと育てあっているかの様です。

自分と良い面も悪い面も性格が似ているのです。悪い面が似ていると、自分も反省したり。主治医の方が心の成熟度が高いです。私の方が得意な面もあります。公平で正直なので裏表がありませんし、含みのある言い方もしないし分かりやすい人です。

むくむくと理想化がもたげるのは裏切られた場合、ダメージは底知れないからほんと防御反応。

対等に接してくれます。私が言った事を考えたり、主治医が悪かった時は謝ってくれます。理解しようと苦心してました。しかも自然になので、本来の性格でしょう。

失敗しても、より良い自分を目指しているのが分かります。初診から現在まで、主治医自身が変わりました。これからも変化し続けるでしょう。その後ろ姿を見ているから“お母さん“と感じるのでしょう。今のところ、どう生きれば良いのか?のお手本になっています。
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Unknown (Taka Kurokawa)
2014-06-07 22:22:18
アンノウンさん、

それは素晴らしい治療関係ですね。そのような治療関係は本当に貴重です。大切にしてください。

良い治療関係において、患者と治療者はともに成長していくものですが、あなたと先生との関係はそのようなものですね。そのように、患者の発言にしっかりと耳を傾けて、フィードバックを謙虚に受け止めて必要とあれば言動や姿勢を改めることができるのは、能力の高い治療者だと思います。

ウィニコットのGood enough mother、「程よい母親」が髣髴されます。
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Unknown (アンノウン)
2014-06-08 04:27:30
はい、大切にしたいと思います。

他者を尊重するとは、どういった感じか?分かってきました。

すると、過去の祖母から受けてた感覚は『全て受け入れてくれた。』だったし、母からは未熟だけれど愛情だったのも分かってきました。

お手本があって初めて他のが分かるもんですね。

私の場合の理想化は、嫌な面を見ると治療が失敗するのでは?と不安に陥り、理想化して『大丈夫。』と自分の心に言い聞かせてました。(前のを読み直したら、意味不明だったので。)
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Unknown (Taka Kurokawa)
2014-06-08 15:41:35
アンノウンさん、

いいことだと思います。他者を尊重するには、本当の意味で、自分を尊重できないといけないので、とても大切なことだと思います。理想化は、そうしたやりとりのなかで、とても自然なプロセスだと思います。
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