興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

すべては受け止め方の問題?

2010-11-07 | プチ認知行動心理学
 私たちは普段往々にして、日常生活で起きた何らかの出来事が、良くも悪くも直接に私たちの精神状態に影響を与えると信じています。それが当たり前すぎて、そんなことを考えたこともない、という方も多いのではないかと思います。

 具体的な例をあげると、たとえば、最近人間関係が少し微妙なひとにちょっと大事な件で電話して留守番電話にメッセージを残したら一向に折り返しの電話が来なかったりしたとき、私たちは何らかの感情を経験するでしょう。急いでいるときに乗っていた電車が緊急停車してしばらく動かなくなったり、夜疲れて家に帰ってコンピュータを付けたらインターネットがダウンしていたり、お風呂に入ろうとしたら熱いお湯がでなかったり、就寝後に友人の思わぬ電話で起こされたり。

 或いは、最近好意を抱いている人から休日に思わぬ電話が掛かってきたり、最近人間関係が微妙になっているひとから予想外に親切にされたり、銀行の残高をチェックしたら認識していたものよりもたくさん残っていたり、美容院に行ったらイメージ以上に気に入った髪形にしてもらったりという経験をしたら、やはり我々は何かしらの感情を経験することでしょう。

 例が長くなったけれど、このようにひとりの人間の日常生活において、実に様々なことが起こります。それで冒頭に戻りますが、私たちの多くは往々にして、そうした出来事が「直接」に、私達の気分や感情に影響を与えると信じています。

 しかし実際は違います。

 私たちの人生に起こる様々なできごとは、私達の気分や感情には「直結」はしていません。

 そのプロセスは普段自動的で非常に速いものなので、まるであたかもそうであるように錯覚しがちですが、実際に我々の感情を決定しているのは、私たち自身なのです。
 より正確にいうと、私たちの、そのできごとに対する解釈、受け止め方です。つまり、1)何らかのできごと→2)解釈→3)感情、気分の変化、という3段階が存在します。
 
 たとえば最初の例で、最近微妙な関係のひとに少し大事な用件で電話をして出ないから留守電を残したら一向に応答がない、というものですが、関係が微妙なひとに大事な用件で電話する時点で、我々は何かしらの感情、たとえば、不安など、経験しています。そこで電話にでないし留守電にも一向に応答がないとなると、私達はいろいろな想像や憶測をしたりします。
 もちろん相手と、それから私たちの性格などから、経験する感情も異なるわけで、ある人は「やっぱり避けられてるのかな」とか、「やっぱりよくない関係」とか、「もう一度電話してみようか、どうしよう」とか、不安を経験するでしょうし、またある人は、「逃げてんじゃねえ、ふざけんな」、「どんなに関係が微妙でも礼儀ってものがあるでしょう。おかしくない?」とか、怒りやフラストレーションを経験するかもしれません。

 そうです、まず、性格によって、受け止め方も違うし、まず大体において、この時点ではまだ「なぜ向こうが折り返しの電話をしてこないのか」正確なことな何も分かっていません。
 相手は携帯電話を家に忘れてバケーションに行ってしまったのかもしれないし、携帯電話をなくしてしまったのかもしれないし、あるいは何らかの理由で応答の意思はあるもののその準備をしていたり、向こうも不安や葛藤を経験していてなかなか電話できなかったりしているのかもしれません。もしかしたら、憶測がそのまま当たっているかもしれません。

 つまり憶測に基づいてひとは感情を経験するわけだけれど、前述したように、人それぞれの性格で反応も違うし、共感的な人、人からの評価に敏感な人、過去に大きな拒絶などの経験をしている人、自己評価の低い人、相手に気を遣うひとの経験する感情は、人間関係をあまり重視していない人、自己評価の高いひと、過去に大きな拒絶などの経験がないひと、個人主義な人、自己愛的な人、などの反応とはかなり異なると思います。

 このように、ひとそれぞれ、性格も違えば人生経験も異なるので、解釈のしかたも異なるのですが、ご覧のように、ひとはそのできごとの「解釈」や「捉え方」によって自分の気分に影響を及ぼしているわけで、つまり、単純化していうと、「ひとはその本人の許可なくして惨めな気分にはならない」し、「ひとはその本人の許可なくして幸せな気分にはならない」ということができ、この見地に基づいていえば、我々の感情経験は、少なくとも「ある程度」は、我々のとらえ方次第、つまり我々が自分で決めている、コントロール可能、ということがいえます。

 たとえば多くの人がポジティブな感情を経験するであろう、「最近微妙な関係にある人から思わぬ親切を受けた」という例においても、ひとによっては、「何か裏があるんじゃないか」と勘ぐって不安になったり、「何をいまさら、うざいなあ」と苛立ったりするかもしれません。つまりそのひとの捉え方で、ひとは同じ経験で喜びを感じることもあれば、不安や苛立ちを感じることもあるのです。
 
 この事実が頭にあると、何か、とくに好ましくない出来事が起きたときに、最初はもちろん反射的にネガティブな感情を経験するわけですが、「なぜ自分はこのできごとでネガティブな気分になっているのか」、と、少し立ち止まって自問してみると、「どのように自分がそのできごとを解釈しているのか、捉えているのか」ということが明確になってきて、その解釈に短絡した決め付け、過去の経験に基づく信念など、「現実とはあまり関係ないかもしれない」曲解が見つかることも多いです。

 少なくとも、自分が今この瞬間、ある程度憶測によって感情を経験しているのだ、ということは分かるので、その解釈の修正も可能になってきます。

 とくにその感情が「極端にネガティブ」なものであった場合は、現実とは異なる曲解が起こっている可能性が高いです。
 もちろん、一般的にネガティブなできごと、というのは誰にとってもそれなりにネガティブな感情を伴うものです。でもその出来事が「極端」に、「急激」に、あなたを鬱にしたり、不安にしたり、怒りを及ぼしたりしたときに、「それが本当に出来事に釣り合った感情」なのか、とよく見つめてみるとその物事から距離がとれて、極端な感情からの脱出もしやすくなりますし、たとえその感情が出来事と釣り合ったものである、という結論に至ったときでも、その自分の感情を自分自身できちんと受け止めてあげやすくなるので、やはり気分は楽になることが多いです。

 最後に、一般的にポジティブであろうと思われる経験をしたときに、何故か自分はネガティブな感情を抱いている、と思い立ったときに、「なぜか」について、つまりその捉え方、解釈について立ち止まって考えてみると、思わぬ発見があったりして、自己理解も深まるし、解釈を修正して、素直にその「ポジティブなできごと」を「ポジティブ」に経験できるかもしれません。


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
人生楽観! (Nancy)
2010-11-13 05:02:36
人間いちいち頭で考えるから、オカシクなるんです。
かの養老大先生も著書の中で仰っています「脳が自分を支配していると勘違いしてはいけない」って。
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Unknown (Yodaka)
2010-11-13 14:29:01
Nancyさん、

世の中、大きく分けると、頭で考えすぎるひとと、あまりにも考えなしな人がいるように思います。この記事は、両者にも言えることだけれど、どちらかというと、いちいち頭で考えることをしない人についてかもしれません。考えない人は、思考が本当に短絡していて、外で起こったことに即座に反応して行動したりします。
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日々変わらねば! (シオピー)
2013-07-01 02:44:26
感情を制御するのは解釈である、という事は、解釈の場合分けを尽くせば、人の心が演繹的に解析できるということになります。

否定的な感情は、その元となる否定的な解釈がもたらした結果と言えるでしょう。

という事は更に、否定的な解釈を導いた、個々の事実の一定量以上の集積があったからだと言えます。

人は皆、気付かぬ間に、相手を不愉快にしてしまう出来事を、沢山生産していることに、謙虚に反省し、昨日の自分を超える努力を、常に尽くさねばならないと、考えさせられました。
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Unknown (Yodaka)
2013-07-03 15:07:21
ソランさん、

この記事で述べているものは、認知行動心理学的には「Automatic thoughts、自動的思考」と呼ばれるもので、ソランさんの言われる「個々の事実の一定量以上の集積」は、「中核的信念、Core belief」と呼ばれる、さらに深いものです。このCore beliefがAutomatic thoughtsの種類に影響を与えるわけですが、これについてはまた別の機会に述べてみたいと思います。いずれにしても、大切なのは、人のすべての感情は大切なわけで、Negativeな感情も、進化心理学的に、その人のサバイバルに必要なものです。ただ、問題なのは、その人の特定のAutomatic thoughtsが、その人の感情を「必要以上に」大きくし、機能不全なものにしてしまうことで、そこで、解釈の検討など、自己分析が役立ってきます。
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